小説「ある定年」③
その3、
赤城山から吹き下ろす空っ風に、ちぎれ雲が彷徨う暇も与えられず、流れ去っていく。織姫山を覆う寒々とした裸木が一層、虚しさを掻き立てる。
「分かりました。社の方針なら仕方ありません」
江上はスマホのスイッチを切り、ズボンの左ポケットに押し込んだ。
支社長・佐藤は単刀直入に切り出した。まるで裁判官が判決主文を読むように。
「宇都宮支社が9月いっぱいで閉鎖となります」
(閉鎖、支社が?)
単なる事務連絡か、もしくは淡い期待もあっただけに、江上は一瞬、戸惑い、すんなり受け止めることができなかった。支社閉鎖となると、栃木県版を放棄することになる。
「全くの想定外で、まさか、このような経営判断を下すとは私も考えていなかったので。皆さんの協力で、より一層、読者に親しまれる県版を作っていこうと思っていた矢先だったので、本当に残念で」
話しぶりから、支社長の佐藤も全くの寝耳に水だったようだ。
支社長は昨年、本社政治部から支社に配属。地域密着、読み応えのある記事の出稿など本社の編集方針に従い、デスク以下の部下を指揮し、自ら積極的に現場取材にも赴いている。地元政財界、新聞販売店、主要企業との交流も密にし、増紙増収に向けた努力も怠らなかったらしい。人柄も温厚で、部下の信頼も厚い。
「それで、今後の江上さんの身の振り方なんです、私がお伝えしなけれがならないのは。山口さんら正社員は通常の人事異動での配置転換となるのでしょうが」
支社長の佐藤は言いにくそうに、
「ところで、江上さんはいつ、契約更新でしたか?」
と、話を向けた。
「私の場合、半年更新の契約で、9月末で契約切れとなります。65歳、ちょうど9月が誕生日なものですから」
「65歳、定年を迎えるということですか。江上さんは確か、9年前からこの日新で働かれて」
「はい、9月末で9年9か月在籍したことになります」
「本当、長い間、ご苦労様でした。私としては今後も長くお力をお借りしたいと思っていたのですが。なにぶん、支社が閉鎖ということなので、誠に残念ながら。近く本社の担当者から正式にお話があると思います。またご連絡差し上げます」
支社閉鎖には驚いたが、雇用に関してはある程度覚悟ができていた。55歳から派遣社員として勤め、世間並みの65歳で定年を迎える。会社側も法律で定める65歳までの雇用義務を果たし、既に派遣会社からは事前に「派遣先も65歳定年であり、9月以降の契約更新は行わない」との連絡を受けていた。
では、なぜ連絡を受けて当惑したのか。地元読者がいる以上、県版はなくならない。ましてや販売店にとって、地元情報が希薄となり商品価値の下がった新聞を拡張することは死活問題に直結し、本社経営にも影響する。だから県版は残し、そのための最低限の記者も配置する。そんな自分勝手な思い込みがあったからだ。
(淡い期待は決して実らない。片思いが片思いで終わるように)
ポケットのスマホが着信を知らせている。山口に違いない。
「支局長から連絡は来た?」
「ああ、今、聞いたよ。秋から支社閉鎖ってことだろう」
「そうか。本当に驚いたな」
山口は、江上の心情を慮るように言葉少なに電話を切った。
9年10カ月前になる。
山口から突然、電話がかかって来た。
「久しぶりじゃない。どうした、元気でやっている?」
「お陰様で、毎日、呑気にやっているよ」
「春先だっけ、歌麿の仕事が終わったのは。その後、音信を耳にしなかったから、江上さん、どうしてたのかなと思って」
江上は日刊栃木を52歳で早期退職後、最後の赴任地だった栃木市の依頼で江戸時代の浮世絵師・喜多川歌麿の足跡調査を頼まれた。歌麿は同市内の豪商の元を何度か訪れ、大作「雪」「月」「花」などの作品を残したとされていた。市の肝いりで調査団体を立ち上げ、2年半の間に、新たな肉筆画2点を掘り起こし、全国的な話題にもなった。
「時間があるから、図書館に通って読書三昧かな。通算30年働いだわけだし、しばらく充電期間だと思って」
「羨ましいな。こっちは毎日、相変わらず、仕事に追われてさ。細々した頼まれものの取材でうんざりするよ」
「でも、仕事があるうちが花だよ。この先、毎日、家にいて、やることないってのも耐えられないと思うんだ」
「ところで、何か、仕事は考えていないの」
「今はまだ具体的には。歌麿でまちおこしに関わったから、ネットで地域おこし協力隊の仕事なんか探しちゃいるんだけど。雇用保険も近く切れるし、そろそろ本腰入れて探そうとは思っているんだ。だけど、このご時世だし、50過ぎて仕事を見つけるのは簡単じゃないだろうし」
「じゃ、今のところ、再就職先は決まってないんだね」
「そうだけど、何か?」
「うちの支社長から相談受けていて、誰か、記者経験者はいないか、頼まれているんだ。どう、もう一度、記者に戻る気はない?」
「俺が、記者にもう一度?」
全く想定外のオファーだった。まさか一度離れた記者職が舞い込んでくるとは思わなかった。3年余のブランクで勘は鈍っていないか、全国紙の記者としてやっていけるのか、と不安がよぎった。
後日、支社長と面談すると、在宅勤務で足利、佐野両市の行政、街ダネを出稿して欲しいという。体力に陰りの見えた中年記者にとって無理のない最適ともいえる条件で、2つ返事で引き受けた。自ら正社員の道を絶ち、市民団体の非正規労働者を経て無職の身になった江上にとって、先行き不透明な人生終盤の航路を乗り切る救いの船といえた。
「本当、渡りに船ってことね。それにしても仕事決まって良かったわ」
妻の千香が溜息交じりに安堵の表情を浮かべた。娘は既に社会人となり、下の息子も大学卒業の目途がついていた。家計面よりも、濡れ落ち葉症候群、ワシも族の懸念を彼女は持っていたのかもしれなかった。
捨てる神あれば拾う神あり、を実感し、縁の不可思議さを身をもって知った。歌麿調査の実績も運を引き込んだに違いない。自分が想像する以上に、他人に観察され評価されている。心機一転、第3の人生をより一層、真面目に愚直に邁進しようと誓った。
55歳でスタートした2度目の記者人生は充実していた。地方紙の頃は地域密着の記事を質量ともに求められたが、大手紙の場合、紙幅が狭く、比較的余裕のある取材が可能となった。派遣社員という気楽さも無論あった。
雇用契約に当たり、当時の支社長から
「1、2年ではなく、長くお付き合いしましょう」
と、長期の契約更新をほのめかされていた。
地方紙記者時代に手掛けられなかった腰を据えた取材を手掛けようと誓った。転勤の心配はない。長期戦略を持つことができた。
テーマは即決した。
(地域に埋もれた歴史文化資源を掘り起こそう)
念頭に歌麿調査の経験があった。世界的に著名な歌麿の肉筆画が一地方都市の栃木市に埋もれ、発掘することで知名度がアップし、毎年、歌麿まつりが開催されることになり、まちおこしに一役買っている。残された記者人生を傾注しようと思った。
「本紙の1面トップ、すごいじゃない。俺なんか、本紙1面に載る記事なんか一度も書いたことはない。立派なスクープだよ」
2年後の秋、同僚の山口が興奮した口調で電話をかけてきた。
佐野乾山の自筆伝書、陶器類が再発見された話題だった。佐野乾山は江戸時代の画家・尾形光琳の弟・乾山が佐野市で残した作品類をいう。昭和30年代後半の激しい真贋論争を契機に、美術界ではタブー視された案件だった。
江上は3年近く、文献を漁り、当時の関係者と接触し、追い続けた。地道な取材の末、民家に秘蔵されていた真正とされる作品類を確認し、公にした。作品は佐野市に寄託されている。
その2年後には、地道な調査が高じて、小説を手掛けた。
発端は安土桃山時代の刀工・堀川国広だった。国広の最高傑作とされる山姥切国広が足利市で展示されることになった。数年来の刀剣ブームの中、刀剣ファン待望の秘蔵刀が20年ぶりに公開されるとあって、一早く取材し報道すると、支社に新聞を求める電話が全国から殺到するなど大騒ぎとなった。
(足利と国広の関りを物語として分かりやすく紹介できないか)
仕事の合間を見ては、地元の図書館を通じで国会図書館から文献資料を取り寄せたり、国広の生まれ故郷の宮崎市内やたたら製鉄の出雲を取材したりして、小冊子「国広、足利で打つ」をまとめ、自費出版した。
記者経験に加え、歌麿調査を通じてまちおこしに携わった賜物であり、第2の記者人生でテーマを決め取材活動を重ねたからに他ならない。地域に埋没して歴史文化資源はまだまだある。足利と北斎の関係も興味深い。
日刊栃木28年半、日本新報9年9カ月、通算38年5カ月、新聞報道に携わり、第4の権力とも揶揄されるその影響力、信頼性は身を持って感じている。
その記者職に終止符が打たれる。
(翼をもがれた鳥になる)
江上は、胸の奥底に言い知れぬ虚しさが沸き立つのを感じた。
その4、に続く。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?