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柝が鳴る~蔦重と写楽~⑫

  最終第12話 
 2年が経った。
 寛政9年5月6日夕、初夏の乾いた風が熱っぽい額を撫で、蔦重は重い瞼をそろりと開いた。むさ苦しい男四人が覗き込んでいる。
「何だ、お前さんら顔をそろえて。どうも心配かけたようだな」
「倒れちまったって聞いたんで、駆けつけた次第で。それでどうです、躰の方は」
「鉄藏、見りゃ、分かるだろう。もうすぐお迎えが来る」
「何、弱音を吐いているんで、旦那らしくもねえ。旦那にはまだ、働いてもらわねえと、こっちが困るんだ」
「寝込んでるってのに、人使いが荒れえ奴らだ。まあ、しょうがねえ」
 青白く、むくんだ顔に、蔦重は苦笑いを浮かべた。
 昨年秋以降、倦怠感、食欲不振と体調に支障をきたすようになった。寄る年波と高をくくっていたが、次第に両足のしびれに悩まされ、酷暑の夏を迎えると、動悸、息切れ、手足に力が入らず、床に就くようになった。不治の病の江戸患いと診断され、蔦重は死を覚悟している。
「折角、お前さんら集まってくれたんだ。しゃべれるうちに、言い残してえことがある。まず鉄藏からだ」
「へい、旦那、何でしょう」
 枕元の鉄藏が一度、背筋を伸ばし、蔦重に顔を寄せた。
「まず、礼を言っとかねえとな。写楽の手伝いじゃ世話になった。ところで、最近はどうだ。俵屋宗理の号で描いているらしいが、食うのに困っちゃいねえのか」
「ご心配頂いてありがてえ。相変わらず、赤貧洗うがごとしで。嫁や餓鬼にはすまねえが、今は画技を磨きたくてしょうがねえんで」
「破門されたが、春章の所で絵の修行は散々しただろうよ」
「とんでもねえ。この道まだ20年弱で、まともに犬、猫一匹描けやしねえ。行く行くは森羅万象、何でも描きてえんで。それに古今東西、いろんな流儀があるでしょう、狩野派に土佐派に琳派、浮絵の技法も腕に叩き込まなきゃなんねえ。寝食忘れて筆を握る毎日で」
「なるほどな。鉄藏、お前さんの強みはその飽くなき貪欲さだ。画に賭ける思いは誰にも引けをとらねえ。そのまま一心不乱、打ち込んで画鬼になり切るんだ。きっと一角の絵師になる。太鼓判を押すぜ」
 愛弟子の歌麿は天才肌だが、鉄藏は精進して技を磨く職人肌だ。緻密な計算をし尽くし、緻密な画を究めるに違いない。
「旦那、あっしのことはどうなんでえ」
 鉄藏の向かい側に座る一九が鉄藏を押しのけるように覗き込んだ。
「お前も鉄藏と同じだ。芽が出るにや、ちっと時間がかかるかしんねえなあ」
「どうしてです。見込みがあるから、旦那はあっしの黄表紙を何冊も出してくれたんでしょうよ。違うんですか」
「もちろん、才能がなきゃ、出版はしねえ。だがよ、お前さんは山東京伝と同じで文才も画才もある。その上、上方で浄瑠璃を仕立て、狂歌、狂言、川柳に落語と何でもござれときている。お前さんの器にあったもっと面白え戯作が出来そうなもんだが」
「褒めていただいてありがてえが、どうすりゃいいのか見当もつかねえ」
「器用貧乏、多芸は無芸ってこともあるしなあ」
「なんでえ、褒めたと思ったら今度は貶すのかい。何でも手を出してえんだからしょうがねえ。どれも出来は悪くねえはずだが」
「全部が平均点でどうすんだい。一つの道を究めねえと後悔するぜ。人生そんなに長かねえ。そんなに何でもやりたきゃ、いっそのこと、狂歌でも浄瑠璃でも入れ込んだ戯作なんても面白えかもしんねえが」
「余計、頭ん中がこんがらっちまう。旦那、何か教えてくれえ」
「世相をよく見極めるんだな。お上が締め付けりゃ締め付けるほど、胸のすくような面白え戯作を読みたくなるもんだ。散々好き勝手やって酸いも甘いも嚙み分けたお前んなら分かるはずだが。ううつ……」
 蔦重は顔を顰め、左胸に手を当てた。
「どうしたんで、旦那。しっかりしてくんな」
「ちっと、差し込んだだけだ。瑣吉か。いや、曲亭馬琴だったな」
「しゃべらねえほうがいいでしょう。お休みになって下さい。躰にさわります」
「もう長かねえんだ。しゃべらせてくれ。まあ、瑣吉にはもう言い聞かせることはねえがな。お前さんの高尾船字文を出版できて、肩の荷が下りた」
「旦那のお陰で、進むべき道が開けました。これからも読本一本で筆を走らせます」
「せいぜい精進しな。お前さんならもっと面白え大作を残せる」
 心臓が早鐘を打ち、息苦しい。蔦重は両目を閉じ、落ち着くのを待った。
「歌さんの顔も見えたな」
「ご無沙汰しました。旦那、しっかりなさって下さい」
「見たぜ、鶴喜から出した錦絵。輪郭線を抑えた没骨で仕上げるなんぞは心憎いばかりだ。さすが女を描かせちゃ、お前さんの右に出る者はいねえ」
「揃物の錦織歌麿形新模様でしょう。旦那に認めて頂き、光栄でございます」
「だがな、コマ絵の一文は頂けねえな」
「安物買い込む版元の鼻ひしげ、ですかい。決して蔦重の旦那を指してるわけじゃありません」
「版元を茶化すのは構うことねえさ。ちっとも気にしちゃいねえ。私が言いてえのは、調子込んで、お上に盾突くんじゃねえ、ってことだ」
「お上は私を目の敵にして、今度は判じ絵までご法度にしたんですぜ。旦那だってお上に盾突いてまで洒落本を出版したじゃねえですか」
「いい加減にしねえか……うぐっ」
「旦那……」
 蔦重は額に脂汗を浮かべ、息も絶え絶えに言葉を継いだ。
「もう青二才の絵師じゃねえんだ。天下の歌麿じゃねえか。無用な喧嘩はするもんじゃねえてんだ」
 お上は歌麿を敵視するかのように再三、お触れを発している。今度、歯向かえば、お縄となり、筆を折ることになりかねない。手塩を賭けて育てた愛弟子が同じ痛い目に遭うのを見過ごせなかった。
 暮れ六つの鐘が鳴った。
 胸の動悸が徐々におさまり、手足の痺れも薄れ、まるで春うららの穏やかな気持ちに満たされてくる。突然、躰が浮遊した。閉じた目を開くと、天井付近から若い女が赤ん坊をあやすのを見下ろしている。その女は瓜実顔で、右の目元の黒子に覚えがある。幼少時に別れた母・津与に違いない。とすると、赤ん坊は己自身か。
 感傷に耽る間もなく、平賀源内、大田南畝、北尾重政、恋川春町、朋誠堂喜三二らと交流する様子が次々と浮かんでは消え、芝居小屋の桟敷から一人の男を注視する場面が現れた。男は写楽だった。
(お前さんのお陰で目が覚めた。人を育てるのが天命だったことを。ありがとよ)
 写楽が微笑み、消えた。
 荒い息遣いが途切れ、蔦重のひび割れた唇が開いた。
「拍子木が鳴ってら、命じまいの」
                           (了)
                                 

 

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