小説「ある定年」④
その4、
大皿にはマグロ、アジ、アカガイ、イカ、エビに卵焼きが盛られ、桶に酢飯、小皿に海苔と、手巻き寿司の支度がしてある。その上、小鉢に好物のニラのおひたしまで食卓に載っている。
「どうしたの、今日はご馳走じゃない」
「そうよ。わざわざ朝倉町の川清まで行って、あなたの好きな生きのいい魚を買ってきたんだから」
「だから、何で。9月末で仕事がなくなるんだよ、電話で話したじゃない、支社長から突然、連絡が来たって」
「分かっているわよ。だから、9月末の65歳定年までは、今まで通り働けるんでしょう、首切られずに。よかったじゃない、無事、定年まで勤め上げられるんだから。一足早い、定年祝いと思ったの」
「まあ、そう考えればそういうことだけど」
「会社が雇ってくれないんだからしょうがないでしょ。それに10年近くも雇ってもらったんだから、有難いと思った方がいいわ。これから準備期間も十分あるし、いろいろ考えられるじゃない、やりたいことがあるなら」
確かに妻の言い分には一理ある。リストラで即、首切りにならず、65歳定年までの担保は得たことにはなる。10年前、失職し、途方に暮れる寸前、仕事にありつけたことを振り返れば、妻の指摘ももっともだ。
江上は軽く頷くと、焼酎のお湯割りを口にした。定量はグラス一杯。数年前から、高尿酸血症のためフェブリクを服用し、肝臓の機能も低下気味だ。
「でもなあ、支社閉鎖だからな、驚いたよ。内心、定年後も記事一本の請負で続けられるかなとも思っていたんだけど」
「話には聞いていたけど、新聞社って本当に経営が大変なのね。私がいた頃とは段違いじゃない」
2人は社内結婚で、妻は結婚するまで事務職として勤務していた。40年前の当時、新聞社は新卒者の花形の就職先の一つで、日栃の場合も栃木県内の優良企業として、新卒者に人気があった。給与、福利厚生の待遇も良く、入社当時は年間ボーナスが月給の10か月分の時もあった。
「バブルのころまでだよね、新聞社の景気が良かったのは。毎年、きちんとベースアップがあって、ボーナスも右肩上がりだったからな」
「私はバブル前に退社しちゃったから、その後のことは、あなたの給料明細でしか実感できなかったけど」
「組合役員をやっていた頃、バブル後入社の連中が嘆いていたもんな、全然、給料が上がんないって」
「本当、私たちはいい時にいたのね。あなたもどうにか逃げ切れた感じだし。でもこんな状況じゃ、新聞業界は若い人に敬遠されちゃうんじゃない」
「それはそうだよ。新聞各社、どこも大変だからな。マスコミ志望者は受信料収入で経営が安定しているNHKなんかに流れちゃうよ」
「若い人は新聞を取らないみたいだから。奈々子だって、太郎だって、どっちも新聞はとってないし、父親が新聞記者なのにね」
「しょうがないよ、ネットやテレビでタダでニュースが見られるんだから、わざわざ購読料払って新聞をとらないよ。バブル崩壊以降、若い世代の給料が伸び悩んでいる事情もあるしな」
「そういう時代なのね、仕方ないわ。もうネットの時代なのよ。スイッチ付ければ新しいニュースが瞬時に分かるんだから」
江上は常々、感じていた。どうして新聞社は自社のホームページでニュースを垂れ流しにするのだろう。しかも競うようにリアルタイムで。貴重な商品をタダで提供する商売人が世界中で、どこにいるのだろうか。タダで商品を手に入れられて、わざわざ同じ商品に金を出す人はいない。
「ネットの時代は社会の趨勢だから仕方ないにしても、新聞社が今のように、経営危機だからといってリストラに走って、記者職の人間をどんどん削減していったら、新聞そのものがなくなっちまうよ」
「新聞がなくなってなんで困るの?ヤフーやグーグルの検索サイトで見ればすむことじゃない」
「そんな単純な話じゃないんだ。検索サイトは新聞社から記事を買って掲載しているからね」
「そうなの?自前の記者を持っていないの」
妻の千香は箸を止め、怪訝な表情を浮かべた。
記者の役割は例えば、難解で不親切な役所の情報を咀嚼、理解して、市民目線で分かりやすく伝えることにある。英語でメディア、媒体、伝達手段といわれる所以だ。情報の1次処理を担っている。
「記者がリストラされることは、情報がリストラされることなんだ。決して市民にとって好ましいことじゃないよ。ウクライナに侵攻するロシアを見てごらんよ。独裁者が情報統制して、自国に都合の悪いニュースばかり流しているじゃないか。正確な情報が入手できないばかりに、国民は戦争に駆り立てられて、国際的に孤立しつつあるだろう」
「難しいことは分かんないけど、自由な報道は必要と思うわ。それじゃ、記者がいなくなると困るのね、あなたでも」
千香の最後の一言に、江上は唇を歪めた。
「ところで、どうするの?これから、何か考えてるの。定年後、結構、長いし、仕事とか趣味とか、見つけないとね」
「そう言われてもなあ。今日連絡もらったばかりで、無理だよ、まだ。趣味って言っても毎日、釣り遊びするわけにはいかないし」
13年前、日栃を早期退職した際、喜び勇んで毎日、フライフィッシングに出かけたが、10日程で飽きてしまった。死ぬほど好きなら別なのだろうが、趣味は所詮、趣味に過ぎないと江上は思った。
「そりゃ、そうだろうけど。何か、やりたいことはないの」
「と言われてもな。うん、まあ、よく考えるよ」
「まあ、とりあえず紆余曲折あったけど、世間並みに65歳まで働いたんだものね。しばらく休むことね」
37年前、江上28歳、妻26歳で結婚した。翌年、娘の奈々子、その2年後、息子の太郎がそれぞれ誕生し、1家4人、平和で楽しい家族生活を送った。子供2人も独立し、今は夫婦2人暮らし。江上の両親は既に他界し、妻・千香の父親は健在だが、千香の妹夫婦の元で同居し、親の介護の心配もない。
「でも働くつもりだよ。家にじっと籠って、気儘にのんびりは性に合わないし、老けちまうから」
「でも65歳で年金が満額もらえるんでしょ。大丈夫じゃない?焦らなくてもどうにかなるんじゃないかしら」
「年金か?今まで真剣に考えたことはないけど。一体、毎月、いくらぐらいもらえるのかな」
「ちゃんと、年金事務所で確認してね。老後の命綱なんだから。それに消えた年金問題があったでしょ」
その5、に続く。
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