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Every dog has his day.⑯

 第16話、
 気が急く。車の走りがもどかしい。助手席の神村に気付いて、慌ててアクセルペダルを緩めた。
 江上は神村を載せ、東北道を宇都宮方面に向かっている。西郷宅には小一時間で到着予定だ。
 突然の訪問に所有者の西郷はどう反応するのか。手紙の文面から、彼女は心底、神村を信頼している。門前払いをしないだろうが、江上は初対面だ。同行目的を耳にして難色を示す懸念もある。彼女に非常識と受け取られれば、暗闇にようやく灯った一筋の光明が消え失せてしまうかもしれない。
「乾坤一擲、表と出るか、さもなければ裏に出るのか、どっちかですね。ちょっと緊張して」
「まあ、そういうことだ。時に勝負しないと」
「やはり今日がタイミングですか」
「そうだね、直観さ」
「直観ですか?」
「人事を尽くして天命を待つ、あの手紙はまさに天命じゃないかな。西郷の奥さんは困っているような気がする。仮に栃木市に譲渡するにしても、どうしたらいいか途方に暮れている気がするんだ」
「そうですね。素人が売るとなると、どのくらいの額で売れるのか見当もつかないでしょうし、金額を提示されても一体、高いのか安いのか、判断できないと思います。真贋鑑定にも不安でしょうね」
「美術商の話があるから勝手に売買の話になっているだけで、市が相手となると一足飛びに譲渡の話になるか分からないしな。寄贈することはないだろうが」
「譲渡の前段として、寄託が適切だと思います」
「寄託とは、聞き慣れない言葉だが」
「寄贈ではありませんから、所有権は西郷家のままで、作品を市に預かってもらうんです。所有者にとっては火事盗難の心配もなくなりますし、市は無償で預かる代わりに展示できるでしょう」
「それはいいね、一石二鳥だ。その寄託なら了解するだろう。事が進んだら、江上さんからよく説明してほしい。まあ、順調に進展すればの話だが」
 神村は心を落ち着けるように、右足で2度、3度と床を踏んだ。電撃訪問が果たして吉と出るか凶と出るのか。江上の胸中も期待と不安で波立っている。
「それにしても事態が急に動き始めましたね」
「動いたっていうか、動かしたんだろう」
「動かした?」
「奥さんの話じゃ、美術商が『周辺が騒がしくなっているので』と売却を迫っている話じゃないか。それに奥さんが『例の件は静かにしてほしい』なんて、突然、私の所に連絡してきたりして。動かした張本人がいるってことだろう」
「それって、私たちのことですか」
 江上が思わず顔を向けると、神村は含み笑いを浮かべた。
「うん、まあ いいや。インターチェンジを下りたら昼にしようよ。戦の前の腹ごしらえだ」
 江上は記者時代、特集記事の過程で西郷家周辺を取材し、関係者から「夫の死後、売却した」との情報に接した。その時点で既に人伝に西郷の耳に入り、彼女は警戒していたのか。その後、江上らの歌麿調査が新聞、テレビで騒がれ、噴火口から噴煙が立ち上り、溶岩が湧き出るように事態が動き始めたのかもしれない。
 インターチェンジを下り、幹線道路沿いの蕎麦屋で昼食を済ませ、西郷宅へと向かった。市街地を抜け、畑も散在する住宅街の一角に、小体な和風平屋建てのその家はあった。表札に西郷とある。
「さて、行こうか」
 神村はジャケットの襟を両手で正し、門柱のドアフォンに来意を告げた。まもなく「はい」と女性の声で応答があった。
 在宅はしている。伸るか反るか、奇襲は成功するのか。江上は大きく深呼吸した。
「あら、神村様。わざわざお出で頂いて。先日はお手紙で失礼をいたしまして」
 西郷は恐縮した様子で、神村にお辞儀をした。落ち着いた雰囲気の、小柄な女性だった。
「こちらこそ突然、伺って申し訳ない。手紙を頂いて、一度、お目にかかってお話ししたほうが間違いがないと思って。たまたま、ここにいる江上さんが会社に顔を見せたから、いい機会だと思ってね。彼は栃木市に依頼されて、例の件を調査しているから」
「初めまして、江上と申します。突然、お伺いして申し訳ありません」
 江上は名刺を差し出し、頭を下げた。
「それはご苦労様です。狭苦しい所ですが、どうぞ2人ともお上がりになって下さい」
 西郷はドアを開き、2人をすんなり家の中に招じ入れた。
                       第17話に続く。
 第17話:Every dog has his day.⑰|磨知 亨/Machi Akira (note.com)

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