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Every dog has his day.⑰

  第17話、
「あっ、そうでした、少しお持ちください」
 西郷未亡人は黒漆のお盆に急須を載せると席を立ち、襖を閉めた。湯茶を差し替えるらしい。
 和室に通された後、彼女は神村に何度も頭を下げながら、近況を報告し、非礼を詫び続けた。神村が長く西郷夫婦と交流を持ち、未亡人となった後も相談に乗り、支えてきたことがうかがえる。江上は神村の脇で、2人の会話が一段落するのを静かに待っていた。
 床の間にはアジサイとカキツバタをあしらった生け花が青磁の水盤に生けてある。普段から四季折々の花を楽しみ、潤いのある日々の生活を送っているらしい。彼女の繊細なもてなしの心が偲ばれた。
「安心したよ」
 神村は呟き、息を長く吐いた。
「本当です。胸のつかえが晴れました」
「この辺で引き上げようか。今日は顔つなぎということで」
「そうですね。お会いできただけで十分です。私も最初から無理をしないほうのが賢明だと思います」
「奥さんが顔を見せたら、挨拶して帰ろう。これで今後、連絡は取りやすくなるから、対策をよく考えて出直した方がよさそうだ」
 正直、後ろ髪を引かれる。この機会を逃して、次回はあるのだろうか。美術商の動きも気になる。だが、この場は神村の判断に任せるしかない。次回以降にどうつなげるか。江上は青写真を描けず歯がゆい。
 襖が開き、未亡人の姿が見えた。急須を載せたお盆を座卓の上に置き、再度、奥に消えると、すぐに両手に藍染の風呂敷包みを抱えて来た。
(まさか)
 江上の胸の鼓動が早打ちし始めた。
 彼女は江上の脇に座り、座卓にその包みを差し出すように置いた。
「どうぞ、ご自由にご覧になって下さい」
「中には?」
「ええ、家宝が入っております」
 江上は思わぬ展開に前のめりになり、その包みに視線を落とした。顔を上げると、彼女は口元に笑みをたたえて頷いた。
「お探しだったんでしょう、栃木市ゆかりの歌麿の作品2点を。遠慮なさらずに」
 未亡人は後ろを振り向き襖を閉め、神村の前に着座した。
「奥様が折角、そうおっしゃるのだから拝見させてもらったらいい。私はまだ奥様と話があるから」
 神村は機転を利かせてて、江上を促した。この千載一隅の機会を逃すなという暗示に違いない。
 江上は取材バックから手袋とマスクを取り出し着用した。大きく深呼吸をし、静かに風呂敷を解いた。
 中には、飴色の古びた桐箱2つが収まり、それぞれ鐘馗図、大黒布袋相撲図と箱書きされ、ともに歌麿筆と墨書されている。
 白檀だろうか。甘い香りが鼻腔をくすぐる。防虫のためだろう。家宝として長く大切にされているようだ。
 鐘馗図の箱の蓋を取り、掛け軸を取り出した。
 追い求めてきた歌麿の肉筆画が手元にある。江上は両手を合わせ、頭を下げた。掛け軸を床の間の前の畳の上に移し、巻緒を解く。会話が途絶え、室内が静まり返る。目の不自由な神村は両耳で、その時を味わおうとしている。
 掛け軸を開き、江上は矢筈を掛け紐にかけ、床の間の金具に掛けた。矢筈を外し、両端を持ち、少しずつ広げる。
 追い求めてきた幻の作品の姿が少しづつ姿を現す。ひしゃげた頭襟、蓬髪の髪は四方に1本、1本、荒れ狂うように逆立ち、眉根を寄せ、一重の両目の瞳はわずかに左方を睨む。鼻筋は太く、口元を引き締め、髪の毛と同様に緻密に描かれた髭がその口元を覆い、両鬢から顎、胸まで長く伸びている。
 鐘馗は魔除けの神という。歌麿の卓越した描写力に圧倒され、江上はひれ伏すように腰を下ろし、崇めるように凝視し続けた。
「どう?歌麿の絵は」
 神村の呼びかけに、江上は瞬きし、振り返った。
「すごい、圧倒されます」
「そうかい、それは良かったじゃないか」
 神村は一仕事を終え、表情を緩めた。
「私も何年ぶりでしょうか、この絵を見るのは。夫の生前、息子の端午の節句には必ず飾っておきましたの」
 西郷の未亡人は過ぎ去った家族団らんの幸せな日々を懐かしんだ。
 江上は鐘馗図を元通り桐箱に収め、もう一つの大黒布袋相撲図を手順通り、床の間に掛けた。
 恵比寿様を行司役に、共に廻し姿の大黒様と布袋様が相撲に興じている。ずんぐりとした体つきにどっしりした足腰、土俵を踏ん張る両足の指先に力がみなぎる。大黒の押しに耐えきれず、布袋の右足が宙に浮く。戯画にも巧みな歌麿の技量を目の当たりにした。
「この掛け軸は毎年秋、恵比寿講の際に飾りましたわ。宴席を設けて、従業員らと商売繁盛をお祝いしたものです」
 西郷家は栃木市内で肥料商を営み、旧家の一つとして知られていた。10数年前に家業をたたみ、夫とともに移り住んでいた。
「もう3、40年前になるかな、失明する前に私も見た気もするんだが」
「そうですわ、多分、主人が元気な頃、ご覧になっているはずです。神村さんはよくお出で下さいましたから」
「お恥ずかしい話、あの頃、美術とか、歌麿とか、全く興味がなかったからね。今日は、私の代役で江上さんに鑑賞してもらうことができた。奥さん、本当に有難うございました」
「私こそ、初対面で、幻の歌麿作品を見せて頂き、感謝の言葉もありません。本当にありがとうございました。初めに申し上げたように、栃木市から委託され歌麿と栃木市の関係を調べています。今後ともご協力頂けたら幸いです」
「私からも是非、江上さんらの活動への協力をお願いしたい。歌麿は栃木市の新たな文化、観光資源になり得るし、お持ちの肉筆画は世界的にも大変貴重ということだから」
 神村と江上の懇願に、
「分かりました。お手紙で申し上げたように、栃木市のために活用していただきたいと思っておりますから」
 と、未亡人は返答した。
「それでは江上さん、そろそろお暇しようか」
「はい、それでは絵を片づけますから」
 江上は大黒布袋相撲図を床の間から外して桐箱に収め、桐箱2つを元のように風呂敷に包んだ。
「改めて、今日は本当に有難うございました。今後ともよろしくお願いいたします」
 江上は挨拶すると、神村を促しながら立ち上がった。目の不自由な神村は脇にいる人の腕をつかみ誘導されるのを常にしている。
「お待ちください。この絵は持ち帰らないのですか」
 江上は耳を疑い、立ち止まった。
「この絵は神村さんにお任せしますから。神村さん、よろしくお願いします」
 未亡人は畳に両手をつき、深く頭を下げた。 
                      第18話に続く。
 第18話:Every dog has his day.⑱|磨知 亨/Machi Akira (note.com)

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