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小説「遊のガサガサ冒険記」その2

 その2、
 砂地に身を隠し、両目で周辺に注意を払っている。長く伸びた口の脇に白っぽい髭が見える。天敵の襲来に怯えているのだろう。カマツカはひときわ臆病で、警戒心が強い。底石にはヨシノボリが胸の吸盤でへばりつき、赤虫を漁るスジエビの様子をうかがう。隙を見て飛び掛かるに違いない。小さな水槽内にも厳然と、弱肉強食の掟がある。
 そんな生き物の世界に、遊は見入っている。父や母に叱られたり、友達と喧嘩したり、嫌なことがあったり、むしゃくしゃしたり、悲しくなったりした時、彼は水槽の前に座り込んでざわついた胸中を静める。
 水槽の魚は昨年春、父と近くの小川に行き、ガサガサで捕まえた。ガサガサとは岸辺の草の足元にタモ網を入れ、足で草を何度かゆすって魚などを追い立て、その網で捕獲することだ。
 獲物はエアポンプ付のバケツに入れ、家に持ち帰った。父と近くのホームセンターに駆け付け、水槽一式を買い揃え、飼うことにした。水槽は裏口の棚に置き、遊は毎日、朝夕、エサとして冷凍赤虫を与える。週1回の水替えも欠かさない。
「ガチャ、ガチャ」
 裏口の鍵を開け、母親の映見が買い物袋を提げて帰ってきた。彼女は近くの縫製工場でパートタイマ―として経理事務の仕事をしている。平日朝9時から午後3時まで勤務し、土日、祝祭日は休みだ。
「あっ、びっくり。遊君、ここにいたの。エサをあげるのはまだ早いわよねえ、お魚に何かあったの」
「別に、何にも。みんな元気さ」
 遊は水槽に目を向けたまま、小さな声でぶっきらぼうに答えた。映見には息子が覇気がなく、心なしか落ち込んでいるように見える。
「熱でもある?お腹でも痛いの」
「何でもないって、大丈夫」
「じゃあ、遊君の大好きなプリンを買ってきたから、食べる?」
「いらないってば」
 遊は立ち上がって、2階の自室に戻ろうとした。映見は嫌な予感がして、咄嗟に遊を引き留めた。
「授業参観はどうだった?お父さん、行ったでしょう」
 遊の足が止まった。
「うん……」
「何かあったの?」
 映見は遊と向き合った。遊は頭を下げ、足元を見つめている。
「どうしたの?遊君。何があったの」
 遊は両頬を膨らました。困ったり、考え込んだ時の彼のサインだ。口元をもぞもぞと動かし始め、何かを訴えようとしている。映見は遊の両肩に手を乗せた。
「僕、僕ね」
「何、何があったの。お母さんに話してみて」
 遊は肩を震わせながら、声を絞り出した。
「あのね、僕、恥ずかしかった」
「恥ずかしかったって、何が恥ずかしかったの」
「やっぱり、今までみたいに、お母さんが来てくれればよかった」
 遊は映見の手を振り払い、2階に向け階段を上って行った。
 懸念していたことだけに、映見は悔やんだ。
 3日前の晩だった。夕食の片づけを済ませ、居間で一息ついていると、夫のイリエスから電話が入った。
「えっ、今週は戻れるの。よかったわ」
 単身赴任中の夫イリエスは年度末の3月から仕事に追われ、ゴールデンウイーク中も足利に帰省できなかった。連休明け、足利本社で打合せの業務が入り、それに合わせて連休を取ることにした。金曜日は午前中で会議が終了予定で、午後の授業参観に出席したいという。彼にとって初めての参観で、息子の成長ぶりを目にしたかった。
「そうね、あなたの気持ちはよく分かるんだけど」
「あんまり、乗り気じゃないみたいだね。仕事が忙しくて、いつもかまってやれないし、遊が学校生活を楽しんでやっているのかを見たいじゃないか。日本の授業風景を見るのも初めてだから、一度、覗いてみたかったんだ」
「そうね、でも、どうかしら」
「何で、何か問題ある?僕が出席して」
 受話器を通して、イリエスが困惑の表情を浮かべているのが分かる。
「遊のことを考えると、どうかなって思って」
「遊の立場って」
 映見は返答をためらい、沈黙が流れた。
「そうか、もしかして、外人の父親が顔を見せるからか。そうだね」
「随分、ハーフの子も増えてきたっていうけど、それでも偏見や差別はある気がするの。あなたは単身赴任中で、まだ足利には馴染みは薄いし。あなたが授業参観に顔出すのは初めてだから、ちょっと心配なの。東京と違って、やっぱり田舎でしょう」
「そうかな、心配し過ぎじゃないか。今まで問題なかったし、それに、いつかはカミングアウトすることになるだろう、父親なんだから」
「それは、そうなんだけど」
「お前からさり気なく、遊に伝えておいてくれないか。もし遊が嫌そうなら、今まで通り映見が行けばいいじゃないか」
 映見が遊に尋ねると、「本当、お父さんが来てくれるの」と笑みさえ浮かべて屈託のない様子だった。これまで差別らしい体験を味わったことのない遊が、災難を予見できるはずもなかった。
 帰宅後、イリエスは映見から事情を聴いた。
「何度聞いても、あまり話したがらないから、何があったのか、本当のことはよくわからないんだけど」
「遊がしゃべりたがらない気持ちは分かるよ。でも『恥ずかしかった。お母さんがくればよかった』って訴えたんだろう。遊にしたら、思い切ってSOSサインを出したんだ。偉いよ。多分、僕のことでいじめられたんだ。親として配慮、目配りが足りなかった。遊に辛い思いをさせてしまったな」
 イリエスは大きくため息をついた。
「私には話してくれないから、あなたから遊に聞いてもらえるかしら」
「やめた方がいいんじゃないか。今は静かにしておいた方がいい気がする。遊から話してくるなら別だけど。それに子供には子供の世界があるから、親がでしゃばるのはよくないと思う。まだ真相は分からないんだし」
「そうかもしれないけど、いじめはエスカレートするっていうし、どうしたらいいのかしら、私、心配で」
 映見は眉間にしわを寄せ、表情を曇らせた。
「遊は部屋にいるんだな?」
「ええ、部屋に籠っているわ。やっぱり、あなたから聞いてもらえるの」
「いや、そうじゃないけど。ちょっと、いい考えがある」
 イリエスは席を立つと、階段を上った。遊の部屋のドアをノックし、ドア越しに声を掛けた。
「遊、明日は久しぶりにガサガサに出かけないか」
                         その3、に続く。

その3:小説「遊のガサガサ冒険記」その3|磨知 亨/Machi Akira (note.com)


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