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小説「ある定年」②

 その2,
 「よう、久しぶり、江上じゃないか」
 市長応接室から出てきた中年男が鷹揚に右手を上げた。元同僚の加藤だった。
 仕立てのよさそうなダークグレーのスーツに金縁の眼鏡、脇にはカバン持ちの若い社員を連れている。
 江上は自宅を出て、足利市役所四階の秘書課で秘書課長の石山と話し込んでいた。
 いち早く情報をキャッチするには一にも二にも、確かな人脈の形成がカギとなる。情報が欲しいなら、相手の欲しい情報を手土産にする。記者の鉄則と心得ている。
「おお、奇遇だな、こんなところで会うなんて。ところで今日はなんの用事で来たんだ、この足利まで」
「市長に表敬訪問さ。宇都宮で開く政経懇談会の講師をお願いに来てね。お前こそ、何やってる?」
「見ての通りの取材活動さ」
「そうか、まだ現役の記者だったな。相変わらず、熱心にネタ集めか」
「まあな。お前と違って、生涯一記者だからな」
 江上と加藤は大学卒業後、地元紙・日刊栃木に同期で入社。加藤は編集局の出世頭で、地域部長、政治部長などを経て役員待遇の編集局長に収まっている。一方、江上は52歳で日栃を早期退職後、曲折を経て、9年前、日本新報系列の派遣会社に入社し、記者職に戻った。
「こっちは毎日、打ち合わせだ、会議だ、外部との会合だ、懇談会だと、忙しくてね。記者のお前が本当、羨ましいよ。できることなら俺も現場に戻りてえよ」
(何、言ってやがる、偉そうに)
 江上は内心、カチンときた。
 役員なら運転手付き専用車に秘書、個室、年収も軽く1500万円は超えるだろう。中古の自家用車に自宅兼用事務所、月収25万円、ボーナス、昇給なしの派遣社員とは雲泥の違いだ。
 在職時代、真面目に仕事したつもりだが、世間の耳目を集めるスクープを手掛けたことはなく、上司に取り入って出世しようと考えたこともない。挙句の果ては管理職になる目前に、労働組合にのめり込み経営陣と対決、争議にまで発展。翌年、江上は降格処分の憂き目にあった。
 自業自得の成り行きとはいえ、江上は栄達を重ねた元同期の姿に羨望と反発を覚えた。
「どうだ、たまには酒飲もうか。宇都宮でもいいし、今度、足利に来るときには時間をつくるからさ」
 付き人の若い社員に促され、加藤は秘書課を出て行った。心なしか、後ろ姿が寂しそうに江上には見えた。
 秘書課長の石山の元を離れ、江上はワンフロア下の市役所3階に足を向けた。
 市議会議事堂、議会事務局、市議会各会派の各部屋が中庭を取り囲むように並んでいる。その一室、市議会最大会派、足利民自党のドアをノックすると、聞き慣れた声が入室を促した。
「猪口さん、いらしゃったんですか。今日は何か会議でも?」
「いや別に、ちょっと地元の市道の件で土木課に用があってね。もう用事は済んだから時間はあるよ」
 猪口は70代後半、市議七期を務める大御所。民自党足利支部の幹事長で、足利の歴史文化に造詣が深い。
「山姥切展は大成功で、地元の商店主も喜んでいるよ。コロナ禍で開催を危ぶむ声もあったが、市長の決断が結果的に功を奏した。それにしても五年前と同様に連日、全国各地からファンが押し寄せるとはね」
「本当ですね。刀剣ブームの根強さでしょう」
「それじゃ、刀剣ブームはまだ続きそうかね」
「そう思いますよ。山姥切の希少性もあるし、それに日本刀は奥が深く、ファン層も、若い女性を中心に幅広く厚くなっているようなので」
「そうすると、山姥切はどうしても足利市に譲ってもらわないとな」
「所有者との交渉はどうなっているんですか。議会の方で何か聞いてませんか」
「市長の口が堅くてね。まあ交渉事だから仕方ない。重文の刀だから、高額な取得費の問題もあるし、そう簡単じゃないよ」
「そうはいっても買うとすれば議会承認が必要ですから、もう執行部側は議会の根回しに入っているんじゃないですか」
「知らないな。まったく聞いてないよ」
「本当ですか」
「江上さん、この件はまだ話せないな」
「まだ、ってことは。動いているんでしょう」
「いや、いや、本当に知らないんだから。勘弁してくれ、この件は」
 猪口は右手を激しく振り、困惑の表情を見せた。
 売買交渉は何らかの進展を見せているに間違いない。5年前の初展示以降、足利市と所有者との良好な関係は市が認めている。全国各地で刀剣展が開催される中、秘蔵刀を足利市だけに貸し出していることが所有者の意向を裏付けている。足利市への譲渡となればファンの関心も高く、会社の志向する全国ニュースだ。どうしてもいち早く情報を欲しい。
「そうだ、代わりに面白い話があったな」
 猪口は江上の追及をかわすかのように切り出し、
「足利の建具職人が北斎の錦絵を組子細工で作っているそうだ。うちの後援会の関係者でね。ぜひ、取材してもらえないかな」
 と、身を乗り出した。
「足利を扱った錦絵ですか」
「そうだ。行道山を題材にした錦絵だ。畳3枚分の屏風に仕立てるそうで、随分、出来上がっているそうだ。山姥切もいいが、北斎も面白いだろう。足利の隠れた歴史文化資源じゃないかな」
「そりゃ、確かに面白いですね」
 江上は連絡先を取材ノートに書き留めた。
「早速、アポを取って、取材しますから。それと、山姥切の件でまた来ますから」
 江上の念押しに、猪口は両目を見開き、眉間にしわを寄せた。
 葛飾北斎は江戸時代後期を代表する浮世絵師で、歌麿、写楽と並び、世界でも人気が高い。その著名な北斎が足利の作品を残している。しかも、その錦絵を伝統の組子細工で巨大な屏風に仕立てるという。話題性も高いし、写真映えもする。全国発信できるニュースに間違いない。
 同じ3階の記者クラブに、江上は戻った。他紙の記者は誰もいない。彼は早速、田辺という建具職人に連絡しようとスマホを手にすると、着信音が鳴った。待ち受け画面に佐藤栄一郎と出ている。上司の支社長だった。
「江上さん、今、電話、大丈夫ですか」
「ちょうど、取材が終わったところなので」
「そうですか、それは良かった。ところで用件なんですが、実はとても言いずらい話でして」
支社長の佐藤は沈んだ声で用件を話し始めた。
                          その3、に続く。

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