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小説「ある定年」㉓

 第23話、
「どうしたの、もう起きる時間じゃないの。どこか体の具合でも悪いの」
 妻の千香が寝室の引き戸を開けた。カーテンは閉め切ったままで、常夜灯も付いたままになっている。いつもの起床は朝7時前なのに、8時を過ぎても起き出す気配がなく、彼女は夫・江上の様子を不審に思った。
「ねえ、どうしたの。何か言ってよ」
「うーん、ちょっと起きようとしたけど眩暈がしてさ。それに夜、あまりよく眠れなかったから」
「大丈夫なの。夜も随分、咳き込んでいたようだったし」
「旅疲れじゃないかな。もう少しゆっくりしてるよ」
「そう、私、今日、人間ドックだから、もう行かないと」
「ああ、分かった」
「そうそう、大変なのよ、加藤さんとこ。もう朝から驚いちゃって」
「加藤?」
「日栃で一緒だった加藤さんよ」
「あの加藤がどうしたって」
「今朝の新聞に出ているのよ、本当、気の毒で」
「新聞に、何で加藤が出てんの」
「事件があったのよ、加藤さん家で」
「加藤の家で事件があったのか」
「そうよ。だめ、もう本当に行かなくちゃ、受付に遅れちゃうから。詳しいことは新聞で読んで。それと医者にも行ったほうがいいよ。じゃあね」
(加藤が事件?)
 江上は重い体を起こした。カーディガンを羽織り、階段を降り、階下の仕事部屋に向かった。息切れもない。旅疲れで風邪をひいただけなのか。
 部屋に入り、テーブルの新聞を開いた。社会面を見開くと、衝撃的な見出しが目に入った。
 ーー新聞社役員、息子を殺人未遂
 新聞によると、昨夜、加藤の自宅2階で、加藤が長男の陽介と口論の末、ナイフで長男の腹部などを刺した。長男は出血多量で、意識不明の状態という。加藤が自ら110番通報した。
 近所の住民によると、日頃から長男の家庭内暴力が絶えず、数日前にも「お前なんか、親なんかじゃねえ、死んじまえ」などの怒鳴り声が聞こえ、窓ガラスが割れる音がしたという。長男は専門学校卒業後、都内の民間会社に就職したが数年で退職し、その後は実家に戻っていた。ほとんど家に引きこもりがちで、近くの住民もめったに顔を合わせることがなかったという。
江上の脳裏に、居間を駆け回る無邪気な息子を、目を細めてあやしていた加藤の姿が思い出された。仲睦まじかった親子関係がいつ、何が原因で崩壊してしまったのだろう。いじめ、受験失敗、仕事でのストレス、失恋、親の愛情不足など様々な要因が絡み合って、息子は社会から疎外され、内に籠ってしまったのか。息子は30を超え、数年以上は家庭崩壊の嵐が吹き荒れていたことになる。
「江上のところは偉いよ、奥さんと子供2人もしっかり育ててさ。それに引き換え、俺のところなんか……」
 今年夏、足利の小料理屋で酒食をともにした際、加藤は暗い表情で言葉を濁した。息子や連れ合いの近況を尋ねたことを江上は悔やんだ。
 加藤の心中に思いを巡らせると、彼は暗然とした。家庭に爆弾を抱えながらも、エリート社員として仕事に専念するしかなかった。経済的にも、家庭に爆弾を抱え平穏な生活が望めない中での生きる救いのためにも。そんな厳しい立場の加藤にとって、定年後の人生を前向きに模索する余裕などあるはずもなかった。
 ーーまた飲もうや、次はお前の自分探しの旅を酒の肴に
(羨望であり、加藤の悲痛な叫びだったのか)
 順調に出世階段を上った元同僚に嫉妬しながらも、その一方で、自分へのエールと受け止めた浅慮さに江上は赤面する思いだった。
 65歳定年で、新たな第4の人生の扉が開いた。終着点をどう定め、どう進むかは自分次第だ。他人の不幸に直面し、自分の恵まれた状況を認識できた。一つの懸念材料を除いては。
 春頃からだろうか、体に変調をきたすようになったのは。空咳が出たり、痰が絡むようになった。もともと50を過ぎたころから、鼻の調子が悪くなり、頭痛に悩まされるようになった。大学病院で精密検査をしたが、頭痛の原因は不明だった。ただ風邪をひくと急性副鼻腔炎になりやすくなり、鼻汁が喉に回り、痰が出ることもあった。特に春と秋の季節の変わり目は体調を崩しやすかった。ただ空咳に悩まさせることはなかった。
 夏頃からは階段を上ると、息が切れたり、眩暈を感じるようになった。健康維持にと極力、階段を利用していたが、市役所入り口から3階の記者クラブまで上がった際、息苦しくなり、クラブ内のソファで横になったこともあった。就寝中に咳と痰が出て、睡眠不足にもなっていた。
 昨年秋、突然、血圧が高くなり、主治医に駆け込んだ。3、4年前、定期健診で血圧が高いと指導され、以来、毎日朝、夜の2回、血圧を測っている。通常は上120前後、下80前後だが、突然、上150、下は100近くまで上昇した。1週間ほど経過観察後、平常値に戻ったので胸をなでおろした。
 ただ確実に老化現象は進んでいる。家庭菜園の手入れや庭の草むしりに熱中すると、てきめんに足腰が痛む。フライフィッシングで渓流の岩に足を取られたり、半日も釣り糸を垂れると疲れてしまうようになった。老眼も進み、疲れると、目がかすむようになった気もする。
 春先からの体調不良も老化の延長線上だと思っていた。風邪をこじらせただけだ、と希望的観測にも傾いていた。だが、いつもと違う。
 江上はパソコンの電源を入れた。立ち上がるのを待って、検索サイトに空咳、痰、息苦しい、などと打ち込んだ。
 モニターにはPAH(肺動脈性肺高血圧症)、がん、肺炎、急性扁桃炎、喘息などの病名がずらりと並んでいる。病名ごとに自分の症状と比べることを繰り返すと、どの病気も当てはまるようで暗澹としてきた。
テーブルに置いた携帯電話が鳴った。妻の千香からだ。
「どうした、人間ドッグじゃないのか」
「そうだけど、心配だから電話入れたの。どう、落ち着いた?」
「大丈夫だ、心配するな」
「くどいようだけど、とにかく今日、医者に行ってみて。調べてなんでもなかったら、それでいいんだから」
「今日か?今日はだめだよ。猪口さんと夕方から会食の予定が入っているから。明日、必ず行くから」
「しょうがないわね。じゃ明日必ずね」
 妻には症状を極力、伏せていたが、気づいていたのかもしれない。病魔に侵されているのだろうか。江上は心臓の鼓動に恐怖心を覚えた。
                          第24話に続く。

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