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小説「歌麿、雪月花に誓う」余話②

  歌麿と善野家 
 栃木の豪商・善野家とはどのような存在で、どう歌麿と関わっていたのでしょうか。
 善野家は3家あり、屋号で本家の釜喜、分家として釜佐、釜伊がありました。同家は近江(滋賀県)守山の出身で、江戸中期、善野喜左衛門が釜喜を起し、質屋や醤油問屋を営んでいました。その釜喜初代の喜左衛門が2代目・喜兵衛に家督を譲った後、質屋・釜佐を立ち上げ、初代・善野佐次兵衛を名乗りました。釜伊は釜喜2代目の兄弟が分家し、呉服太物商を始めたとされています。
 所在地は釜喜が現在の栃木市室町、釜佐が同市万町、釜伊が同市倭町で、釜喜は昭和5(1930)年頃、釜伊は同14(1939)年にそれぞれ廃業し、今は面影はありません。
 江戸後期、天保4(1833)年の地元の長者番付では、行司役に釜屋喜兵衛(釜喜)、勧進元に釜屋佐治兵衛(釜佐)、大関に釜屋伊兵衛(釜伊)と、善野3家が明記され、その豪商ぶりをしのばせています。当時、「金は釜喜、釜佐に中の坊」とも言われ、幕末、尊王攘夷派の天狗党が襲撃した際、混乱を回避しようと釜喜、釜佐、中の坊がそれぞれ500両を献金したとも伝えられています。昭和3(1928)年5月の下野旭新聞にも、栃木税務署管内の1万円以上の高額所得額者として、善野3家の当時の当主の名前が列挙されています。
 歌麿と最も親密とされるのが釜喜4代目の善野喜兵衛=明和5(1768)年~安政3(1856)年=で、歌麿より10歳前後年下です。狂歌名・通用亭徳成で、歌麿の描いた肉筆画「三味線を弾く美人」(米国ボストン美術館蔵)をはじめ複数の錦絵や枕絵本にもその狂歌名が入っています。
 さの釜喜4代目の叔父にあたるのが釜伊初代の善野伊兵衛=宝暦7(1757)~文政7(1824)=で、歌麿に大作の雪、月、花を依頼したと伝えられています。浮世絵研究家・林美一は著書「艶本研究 続 歌麿」(有光書房)中で釜喜8代目の善野喜平=明治18(1885)年~昭和17(1942)年=の談話として、通用亭徳成が歌麿を栃木に招いた際に画会を開いたが失敗し、歌麿の落胆に同情した善野伊兵衛がこの大作を依頼した、と紹介しています。
  写真は昭和2(1927年)当時の善野呉服店(釜伊)の店構え(善野圭三郎氏提供)

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