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小説「歌麿、雪月花に誓う」⑤

  第5話、
 いってえ、なんでえ。随分な人だかりじゃねえか。何かあったのかい、そんなに集まって、橋の袂に。
 それにしても何か妙じゃねえか、両国橋に似ちゃいるが幾分小さえし、それに大川にしても川幅が狭すぎる気がするが。
「流されちまうぞ。だれか早く、助けてやんねえか」
「何言っていやがるんだ、さっさとお前さんが行きゃいい」
 息せき切って駆け付けると、野次馬が喧しく騒いでいる。
 急いで人垣の間に割り込むと、中州に襤褸を身に着けた年寄りの男が取り残されている。中州の両脇を濁流が波を立てて流れ、水嵩が刻々と増している。
 家を出た時はお天道様が照り輝いていたし、ここしばらく雨粒一つ振らなかったはずだが。一体どうなってるんでえ。
「ほれほれ、早く早く、木の上に登れ。流されちまうぞ」
 野次馬の声に促されるように、その年寄りは大儀そうに2歩3歩と中州の柳に近づく。
「本当にまったくよう、あんな不自由な体の年寄りを中州に取り残して」
 野次馬連中が一斉に白い眼を向け、睨みつけやがる。
(ふざけんな。俺に文句でもあるのかい)
 大声で怒鳴り散らそうとしたが、どうしたわけか、声が出ねえ。
 野次馬連中がその年寄りを見ろとばかり、2度、3度と大きく腕を振り、中州を指し示す。
 渋々、手庇をかざした。3尺ほどの高さで枝分かれした柳の股に年寄りは座り、観念したように濁流を見詰めている。流水の勢いは増し、年寄りの左足に流木がぶつかった。すると、年寄りは突然、顔を上げ、大きな口を開けて必死の形相で叫び始めた。
 ちっと待てよ、あの年寄りはもしかすっと。
 濁流に飛び込むと、水の勢いに体が押し流される。水を飲んで激しくせき込み、意識が遠のいていく。必死で両手両足を藻掻いた。
(待ってろ、すぐに助けてやっから)
 
 どれほど時が経っただろうか。闇の底から、女の声がする。
「どうしたんだい、お前さん。大丈夫かい」
 歌麿は重い瞼を開けると、妻女おりよが心配そうに覗き込んでいる。寝汗で寝間着がじっとり濡れている。
「随分うなされて、心の臓でも苦しいのかと思って慌てましたよ」
「いや、なんでもねえ。ちっと、嫌な夢を見ちまっだだけだ。心配ねえ」
 歌麿は手拭いで、首筋の汗を拭った。
 脳裏に8年前の忌わしい記憶が蘇る。
「そうは言っても、いつまで隠し通せるわけでもねえ。きちんと話すしかねえだろう」
 石燕が捨て鉢気味に、妻女ことを詰っている声が聞こえた。
 家に戻り、歌麿はたまたま障子越しに立ち聞きした。
「でもねえ、あの子の身になりゃ、今さら、実の親は違うなんて言われても」
 ことが深く溜息を洩らした。
(絵師・鳥山石燕の跡取りじゃねえのかい)
 歌麿は耳を疑い、頭の中が真っ白になった。胸が高鳴り始め、息苦しさに耐え切れず、障子を開けた。
「どういうことなんだ。俺の母親はだれで、父親はどこのどいつなんだ。今、どこにいるんだ」
「分かったよ、歌麿。残念だが、2人とも既にこの世にはいねえ。実はなあ」
 石燕の話を聞くにつれ、歌麿は自身の存在が根無し草のように空疎で、希薄になっていくのを感じた。一体、何者なんだ、と自問自答した。
 父親は奥川筋の富商で、母親は吉原の女郎だった。男は石燕の門人で、商用でしばしば江戸に上って来ては絵を学び、吉原で遊興に耽った。振袖新造の女郎と懇ろになり、身請けし、深川の別宅で囲っていた。やがて女郎は歌麿を生んで間もなく、労咳を病み急逝。男は石燕に泣きつき、歌麿を預けた。石燕夫婦は子宝に恵まれず、跡取りとして引き取った。
「黙っていて悪かったな。いつかは話さなくちゃとは思っていたんだ」
「父親の素性は詳しく教えてくれねえのかい」
「もう少し、待ってくれねえか。恨みつらみが募るだけだろうよ。だけどな、女房ともども我が子のようにお前を育てたことは信じてくれ」
「そうは言ったってよう」
 歌麿の胸中には誰にもあたりどころのない怒りが沸々と込み上げ、抑えようがなかった。その後まもなく、歌麿は石燕の元を飛び出していた。
「ねえ、あんた、お陰で目が覚めちまったよ」
 おりよが甘え声で手を差し伸べて来た。
(夢の中の男は実の父親か。なんで助けなきゃいけねえ、俺を捨てた男を)
 歌麿はおりよを抱き寄せ、乱暴に着物の裾を開いた。
                         第6話に続く。

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