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10代に手渡したい本・2/7日目

「10代に手渡したい本」をテーマに、1日1冊、計7冊の本を選んでいます。

これらは、執筆中の共著『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』でも紹介する(かもしれない)本たちです。

わたしが10代に手渡したいのは、次の3つを満たしている本です。
・古びない本
・人を生かす本
・よい物語の本
そこだけ大事にして紹介していきます。

はじめは、「連続で7日間紹介していこう!」と意気込んでいましたが、1日目を投稿してみて、「選ぶのも書くのもじっくりとやりたいな」という気持ちがわきました。投稿日は飛び飛びになりますが、自分なりのペースでやっていこうと思います。

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さて、2日目はこちら!

『夜と霧 新版』ヴィクトール・E・フランクル/著, 池田 香代子/翻訳(みすず書房, 2002年)



筆者のフランクルは、オーストリア・ウィーンに暮らす精神科医でした。ある日突然、「ユダヤ人である」という理由だけで、家族もろともナチスに捕らえられ、アウシュビッツをはじめとするいくつかの強制収容所で過酷な生活を強いられました。フランクルは収容所で家族を失いながらも、解放されるまで奇跡的に生き延び、戦後の1947年にこの体験記録を出版しました。たった9日間で書き上げたそうです。

わたしがこの本を10代の人たちに手渡したい理由は、ホロコーストという、人類が犯した歴史上の大きな罪について知っておくべきだからというだけではなく、「人間とは何か」を知る手がかりを見つけてほしいと願うからです。(ナチス・ドイツが1941年から1945年にかけて組織的に行った大量虐殺をホロコーストを呼びます。迫害した人たちは、ユダヤ人の他にも、ロマ族、身体・精神障害者、同性愛者、政治活動家などにもおよびます)

この手がかりは、時代や国や人間が変わっても、人生を歩む上でとても役に立つものです。誰の人生にも、権利を奪われ、尊厳を踏みにじられ、命の危険と隣り合わせの極限状態におかれることがあります。そのときに、人は何に絶望し、何に希望を見出し、どのように行動するのでしょうか。

「どうしてわたしだけこんな目に遭うのだろう?」「この辛い状態のまま生きていけるんだろうか?」「あの人はどうしてこんな酷いことができるんだろう?」「社会や世界はどうしてこんな悲惨な事件を止められないのだろう?」と、わたしはよく思います。

その問いに直接の答えはありません。しかし、『夜と霧』を読んで、フランクルの文章を通して描かれた不条理(人の力ではどうすることもできない)の環境下にある人間の様々な姿にふれたとき、納得があったというか、胸のすくような思いがしました。単に人間を善と悪、加害者と被害者、優者と愚者に二分できないという態度によって、とても複雑で深遠な人間の姿が見えてくるのです。

わたしはこの本を10代で読めませんでした。家の本棚に置いてあり、何度もチャレンジしようとしましたが、「すごく残虐な描写があったら、わたしはとても耐えられない!」と怖くなり、読むことができませんでした。

でも大人になって読んだとき、この本は単なる事実や感情の報告ではないことがわかりました。フランクルは、精神科の医師として、徹底した観察眼をもって、自分や周りの人々の心理状態を分析し、鋭い洞察力と豊かな感受性をもって、自分の体験を哲学的で文学的な表現に高めたのです。

また、どんな絶望にあっても、「人生には意味があり、希望がある」や「どれほど奪われたとしても、あなたから決して奪えないものがある」ことを一貫して伝えてくれています。それがこの書物を、いつの時代のどんな状況の人にとっても心に響く、叡智にしているのだと思います。

どういうことか、本文から少し引用します。

収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく一ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何十もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。
楽観的なうわさは、もうすぐ戦争が終わるという希望をもたらし、希望は何度も何度も失望に終わったために、感じやすい人びとは救いがたい絶望の淵に沈んだ。往々にして、仲間うちでも根っから楽天的な人ほど、こういうことが神経にこたえた。
そのとき、あることに思い至った。妻がまだ生きているかどうか、まったくわからないではないか!そしてわたしは知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係がなく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質(ゾーザイン)」に深くかかわっている、ということを。
最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。
つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。
自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とはガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。


読んでみて、いかがでしょうか。この引用箇所によって、少しでもこの本の世界にふれられたならうれしいです。

わたしは、20代半ばに、ドイツのミュンヘンにあるダッハウ強制収容所跡を見学しに行ったことがります。フランクルも一時期収容されていたところです。わたしは、あそこで見聞きし、感じたことを一生忘れません。ここにそのときの体験を少しでも書けたらよいのですが、試みたらあまりに難しくて、諦めました。もしかしたら一生の課題なのかもしれません。ともかくあれは、わたしという人間の存在に関わる大きな体験でした。

それ以来わたしは、自分の身体をその場所に運んで体験することをできるだけ大切にしてきました。読書も、自分でページをめくり、文字を追い、自分と対話を重ねながら、時間をかけて体験していくものです。
「その価値がある」と10代の人たちに思ってもらえるような本をあと5冊、紹介していきます。

どうぞ気長にお付き合いください。


▼この本には1985年に発刊された〈旧版〉があります。訳者も違いますが、写真図版が挿入されていたり、前半と後半に分かれているなど、本のつくりもかなり違います。わたしが10代の頃に怖くて読めなかったのは〈旧版〉です。〈新版〉のあとにぜひ読み比べてみてください。

▼こちらの本もおすすめです。フランクルの人生、時代背景、『夜と霧』の解釈など、より深い理解を助けてくれる良書です。

『NHK「100分de名著」フランクル 夜と霧』(NHK出版)

▼「100分de名著」番組のオンデマンド配信もあります。