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ゲームと学び

こんなタイトル、ちょっとザワッとする人がいるかもしれない。

わたしは、息子のゲームについては、今年3月末ぐらいの時点で寛容路線に一気に変更した。息子を見ていたら、「ゲーム依存症リスク」とかそういうところでない方向に進化していることがわかったから。かといってもちろん完全に丸投げで楽観視しているわけでもない。わたし自身がもともとビデオゲームが好きだったので、ゲームの良いところも怖いところも、ある程度わかっている。

「あつまれどうぶつの森」が発売された3月下旬あたりから、ゲームと学びについて考えてきた。


休校中の息子は、ゲームとYouTubeを同時に駆動して、学びのツールとして自分のために使いこなしている。そのことがこの3ヶ月一緒にいて、とてもよくわかった。わたしの経験の遥か先を行っている。

単純に、ゲーム=悪とは言えないのだ。

息子なりにバランスをとっていたり、メタ認知している。それは日々、わたしとものすごい量の会話をしているので、わかる。ゲームやYouTubeで挑戦していることを報告したり、仮説を立てて検証したり、質問したり、わたしも一緒に考えたりする。「あつ森」以外にもマインクラフトやフォートナイトなど、いろんなゲームから学んでいる。Youtubeでもいろんなテーマに関心を持っている。いろんな大人の話を聞いている。

この3ヶ月で扱ってきたのは、
コミュニケーション、デザイン(ランドスケープ、インテリア、ファッション、ビジュアル)、美術、生物、植物、キャリア、社会情勢、農業、漁業、流通、金融、政治、言語、科学、歴史、神話、演劇、倫理、哲学、地理、医療、福祉、心理、性、セクシャリティ、ジェンダー、戦争、犯罪、メディアリテラシー......。

数え上げたらきりがない。
そしてそれらはゲームの世界の中だけで閉じているのではなく、リアルの世界と軽やかにつながりあっているのだ。オンラインで起きたことをリアルの世界で確認したり、リアルの世界がオンラインに影響を与えていることを確認したり、リアルの友だちとゲームで会うことを日常にしたり......要はオンラインとリアルを行き来している。

いやまったく、これを学びと言わずしてなんという?

教科学習&ペーパーテスト=勉強や基礎学力の評価で、「できるorできない」が決まる世界では、どちらかといえばできないほうに入る。この評価によって子も親も、自信を無くさせられる。親のわたし自身が、「できる=役に立つ=社会に居場所がある」「できない=役に立たない=社会に居場所がない」の公式を内在化させてしまっているから、焦るし不安が大きかった。

でも息子を見ていたら、これはもう日々とてつもなく学んでるとしか言いようがない。自分のやりたいことを深めるために必要なぶんだけ、科目の中に見つけるほうが合っている。今はすべてのつながり、世界の営みのほうから学んで、それが個々に何で成り立っているかを徐々に深めていっている途中なんだろうと思う。「基礎学力」をまんべんなくつけてから、何かに出会いに行くのではなく、まず出会ってから、そのあと必要なものを取りに行く学びだってある。やりながら学び、必要なものを取り入れてすぐに使って検証し、結果を次の仮説に回す。

あれ、もしや、これはSTEAM教育そのものでは?

「家庭学習」という名前がもう好きじゃないが、そういうものがあるとすれば、うちはこれだ。これしかない。

学校は好きだし、楽しく行っている。友だちともよい関係だし、担任の先生のことも大好きで信頼している。学校は、関わりの中で学ぶために必要だ。自分をつくる場所の一つだ。息子自身、「学校は友だちに会える場所、挑戦するところ」と言っていた。

「授業についていけなかった…」としょんぼり帰ってきて、しばらく寝転がっていて、ふと「あそこ教えて」と言ってきたら一緒に考える。今は出元が悲しみであれ、悔しさであれ、怖れであれ、なんでもいい。知りたい、理解したい、が出てくるまで待つ。葛藤しているし、挑戦しているのだ。押しつけない。周囲の状況や環境がどうであれ。その芽を守る。

わたしは、今息子を通して直面している学校教育の硬直した行動には、概ね絶望視している。コロナ「騒動」によってよくよくわかった。あと半年卒業するまで、何がどうなるか、何が起こるかサッパリわからない。これからも度々怒ると思う。子どもにもだし、親にまで教育的指導の態度をとられたら怒る。人間だから失礼な扱いをされたら怒る。「誰のための、何のための学び」がわからないものに対しては、開示を求める。

そして、学校に頼らずに勝手にやるほうも進める。
それが、従来や現行の教育システムに合っていなくても。
自分をつくるための学びの主体は息子であり、息子自身が今自分になにが必要なのか、よくわかっている。そこに脅しや煽りや劣等感や罪悪感は必要ない。
わたしは今までだって決して学校に丸投げしてきたわけではない。実践してきた。これをようやく言語化して確信が持てるようになった。

おかげで教育から社会の有り様が見えてきたので、楽しい部分もある。学びの考え方が違う人、教科学習やペーパーテストのみを学びと解している人とは次第に話が合わなくなっていくけれど、仕方がないと思う。大切にしているものや関心が違うから。でもそうではない人とたくさん話すようになってきて、これは大変楽しい。学校にもいろいろあることがわかってきた。

息子は、わたしといれば、基本大丈夫な感じがしてきた。
なぜならわたしが本気で、楽しく、学び続けているから。
わたしが学びの体系を持っていて、それを息子のためにも使えるから。いろんな大人に出会う機会をつくれているから。そして指導者でも評価者でもなく、対等な学習者として楽しんでいるから。

この自信、確信を自分の手に取り戻すための3ヶ月だったのかもしれないなと思う。わたしもずいぶん長いこと脅されてきた。でも、自分のこれまでの歩みも、その教育から恩恵を受けているのかもしれないと思うと、なかなか抜けられなかった。今も、揺れる。

でも、わたしは自己肯定感が低いまま、自己有用感だけを高めようと努力したら、結果、劣等感だけが山のように高くなってしまったり、居場所が見つけられなくて彷徨ってしまった。そして、そういう人もたくさん見てきた。大人の中にも苦しんでいる人は多い。

「できないと生存にかかわるから、最低限できておく」「役に立つことだけをやる」という怖れや功利からやることをなんとか脱して、「自分が楽しいから、満たされるから」やる喜びから行動を起こすほうが未来があるとしか今は思えない。

うーん、まだ言い得ないな。

ゲームと対話のセットの効用も、「学び方」の学び方についても、もっと具体的にいろいろ書きたいけれど。

とりあえず今、考えたところまで。

*追記*
「ゲームをやっているときに満たされるニーズってどれ?」と聴いてみた。

(NVC-Non Violent Communication、Catherine Caddenand Jesse Weins 2010 Inbal & Miki Cashtan 2009のニーズリストより作成、安納献、小笠原春野、渋谷聡子、由佐美加子翻訳)

コミュニティ、人との交流、思いやり、能力、協力、発見、共感、自由、楽しみ、成長、よろこび、平和、あそび、存在感・在ること、目的、元気回復、休息、優しさ、聴いてもらえること、知ってもらえること、見てもらえること、理解されること、触れること