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[要約編] ロングインタビュー「せいこの歩いている道」

2018年12月1日に行ったインタビューです。100分のインタビューを[要約編]、[全文編][音声編①][音声編②][音声編③]に分けて掲載しています。お好みのもので鑑賞していただければうれしいです。

これまでわたしがやってきたこと、これからやっていきたいこと、煎じつめてきたこと、明確になってきたことなど、最新のわたしを話しています。

では、要約編をどうぞ!!あ、要約といってもとても長いですが...そして文章はちょこちょこ直しながら公開していきます。

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高橋ライチさんにインタビューしていただいた。
ライチさんは、「そもそも人は自分らしく生きていきたいと望む存在だし、それが世界に受け入れ祝福されて、仕事になっていくといいよね」ということを願って、日々「聴く」を軸にさまざまなテーマでカウンセリングやライフワークコンサルティングのお仕事をしたり、聴ける人を増やす活動をしている方だ。

ライチさんから見えているわたし。
正直さと繊細さと本物さをもっている。「世界が要請していること」と、「自分を生きるということ」が合致するところを、これから仕事でやっていこうとしているように見える。

わたしは、場をつくっている。
自分がいいと思っているもの・ことをシェアしながら生きている。美術や映画や本などをまず自分が深く鑑賞し、あるいは自然物にふれ、それについて言葉にしたり(ブログを書いたり話したり)、絵を描いたりしている。そこから場づくりにつなげて、例えば読書会や鑑賞して話す会をやったり、ファッションを考えるスタイリングの会をひらいたり、ラジオやトークライブの場をひらいている。
芸術に限らず、人間に起こることはすべて興味深いので、社会課題と目されるようなものも場のテーマとして扱っている。それらの場のつくり方・設計の仕方を伝えることもやっている。

「業界をつくる」
というフレーズが出てきた。つまり今はまだないことをやっているので、説明がしづらいし、名前がついていないものを商品にするのは難しいように見えるし、わたし自身も試行錯誤中。「やってみたらわかるんだけど」というようなことを実際に人にやってもらうには、ハードルがある。それをどう超えていくのか、ライチさんに興味深く聴いてもらった。

新しいパートナーと鑑賞と表現の場をつくりたい。
何かテーマとなるもの(その多くは誰かの表現物が多い)を真ん中に鑑賞し感想を話す場をつくってきたが、それは「集う人が表現している場」とも言える。表現者−鑑賞者の一方向の流れではなく、その立場を逆転させたり行き来したりするような場を、作り手・企画者・運営者・販売者側と一緒につくりたい。

表現が世に出て、人の目にふれる。そのときに受け取った人間による、血の通った、生き生きとした、身体を伴った言葉が発せらえる、表現されるのを見れる感じられる場があるといい。それはインターネットでレビューを読むのとは全く違う体験であり、双方向的で、相互に影響を与えるものである。表現物(作品)はそれとしてあるだけでは完成されておらず、また、受け取られなければ、「ただ作った物が溜まっていく」だけに終わる。読まれたり観られたり議論されたり。その場で表現から受け取ったことをまた表現され、味わい尽くされ、その後の日常や人生の中で息づく遺伝子を受け取らるような営みの場をわたしはつくりたい。

それらの表現物や自然物の存在が、この時代において、今一度問い直され、必要とされ、次の時代も生き長らえていくという時間のスケールを感じてている。例えば出版、書籍。美術館、絵画。他にもあらゆるものが問い直される必要と可能性を持っている。「産業が斜陽だ」と嘆くだけではなく、そもそもなぜこれが人間に必要なのか、あるのか、人間が連綿と営んできたのかを再考することで、次へ。

中には、場を設けて人が集って問い直すことによって、もう仕舞っていいものも出てくるかもしれないし(形骸化している制度など)、形を変えていく必要に迫られていることがわかるものもある。そのときに、変えていくならどのように、という着想や発想も場から生まれていくだろう。

表現から受けた影響を「感想」として言葉にできる、話せる、聴いてもらえる、一人ひとりの人間としてお互いが影響を与え合っていく場が必要だし、実際にそのような場を、わたしはこれまで7年に亘ってつくってきた。

その場で交わされるのは完全に主観的な感想である。他の人はわからないけど、わたしはこんなふうに感じた、こういうふうに思った、わたしの経験の中のこれと結びついた、などが語られる。それは単なるおしゃべりとも、批評や分析、解釈の正誤を判定するような類のものとも違い、さまざまな見方、見え方がある。やはり表現なのだと思う。

例えば言葉にすることは、発した人の希望、つまり生きる力に間違いなくなっているし、聴いていた人、立ち会った人にとってもやはり希望になっているのを場で何度も目撃してきた。その場でも起こるし、もっと時間が経ったあとに、「実はあのときのがきっかけで」ということもたくさん起こる。よい体験が与えてくれる希望は命が長い。

そこにさらに歴史の事実や解釈、他の物事とのつながりや文脈、研究結果が加わると、分厚く多面的になる。知識や知見や考察はここで活きる。表現物を通した、この世界の深淵な美しい姿が立ち上がってくる。感じ取るための知識、教養。

これは「あなたがいてくれたから」という感謝や尊敬や友愛のようなあたたかな感覚が内に起こってくるダイナミクスだ。それがあるかないか。他者がいるからこそ行ける美しい場所、感じる場をつくっている。

自分が感じていることを表現してみたい、他の人はどう感じたのか聴いてみたい、その人と会ってみたい、話を聴いてみたいなど、他者を必要するときに場をつくるという方法がある。どのように会いたい人に会うか、感想を感情的に安心・安全な中で表現するにはどうしたらいいのか。本当に自分が大切にしているものの価値を大切にしながら、さらに深く一人ひとりがよい体験ができるようにするにはどうしたらいいのか、ということに取り組んできた。

そしてそのような仕事を、今までより「遠くの人」とも一緒にやっていきたい。作り手や、その創作物や表現物にさまざまな形で関わっている人...アーティスト、クリエイターキュレーター、エディター、オーガナイザー、プロデューサーなどとパートナーシップを組んでやっていきたい。

わたしが場づくりを考えるように至った経緯ラジオのこの回で話したことがある。企業で法人営業の仕事をしていたときに既存顧客や見込み客へのセミナーを実施して行きづまったことがきっかけだった。そこからワークショップやファシリテーション、場づくりという世界に入ってきた。

そのときのことを思い出してみると、アンケートやインターネットのレビューが好反応!とか、売上を達成したから成功!という評価ではなく、もっと総合的で多面的、単に良し悪しの判断をされるだけではない、価値の交換を求めていた自分がいた。もし、そのような関わり方、関わられ方を求めている作り手や興行の方がいるとすれば、場の設計と進行によってそれは可能であるということをお伝えしたい。あなたの作っているものにはもっと可能性がある。

最近わたしは、とある展覧会で違和感をおぼえた。作家本人は、きれいにつくった自分の作品をもっと観客に関わってもらいたいと思っているし、実際の作品も関わってほしいと訴えていた。そのような力のある作品、展示設計だった。しかし、美術館というハコの物理的な制限や、制度の慣習の中だからなのか、関わるための場は用意されていなかった。作品を展示することがゴールなのではなく、ここに作品が置かれるに至った中で起こったことや関係するものも全て作品の一部なのだけれども、「美術館の展覧会の展示」となったときには、展示しきる(共有する)のが難しいのだ。創作メモや取材中の動画を流すことや、観客にも制作に関わらせるというようなことは行われているのだけれども、やはり最終的な作品をガラスケースに入れて展示する、ということの限界を感じた。

例えば展覧会だとして、それを観に行って、もちろん受け取るものは人それぞれなのだけれども、その作品があったその場所で体験を起こす、対話する、分かち合うということができればと鑑賞体験は何十倍にも豊かなものになる。「鑑賞」の範囲をもっともっと広げてしまいたい。

美術館の中で話をするというときには、アーティストや専門家やボランティアが作品の解説をする、観客はそれを聞く、というイベントが多い。作家も交えて(交えなくてもよいが)、一般の鑑賞者が、それぞれの背景や人生や経験、感受性から、観たり体験したことを、素朴な感想を語る、想起された経験を語る、自分の個の言葉を話す、表現する、語っている人を鑑賞するのはほんとうにおもしろいのだ。わたしはそれをたくさんつくってきたのだけれど、今はまだわたしが出入りするような館の人と、「館の中」ではつくれていないので、ぜひ実現したい。まずは一つ。

今あるのは一対多に一斉に発信する、多の一部からポッと質疑応答のような形で発表があるようなもの。そうではなくてもっと「みんな一緒に、深く潜る」という場。感想を述べる人にとっても大きな体験だし、作る人にとっても創作意欲がわく、創作したものへの思い入れが成就していくような幸福な体験だと思う。

場が無法地帯にならず、質量のある言葉によって深まりを見せていくための設え方がある。当日その場で何をするか、だけではなく、準備が8割で、関係者がチームを組んで丁寧につくっていくことで、実現される時間と空間。

これを読んだり聴いたりして、「おもしろそうだからうちでやってみようよ」という心当たりのある方がいらして、声をかけていただけたらとてもうれしい。

先日、マルセル・デュシャン展で、よしもと芸人による大喜利をやってアプリで配信していたが、あれをもっと来場者、鑑賞者を含めてやるようなことを考えている。鑑賞者が受け取り、個別固有の内面的な体験を表現していくところまでいく。各々の存在意義が確認できるような、アートの真髄のようなことを館の中でやってしまえないか。

そしてそのときには来場者を数でカウントしないということが大切になる。人間を一人ひとりとしてみる。一人ひとりの可能性が素晴らしく、その人もまた表現者であるという経緯と好奇心。作る側、催す側の仕事「だけで完結させる」「影響者と消費者の関係」のその先の「行き来する、一緒につくる」へ。

それをしても館も作品も、権威も脅かされない。むしろ活性化され、永続していくための良い動力になるだろう。新たな価値創造。

わたしは「映画『〇〇』を観て感想を語る会」という場もひらいているのだが、参加した人がよく言ってくれるのが、「話す会があるとわかっていたから行こうと思った。そして後で話すからこそいつもより集中して観たし、いつもは気づかないような細かいところまで観た」ということだ。それはすごいことだと思った。人と会って感想を話すことが、映画館に足を運ぶ動機になる!より積極的に表現物に関わる動機が一人ひとりの中に生まれる!実はそんなアナログな、(SNSで拡散とかハッシュタグつけてインスタにとかも、もちろんあるんだけれども)会ってテーマを決めて話すということに価値がある。

そこからわかったのは、「会う」ということがますます大きな力をもってきているということ。最近ではオンラインのZoomでも場をひらくことがあるが、それも「会う」である。その場に身体を運んで、対面して言葉を交わす。双方向的で、時間と空間を共有している。そこに来た身体が発している音を今キャッチしているという感じが、非常に求められているし、人に生きる力や希望を与えていると感じる。

どんなジャンルを扱えるか。
美術館・博物館の展示・展覧会、映画、音楽、本、歴史・史跡名所、舞台(オペラ、バレエ、文楽、能、歌舞伎、演劇など)、服飾、伝統工芸、食文化、農業、科学、キャリア、医療、福祉...。

だれと組めるか。
自分だけに見えている価値があり、その価値をシェアしたい、それとみんなとの間に自分なりの橋を架けることを使命としている人。ものをつくったり場をつくったりしている人で、自分とそのもの・ことのつながりを語れる人。それが一人ひとりの人生になんらかの影響を与えるかもしれない、大切な体験になることを思える人。

どんなふうに。
・体験と対話。例えば、解説-体験-体験の感想-ふりかえりという型を使って。他にもいろんな型があるし、真ん中に来るものによっていかようにも変えられる。人に話してもらう(表現してもらう)、他の人と交流が生まれるという点で、体験だけをするツアーとは性質が違う。
・「最終的な作品だけを見せて、可か不可か、良しか悪しか、何を体験するかはお一人お一人でどうぞ。あなた次第で」ではなく、「わかる人だけわかればいいので」というのでもなく、「あまねく等しく普及させるための基本のき」のでもなく、そこからもっと一人ひとりが何を体験したかを能動的に聴きに行く、踏み込んでいく、関わりをもとうとする。偶然にまかせずに設計する。
・感想もポジティブかネガティブかに分けずに、聴いてみる。真摯に話してもらい、真摯に聴くことを怖れない。(「うーん...」と今おっしゃったのはあなたの中でどんなことが起こっているんでしょうか?...というような突っ込み方)
・ひらく側が経緯や動機から共有する。綺麗に整形せず、取り繕ったりせず、生半可なものを生々しくやり取りしていく中で、参加者がなぜ自分がここにいるのかを問う、鑑賞や体験に対するスイッチをオンできるようなきっかけをつくる。大切に真摯に受け取ろうという心構えをもったあとに体験したら、その受け取ったことを作り手にお伝えしたくなると思う。そこまで用意するところまでやってひとつの場としてみたい。
・感触、感情、温度あるものをドキュメンタリー的にシェアしていく。

きっと起こるいいこと。
・人数を集めることが目的ではなく、一人ひとりの体験の深さと豊かさを目指すので、本当に人と出会っていくことから人との信頼と友愛を伴ったつながりが生まれる。
・人を通じて、真ん中にくるテーマ・もの・場所のファンが増えるしバリエーションのある層の厚いファンが広がる。
・成り手、支え手が増えることで、今の時代にもその表現物が必要とされ、命が長らえていく。
・好きなものが増える、会いたい人が増えるとこの世界に生きている実感が持てる。
・その人にしかわからない価値が熱く語られることによってこそ、手渡されていくものがあるのではないか。


限りある身体を持っている人間が、命の終わりまで生き生きと希望を持って生きていくためには、力をくれるものをいつも一緒にいたり、そのことによって人とつながりを持ちながら最後まで生きていくことが大切だとわたしは考えている。表現物や自然物はその力をくれるものだし、それを媒介としてつながりを持つ場をつくることが、人が生きていく希望になる。そしてそれを受け取れるだけの感受性も、場によって育まれ磨かれていく。

わたしがそのように考えるようになったのには幼い頃から大人になるまで、芸術や自然に救われてきたという実感があるからだ。ごはんが食べられなくなっても手を伸ばした小説(物語)、ソフィ・カルの写真展で「やっぱり生きていこう」と思えた。そしてそれら表現から受け取ったものの感想を話す場をつくったことが、決定的にわたしを救ってくれた。セーフティネットになった。だから他の人間にとってもそうなのでは、と信じて7年の間、場をつくり続けてきたし、仮説と検証を繰り返してきて、やはりそうだと実感している。

表現にふれ、体験をし、体験を語り、つながりをつくる場。そこには「美」というキーワードも欠かせない。高揚がある、夢中になる、目を逸らせない、なぜか見てしまう、心が揺さぶられる、ということをわたしは「美」という感覚で呼んでいる。美の感覚が起こったときに「わたし今生きてるなぁ」と感じる。そしてそれが場であれば、仕掛け、仕組みによって安心して味わえる、表現できることがとても大事だと思っている。

何らかの要因で人とのつながりから隔絶された状態にいるとき人は孤立しているし、感受性が落ちていて、自分が生きている感覚が持ちづらい。でも、ケアとは異なる文脈で人と出会って、個として表現できたら、自分が生きていることも一人ではないことも思い出せるし、他の人もまたかけがえのない別の個として存在していることを喜び、祝福できるはずだ。

そのような場をつくりたいという人が増えていって、わたし・せいこが全国各地に行くのもしたいし、他の人もいろんなところで場をつくっていったらすてきだと思う。

そして、その中で起こる途中のこと、完成していないもの、整えられていないものを表現していく「ドキュメンタリー」的活動もまたわたしのお仕事としてやっていく。生きる希望を振りまいていきたい。それはわたしも希望を持って生きたいから。希望が余っていたり、だれかを助けようとしてやっているのではない。わたしが希望を持ちたくてやっていることによって、もしだれかが影響を受けたというのであれば、「それはわたしの希望です、ありがとう」という相互的な関係が生まれることを望んでいる。希望を交換しながら増幅している。だからこそ場では健やかであることを大切にしたい。生きる希望というからには、人を損なったり、傷つけないもの、誘導しないものを場に置く。

このような人の関わりを増やしていくことは、正直、とても面倒くさいことだと思う。一人ひとり違うふうに見て、一人ひとりがどんな体験をしているのかを大切にする、配慮するには、起こりうる反応や状況や動きを事前に想定して準備しなくてはならない。対立や行き違いも起こる。でもそのプロセスそのものが美しいし、価値があり、意味があり、希望で、それも大切な場であると言う人と一緒につくっていきたい。誠実に、お互い、見ないふりもせず、怖れから力で押し通そうとするのではなく、取り組んでいきたい人とパートナーシップを組みたい。


✴︎最後にリクエスト
・このわたしのプロジェクトに関わりたい方、一緒にお仕事したい方、ぜひ声をかけてください。
・クライアントをご紹介ください。
・ご感想をお待ちしています。コメント欄などにお寄せください。

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長文を読んでくださって、ありがとうございました。


▼その後、公式サイトをつくりました。


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