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「社会人」に関する考察・その後

「社会人」という言葉に違和感を覚えて、個人的には使わなくなって久しいが、その違和感の出元は何なのか、あれこれと探ってきた。

一昨年書いた記事がこちら。

昨年、また別の発見があったことを書き留めておく。

ある人が「社会人」という言葉を使っているとき、そこには「誇らしさ」や「信頼を置く」というニュアンスが含まれていることに気づいた。

一人前になった、独立している、自立している、自分で責任を引き受けられる、大学を卒業した、自活している、一人暮らしをしている、所得がある、働いている、仕事をしている、自分の力で生計を立てている、親に頼っていない、親の庇護下を離れた、成熟している、順調にキャリアを積んでいる
......など。

そうやって見ていくと、特に20代前半〜半ばぐらいの年齢の人に対して使われる、20代ぐらいの年齢の人が自ら使用している、ある一時期にしか使われない言葉のようにも思えてきた。これを読んでいる方にもそういう実感はあるだろうか。

さらに、学生との区別の意味合いで使ってもいるようだった。学生なのか、社会人なのか。学生とそうでない立場の人に差をつける必要があるときに。

これはわたしは、日本だけの独特で硬直した教育観、キャリア観によるところが大きいと考えている。なぜなら、多くの国で、一般的に学生(Students)と言うだけで暗に年齢を表すということはないからだ。年齢に関係なく、Full-time students か、Part-time studentsがいるだけ。教育機関で学ぶタイミングが人それぞれだから、上に挙げたそれぞれの状態や状況をひっくるめて一語で済ませるということがない。

「学生」に対する「社会人」という区別は、「人は一生学ぶ生き物である」という本質から遠ざけているように感じる。「社会人学生」という言葉も、言いたいことはわかるけれども、どうにも引っ掛かりを感じる。どんな年齢や状況、状態の人も「すでに社会にいる」「市民である」と考えると、「社会」を使った言葉の組み合わせから言っても、あまり適切でないとわたしは感じた。


この違和感を一人で悶々と抱えているのも苦しくなり、海外でフィールドワークをすることの多い友人に問うてみた。

彼女は、30代半過ぎまでNGOで働きながら大学院に籍を置いていたので、日本語的な「社会人」という感覚を持ったことはないという。彼女が話すタイ語やラオス語、英語では、成人を表す言葉で年齢を示すか(英語ならadult)、または「働いている人」「家を出た人(=自活している人)」など状態を示す言葉はある。しかし、「社会」という言葉を使いながら、「社会」の構成員の一部だけを指すという言い方はしないと思う、とのこと。これは非常に重要な指摘だと思う。

また、彼女の現在の職場は通信制の大学だが、そこには高校を出たばかりの18歳も、学校の先生など仕事をしながら学んでいる人も、定年退職後に学び直したいという人もいる。だから、10代や20代と、30代から60代以上の学生が同じ授業を受けていても特に違和感はないという。そして、「その中の誰が 『社会人』で、誰が『社会人』でないのかは、区別が付けられない」。なるほど、区分する必要のない場では、「社会人」という言葉は意味を失うとうことだ。

また彼女のフィールドワーク先であるタイやラオスのことも教えてくれた。
当地では、貧しさゆえに高校からストレートには大学に進学できず、仕事をしてお金を溜めてから進学するという人もそれなりにいるし、日本の専門学校卒業にあたる学位しか持っていない地方公務員が、出世のために、一定期間休職して都市部の大学に通うということもあるそうだ。そう考えると、主に20代の人に向けた「社会人」という言葉には、日本の教育の多様性のなさも表れているように感じられる。

わたし自身は、いわゆる「就活」をせずに4年制大学を卒業し、アルバイトをしながらとある場で1年弱学んでから、企業でフルタイムで働いた。わたしと同年代の人たちが、自分で自分を「社会人」と言い習わすことの違和感を当時はずっと抱えていた。それはなぜかというと、一種の「トラック」「コース」と結びついている言葉で、自分はそこから排除された存在のように感じられたからだ。

そもそも「新卒一括採用制度」なんて、すべてが多様性に欠けている。そのために、学生の学びが妨げられているし、学校以外で学ぶ機会も得にくくなるという話にも発展する。

「そもそも誰が誰に対して使っている言葉なのか」というところには、ある種の社会階層の存在も見えてくる。

「社会人」という言葉から、いろんなものが見えてきた。
違和感を掘っていくのは、おもしろい。