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『マリオとアリエル』2023-06-29

  最近、ポリコレがらみで話題となった映画が2作、立て続けに公開された(気がする)。気がするというのは、確認したら立て続けといっても1月以上開いていたのだが、ヒットしている方がまだ絶賛公開中なので、立て続けてるように私が感じているのである。
 言うまでもなく『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』と『リトル・マーメイド』の実写版である。

 
 ご存じの通り、『スーパーマリオ』はポリコレを無視しているというもっぱらの評価だ。にもかかわらず一般客から非常に高い評価を得ている。逆に『リトル・マーメイド』はそのポリコレ面ばかりが話題沸騰であるにもかかわらず、その部分の評価こそがいまいちである。

 実際、ポリコレが喜びそうな評価は「ピーチ姫が強くて闘う」というぐらいしかないし、それは明らかにポリコレが押し付けたことではない。
 ピーチ姫はマリオカートやスマブラをはじめ、様々なゲームでもプレイアブルキャラとしてガンガン活躍している。米国では1988年に発売された2から戦っているのだ(米国の『マリオ2』は後述の事情により日本版と異なる)。ポリコレどころではない。
 以下の「ヤングチャンピオン」の画像を見れば、いかに一部の評論家たちが本作のヒットに苦り切っているか分かる。

 マリオをやったことない?マリオブラザーズの名前以外何も知らないまず間違いなく嘘だ。評価したくないから、知らないふりをしているのだろう。

 スーパーマリオは言うまでもなく、懐かしさで殴る作品だ。
 40年間ずっと作品を供給し続け、そのほぼ全てが世界的大ヒットをしてきたシリーズである。どの作品が直撃世代だった人をも懐かしさで殴れる、その歴代作品の要素をあらゆるシーンにこれでもかとギュウギュウに詰め込んでいる。というかギュウギュウでなければとても入りきらない(入りきってないが)。

 だが、マリオに教訓的なメッセージがないわけではない。
 それは何度やられても立ち上がる、不屈の精神である。
 このことは作中に何度も台詞として出てくるため、極めて分かりやすい。さすが幼児が見ても楽しめるように作られている映画だ。そしてこの教訓は、本作の題材と見事に融合している。
 普通の作品であれば、主人公が何度もやられ、再起する姿を見せられても、ありふれた教訓を垂れ流されただけのことである。たとえその描写が「原作にもあった」としても、大したインパクトはないだろう。
 しかし本作の場合は、マリオがその不屈さを強調するたびに想起されるのは単なる原作描写にとどまらず、観客ひとりひとりのプレイ体験なのである。
「そうだ!俺たちもガキの頃、何度も何度も、数えきれないくらい死んではやり直したなあ……」
 なぜなら、マリオがそういう作品だからだ。
 スピンオフ作品は別として、正規シリーズのスーパーマリオは本来「死にゲー」である。2作目などあまりに難易度が高いとされ、海外移植を一度放棄されて別ゲームのキャラを差し替えたもの――日本でいう『スーパーマリオUSA』――が「2」として発売されたという逸話があるほどだ。
 何度も何度も失敗し、繰り返し挑んで少しずつコツをつかんでいって、そのステージをクリアする。観客のほとんどにそうした体験があっただろう。
 マリオの「不屈さ」はただの主人公賛美や教訓ではなく、観客が作品に感情移入するための共有体験の呼びかけとなっている。
 この、原作の内容だけでなくメタ的な受け手のプレイ体験にまで訴えてくるという手法は、画面が時おり「横スクロールアクション」風の視点になることにも用いられている。

 何が言いたいかというと、映画マリオの教訓は、作品の題材と見事なまでに融合しているということだ。

 対して、リトル・マーメイドのポリコレ要素について考えてみよう。教訓の凡庸さとしては、マリオの「不屈さ」と「マーメイドのポリコレ」は同じようなものだ。ポリコレなんて所詮、差別ハイケマセンと言うだけのものなのだから。
 しかしそのぶち込み方は、マリオと比べて非常にぎこちなく、チグハグなものである。

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