[読書メモ]『就職がこわい』(香山リカ)
p4
「この学生なら自分の力で人生を切り開くだろう」と思うような学生なら、たとえ卒業してすぐに就職しなくても、それほど心配はしないだろう。ところが、やはり「ふだんから心配な学生ほど就職しない」のである。
pp62-63
たしかに、最初の面接のあとには「こわかった。ひどい目にあった」と蒼い顔をしていた学生のなかには、何社か面接を受け続けるうちに「また冷たくあしらわれちゃいましたよ」と笑いながら報告してこられるようになる人もいる。しかし、"慣れ"は必ずしもすべての学生に生じるわけではなく、なかには一度受けたショックをいつまでも引きずり、面接をきっかけにすっかり落ち込んだまま卒業を迎える学生、あるいは面接に行けば行くほどかえって傷を深めてどんどん元気がなくなっていく学生もいる。
p76
もちろん、これは健全な自己効力感の獲得とは言えないのだが、うまく彼らに「ついに"いつか"がやってきた」と思わせることができるシステムさえあれば、回避の期間が長ければ長いだけ、逆に「いまこそ」と奮い立って秘めたる潜在能力を一気に発揮させることも可能なわけだ。
p90
常識的にはもう少し理論的なほうが信用させやすいのではないか、と思いがちだが、こと弱っている人はシンプルで極端なメッセージによりすがりやすい、というのは洗脳の精神医学的研究からも明らかになっている。
p94
ところがこの『絶対内定』では、「夢を見つけよう」という広い間口から誘い込み、すぐに「きみはそれでいいのか?」「きみはそう思わないか?」と二人称を多用しての矢継ぎ早の質問攻めへ・・・・・・といった巧みな展開により、読者は強い"名指され感"を感じられるようになっている。/「みんなが就職するから自分も就職」ではなくて、「自分が就職せずに、いったい誰が就職するんだ」と就職や就職活動が何か非常に特別で個性的なことに見えてくるのだ。
p113
あるいはそこまで切実でなくとも、「いろいろな自分がいるんだから」「そのときそのときで自分は違うんだから」と思っていたほうが、価値観も情勢もめまぐるしく変わるこの社会では生きていきやすい、という理由で軽い解離を無意識的に選択している人もいるだろう。そういう人たちにとって、解離はサバイバル術というよりは一種の適応だといえる。
p176
「本当の才能とは、そういう悪条件をものとはしないものなのだ」
p179
社会や大人が悪いのか、若者が悪いのか。/この問いは、たとえば「社会の変化が携帯電話を生んだのか、携帯電話が社会を変化させたのか」という「社会決定論か技術決定論か」に近いものがあるが、社会学ではその議論には正解はないということになっている。
p183
何万人が集うコンサートであっても、ひとりひとりがステージ上のアーティストとを感じているだけで、ファンどうしが連帯感や競争意識を感じることはほとんどない。だから、どんなに旬のアーティストのコンサートでも、アイドルでもないかぎりいまは場内が一体となって盛り上がる、ということはまずないと言われる。ステージの上とひとりひとりの観客とがつながる垂直の線が客の数だけ存在しているが、水平の線はないのだ。
p208
子どもが直観的に気づくまでもなく、「なんと言っていいかわからないか好きにさせる」「下手なことを言って嫌われたら困るから、ニコニコしている」というのは、やはり一種の責任放棄であろう。
pp216-217
ひとりで一〇〇〇人を就職させようと思う必要はないが、まず身近な若者ひとりを絶対に就職させる。大人がそれくらいの意気込みで臨めば、全体として、いまよりもかなりの若者が社会に出られるのではないだろうか。
p221-222
人は、人との関係のなかでしか生きていけないが、人をあてにしながら本当の意味で生きていくことも、またできないのだと思う。
p224
「大学の先生ほど、罪な仕事はないですね。前途有望な若者を大学に閉じこめて、四年かけてすっかり使いものにならなくしたところで、社会に放り出すんだから」