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仕事における評価とお金は、決して万人への褒美と足り得ない

仕事をしていて、難しいことや大変なこと、めんどくさいことを任せられる時がある。そう言う時、「美味しい焼肉をご馳走するから」「いい評価にしておくから」等の言い方でお願いされたりする。僕はこれが苦手だ。苦手というか、嫌だ。

仕事というのは、労働に対して評価を下され、それに見合った待遇(お金)をもらうという形式で成り立っている。ここのバランスは各会社各個人で異なるし、破綻していることもあるが、仕組みとしては基本的に相違がないと思っている。なので、基本的に多くの人はお金を貰えるなら面倒なこともやろう、美味しいもの食べられるならいいだろう、という発想になるらしい。らしい、というのは、自分がその気持ちがわからないから、らしい、と書かざるを得ないのでらしい、としている。

こう書くと、僕はめんどくさい社員のように思われるが、そこまで手のかかるタイプでもないという自負がある。何故なら、僕は自分がやりたいと思ったことであれば面倒なことでも責任を持ってやるし、大変なことが往々にしてやりたい興味があることなので上司からすれば断らないで頑張ってくれる人、と思われるムーブをとっているからだ。ある意味、無報酬でもやりまっせ、という都合のいい社員ととられてもおかしくない。

何か大変なことを押し付ける時には対価を与えることで緩和させようと思う人間心理には賛同する。僕もよくそうする。でも、それは提示するものが相手にとって対価に値するものを提示しないと、成り立たない。みんなにとって嬉しいものでしょ?とこれみよがしに提示されても、僕の心はなびかない。寧ろ、嫌悪感すら感じる。そんなものしか提示できないのであれば、押し付ける罪悪感を真っ向から受け止めてほしい、と思ってしまう。

僕は以前、上司から「評価SとA、どっちがいい?」と言われたことがある。その当時は評価で変わるお金は微々たるものではあったが、普通に考えたら評価もお金も高いに越したことはないはずである。でも、正直どっちでもいいなと思ってしまった。むしろ、判断する人が判断を放棄するなよ、と思った。評価を下すということは責任がある行為だし、それを別の人にさせることの方が罪深いと思う。ただ、これに関しては正直自分で決められるなら決めたいって思う人の方が多いとは思う。もしその評価で何十万も賞与に響きます、と言われたらより高い方を選ぶ可能性は高くなるだろう。でも、もしそうだったとしても、どうでもいいだろうな、と思った。それくらい、自分で決める自分の評価に対して興味がないし、責任も持ちたくなかった。

自分ならとか、だいたいみんなそうだからとか、そういうものさしで物事を考えることは悪いことではない。寧ろ価値観や偏見はそういうものから生まれると思う。でも、それに囚われてはいけない。広い視野を持って、目の前にいる一個人と向き合わなければいけない。これは今後生きていく上で自分自身の心にもしっかり刻んでおきたい。

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