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生徒と講師じゃ進路志望も行先立たぬ

それなりの勉強をして、それなりの学校を出て、それなりの会社…とは縁がなかったこともあり、結局アルバイトをしていた学習塾にそのまま就職した。

特にやりたい仕事でもなかったので、第二新卒の就職活動もなんとなくしてはみたもののしっくりこず、結局これで5周目の夏期講習を迎えている。

バイト時代も含めれば10周目を目前に控え、年齢としても30の後ろ姿が見え始めている。海のある町の小高い丘の上にある個別指導塾。県内チェーンで展開しており、新設される教室もあって頻繁に校舎異動もある中で、就職してから5年も連続で同じ教室にいるというのはわりと珍しいことだった。

良くも悪くも流動性の高い業界でもあり、同期はすでに半分が辞めている。私自身もきっかけがあればそちら側に流れていたのだろうが、ただその機会がなかっただけで。反対に事故なく続けていること自体が評価の対象になり、5年もすれば教室長になっている人もいる。

特に評価されているわけでもないが、熱意に燃えているタイプではない割に仕事は仕事としてこなしている程度の自負はある。自分も次の異動のときには、おそらくそういうタイミングなのだろうと、頭のどこかで思っている。

授業のある開講日はアルバイトの大学生と、人数は少ないながらも十数人の小中学生で埋め尽くされている机や椅子も、今日はガランとして空いている。

社員用のデスクの目の前に2つ、横に並んだ席にちょこんと座る小柄な生徒が一人いるだけ。ひたすら問題を解き続ける鉛筆の音が小気味よく響く。邪念もなく真っ直ぐ解答用紙に向ける彼女の目を見ていると、絶望的に減り続けていく休日数も報われるような気持ちになる。

夏休みの期間は受験生に限り、通常の開講日以外も教室を開けることにしている。とはいえ休みが始まったばかりのこの時期は、まだ部活が終わっていない生徒も多く、日中に訪れることは少なかった。

小さなビルの2階の窓から見える青空のもと、コンクリートの地面にはまだ凄まじい日差しが照り返している。それに対して室内では熱量のないLEDライトに照らされながら、ひんやりと心地よく吹いている冷房の風が、彼女の鉛筆や私のキーボードを進める手を後押ししてくれていた。

アイスコーヒーの入ったマグカップに手を伸ばしながら、彼女の様子に目を向ける。

真っ直ぐで素直で純粋さがある。中学生くらいにはそういった子がまだ多い気もするが、特に彼女に対してそう感じるのは、目立って成績がいいわけではないのに、サボらずひたむきに勉強に向き合い続けているその姿勢からなのかもしれない。

おそらく学校の勉強はそれほど得意な方ではない。けれどそうした姿勢でもって、標準程度の学力を維持してきたようなところがある。正直なところ塾講師にとって、とても勉強のできる子に対してできることは少ないし、全くできない子には対処の仕方が全く異なる。

講師として一緒に勉強を頑張りたい、何かしてあげたいと思わせるのは、彼女のような生徒だろうなと思うとともに、大人も同じかもしれないなどということを考えていたりする。そのくらい余裕のある時間帯ではあった。貴重な休日が潰れているのだから、そのくらいは許してもらいたい。


他の生徒と比べても、彼女への思い入れはわりと深い。中学生から通い始める生徒が多い中、彼女がこの教室にきたのは小学5年生の頃だった。

ちょうど5年前、私が就職してこの教室に配属されて初めて入学した生徒、そして社員として初めて指導に入った生徒が彼女だった。最初はお互い緊張していたものの、それぞれの初めてを分かち合い、すぐに打ち解けた。今よりもまだだいぶ幼さのある感じではあったが、その頃から真面目に勉強には取り組んでいたし、ビー玉のように澄んだ瞳は、今もまだ変わっていない。

この塾では高校生を対象としていないので、高校進学とともに全ての生徒が卒業していく。こうしてここで彼女と夏を過ごすのは、これが最後ということになる。

「……せんせい!」

何度目かの大きな声で、彼女が大きく両手を上げていることに気づいた。

「何ですか、人の顔見ながらぼんやりして」

「ああ、ごめんなさい。今日も、暑いですね」

「ほんとに。クーラーが命綱です。外で部活なんて私には考えられない」

夏用に短く整えたという髪の毛を、両手でクシャっと掻き上げる。小学生の頃と比べればずいぶんと大人びたが、細かい仕草にはまだあどけなさが垣間見えるときがある。

「それで、どうしたんですか? 数学?」

「ほんとに何も聞いてない。これですよ、これ」

机の上ではそれまで解いていた問題集の上に、学校から渡されたというプリントが一枚置かれている。

「志望校、夏休み中の登校日までに決めないといけなくて」

「この前の面談で決めたじゃないですか」

「いやー、それがですねえ」

彼女はそう言って呻きながら、もう一度髪の毛をクシャッとしながら、椅子の背もたれに大きくもたれかかった。

「もしかしてまだ迷ってます?」

悶えるように目を瞑ったまま小さく彼女がうなづく。一番上に、志望校調査シートと書かれ用紙の中に四角い記入欄があり、志望校の高校名を一つだけ記入できるようになっていた。その枠の中には、この前に話した志望校の他に、もう一つ彼女の口からは聞いたことのなかった高校名が書かれている。

「なんでまた?」

呻き続けながら、頭を覆う両手の間から開いた目がこちらを覗いている。小動物が人間を前にしてこちらの様子を伺っているようだ。

前回の面談で話していた志望校は、他の生徒と同じ流れで決めている。学校の内申点と定期的に塾で行われる統一模試の成績、それから日頃の小テストやその他の学習状況なども含めて、総合的にその生徒の学力レベルを定める。それを高校側の偏差値や過去の合格実績とを比較して決めることになっている。

彼女と話したところも同様に、現在の学力レベルより少しだけ高いものの、これから試験日までに合格点へ上げていくことが実現可能な高校だった。保護者も本人も、そのときはそれでこじれる様子はまったくなく、「目標が決まってアガってきました」と調子の良いことを言っていたのをはっきりと覚えている。

「難しそうだと思いました?」

用紙に書かれたもう一方の高校は、以前話した志望校よりも偏差値が少し低かった。

「試験は頑張ればなんとかなるって思ってます」

「じゃあどうして」

「映画」

新しく書かれていた方の高校には「映画部」という部活があった。作品の鑑賞や研究、また実際に撮影することも含めて、高校にしてはわりと本格的に取り組んでいるのだそうだ。

もちろん高校の部活だから大したものではないけれども、簡単な映像作品を撮れるくらいの機材も学校にある。もともとその分野に詳しい先生がいて、そこからその道に進む卒業生が出るようになった。今ではそうした卒業生も定期的に顔を出す、界隈では名の知れた部活なのだそうだ。

彼女はその話をたまたま中学の進路ガイダンスで耳にした。実際に高校見学にも行き、そういう生徒も少なくはないのか、部活の様子も見せてもらうことができた。そこまでした高校はそこだけだった。

それまで数字で並び替えられた高校一覧には何の現実味もなかったが、実際の校舎の空気やそこに息づく先輩たちはとても魅力的だった。何より彼女は映画が好きだったが、その好きを自分の進路希望に織り込むことなんて考えてすらいなかった。でもそれがそのとき初めて繋がったような感覚があった。そんなことを、ぎこちなくも必死に丁寧に時間をかけて彼女は語ってくれた。

「どちらか書いて出したらそれで決まってしまう気がして。その前に意見が聞きたかったんです」

視線も背筋も言葉さえも、真っ直ぐだった。未熟さや脆さも同時にはらんでいる強さを、私はこの狭い空間の中で全身に感じていた。ぼーっと言う空調の音の先で蝉の鳴き声が聞こえている。

「先生から言えることは、この前の面談ですべて話したつもりです」

「はい、それは分かってます。分かってるんですけど、なんだろう。そうじゃなくて」

きれいに揃えられたはずの短い黒髪は、いつの間にかボサボサになっていた。苦悶の表情で目を瞑りながら天井を仰ぐ。15歳の彼女にはまだ上手く表すことができない、そんなモヤモヤを伝えられるような言葉を必死に探している

「面談シートには映画部のことなんて書いてませんでした。よく分からないグラフばっかで」

「ちゃんと一緒に計算しながら説明したじゃないですか」

「そういうことじゃない。計算が合ってても、結局何の数字?みたいな」

何の数字?なんだろうね、と私も思ってしまう。ただ何度もそう思いながら、きっと何かに繋がる可能性が高いものだとして、それに頼って塾の先生をしてきた。もちろん膨大な蓄積と分析がなされた根拠のある数字なので、実際にそれなりの結果にも結びついてきた。それでも、いったい何の数字なんだろうね。

しばらく彼女に面と向かっていた私は、隣の席の椅子を引いて座った。手元の志望校調査シートには、2つの高校名の下に、何度も書いては消された跡がついていた。

「行きたいところがある人は、そう多くはないんだよ」

「どういうこと?」

「行きたいところなんてないから、行った方がいいところをその数字に決めてもらってる」

「じゃあ数字に合わせて決めたほうがいいってこと? やっぱり部活なんかで決めるのは変?」

「そうじゃない。変、なんてことは思わない」

「でももっと上を目指せるのに、って」

「誰かに言われた?」

「学校の先生」

「変っていうのはさ、それはたぶん、特別だっていうことだよ」

「じゃあ行きたいところに行くのがいいの?」

「それも分からない。私はそうしたことなんてないから」

「何だよー、じゃあどっちー」

ゆるゆると彼女は席を立つと、教室の外のトイレへと向かった。外の通路は冷房が効いていないので、暑い、という悲鳴が遠巻きに聞こえている。私だって分かんないよ、と思う。でも分かったような答えを出してしまうことは、おそらく間違いだろうという気がした。

「じゃあさー」

生き返るー、と言いながら冷房の部屋に帰還した彼女は言った。

「先生が高校生の時はどんなだった?」

その後は私の取るに足らない高校エピソードを語り合った。本当に取るに足らず、どこにでもある何ということもない日々だと話しながら思う。けれど思ったよりも記憶に残っているものだなと、言葉にして初めて気付かされる。

当時の自分の偏差値も、テストの点数も、学校の成績も全く覚えてはいなかったが、上手くいかなかったことや恥をかいたことばかりを、克明に思い出すことができた。後味が悪い出来事ばかりのはずなのに、それを聞いて彼女は笑った。私も笑っていた。いつの間にか軽い冗談話になっていたのは、周りにいた友人が笑ってくれたからだろう。すっかり彼女たちの視点で、自分の話をするようになっていた。そういえばしばらく会うこともなかった。帰ったら連絡でもしてみようかと思った。

結局その日、彼女は志望校を決めきれずに自宅へ帰った。けれど後日受験に合格した後、進路を決めたのはあの日だったと彼女は言った。好きなことを一緒に話せる友達を作るんだ、と言っていた。私は、おめでとう、と彼女に言った。

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