見出し画像

ポップコーンおじさん

朝から何も食べていない。もともと朝食はとらず、昼が最初の食事なのだが、その始まりの一食にありつくことができなかった。そうして私は予約していたレイトショーを待つ映画館のロビーにいる。

食事をしながらの映画鑑賞は、何だか食べる方に集中力の半分を持っていかれてしまうような気がして、基本的にはなるべく避けるようにしている。しかし今日は状況が違う。むしろお腹が空きすぎて集中できない恐れがある。そんなわけで開場が始まったにも関わらず、このロビーの中央で売店のメニューを遠巻きに睨み続けているのである。

しかしである。メニューの表示、購入して劇場に入っていく人々、そして上映時間の点灯を交互に見ながら、私は迷っていた。

このポップコーンが結構でかい。それだけでなく、座席の飲み物ホルダーに設置できる台とセットで提供されるため、その台ごと抱えていく必要があった。その姿はいわばこの数時間を全力で楽しむことを宣言していた。

これは本来美しい姿である。学生のように見える若い面々、ご夫婦のように見受けられる方を含めたカップルなど、彼らがその台を抱えている姿は大変微笑ましい。

しかし当方、中年の男が一人である。前のめりで楽しもうとしているように見られることに、どこか引け目を感じてしまっていた。そうじゃないから。ただお腹が空きすぎていてポップコーンを食べるしか無いだけなのに、ポップコーンを食べながら映画を見ることだけを楽しみにしてきたかのように見られてしまうことが、恥ずかしかったのかもしれない。どうしておじさんは楽しそうにしてはいけないのだろうか。

そんな老体を見えないものであるかのように、目の前を通り過ぎていく学生さんたちには、ポップコーンの香りという名の幸せオーラがまとわりついている。

そういえばいつから映画が好きになったのだったか。そもそも子どもなんては、映画館に来るような機会ことは年に1回あるかないか。だからこそこの香りや照明、ロビーと劇場を人が行き交う独特の感じは、割と幼い頃まで遡っても特別な記憶として残っている。

ただ頻繁に映画を見るようになったのは、高校生くらいの頃だった。それも映画館ではなく、レンタルビデオやDVD。セールのときには一本数十円で見ることができて、お金のない学生時代には信じられないほどコスパの良い楽しみだった。友人と見るのももちろん楽しいが、もっぱら一人で見ていることのほうが多かった。

旧作ばかり見ていた。安かったからというのもそうだが、共有しなくてもいいからということも理由としては大きかった。レンタルでさえ新作を観たときには、「あれ観た?」があり、仮にそれを観ていた場合には何かその感想を共有しなくてはいけないような義務感があった。

共有は楽しかった感情を拡張させてくれる。共感が生まれた場合はそれを何倍にも大きくしてくれる。ただし広がるのは良いものだけではない。分かり合えなかったときの断絶も、それ相応に大きくなった。だから旧作だけ観ていた。それで十分だった。強がりでもなく、それが一番楽しかった。自分が楽しいと思えるものだけを観ていることが幸せだった。

思えば小さい頃からそうだった。図書館に本を借りに連れて行かれていた頃、親の元からいなくなった私は、いつも映像ブースでアニメ映画を観ていた。きっとその頃から映画が好きだったのだろう。レーザーディスクのようなものをプレイヤーに入れて、ヘッドホンをして観ていた。人がどうとかではなく、そうして自分の世界に入り込んで楽しんでいたのを覚えている。


ロビーから電光掲示板を見ると、上映時間が直前に迫っていた。そのとき、同年代よりも少し上くらいに見える男性が一人、例のホルダー付きの台を抱えているのが見えた。飲み物にポップコーン、それとホットドッグ的なパンだろうか。台の上が飲食でぎっしり埋まっている。表情は大きく動かず真っ直ぐ見据え、毅然として劇場へと入っていった。その後ろ姿が、最終的に私の背中をそっと押してくれたのだった。

「味はどうされますか?」

味。そうか、味。塩か、いや何も食べてないから糖分が欲しいな。キャラメルか。いやキャラメル…若すぎるかな、キャラメルは。いや、もうそんなのは考えないことにしたんだった。そう、そうだ。食べたいものを食べる。ただ…、なあ。そう。だから…塩分も足りてないんだよな。塩。あ、

「ハーフもできるんですか?」
「Lサイズにすればハーフ&ハーフを選べます」
「エル」
「この箱がLサイズ、レギュラーと比べてこのくらいです」

いやー…でかいな、やっぱり。食べきれるかな…。でも捨てがたい。捨てがたいな、ハーフ。レギュラーで十分だけど。ハーフ、ハーフ……なあ。

「Lサイズのポップコーンセット、塩とキャラメルのハーフ&ハーフと、お飲み物がコカ・コーラでよろしいですね。850円になります」

あれほど躊躇していたホルダー付きの台も、一度抱えてしまえば何ということはなかった。そもそも自分自身、今日まで他の人が何を食べながら観ているか、気にしたことなんて無かった。

ハーフ&ハーフは大正解だった。塩味とキャラメルの甘さを交互にいける、一生飽きのこない無限ループは、Lサイズくらい全くものともしなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?