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コロナ危機で感じる差別の本質

年が明け、2021年になりましたが、コロナウイルスの感染拡大は止まりません。先日、ついに2度目となる非常事態宣言が発令され、事態の収束は見えなくなってしまいました。

かれこれ1年近くもコロナに関する様々な論が飛び交っている中で、
コロナ感染による差別が後を絶ちません。コロナウイルスは全人類共通の敵であるはずなのに、、

コロナという言葉が世界で広まり始めたのは昨年の1月下旬。中国で新型肺炎が流行し大変なことになっていると聞いたことを覚えています。
当時は「中国の病気」というイメージが強く、アメリカなどではアジア人が襲われたり差別を受けるケースが多発しました。

時が流れ5月になると中国のほうは落ち着きましたが、アメリカ・ヨーロッパでの感染が急拡大し、今度はアジアにいる欧米人たちが差別を受ける側になってしまいました。

日本国内でも、特に地方部ではコロナの陽性反応が出ると、陽性者は村八分にされるというニュースを耳にします。しかし差別した人も感染する可能性は十分にあります。
このように、差別する側とされる側は紙一重なのです。

なぜこのような差別が生まれるかというと、「見えないものは怖い」という意識なのだと思います。
人は目に見えないものを恐れます。なのでコロナウイルスはとても怖い存在ですが、いくら批判しようとしても実像はありません。一方で「感染者」は人間なので怒りの矛先として向けやすいです。
いじめや政府批判がなくならないように、やり場のないストレスをぶつける対象は目に見えるものでないと成り立ちません。

また今までと異なる生活を強いられていることや、経済不況などからストレスが溜まり攻撃的な思考・発言をする人が増えているように感じます。
当事者も差別や暴力を行うことが正しくないとわかっていても、自分のストレスを解消するためにそのような行為を行っているのかなと推測します。

こんな時代だからこそ愛をもって人とつながることができればいいですね。

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