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一人断腸亭日乗 正義

ウィキペディア参照

正義が正しい感覚が僕にはない。だから事更に正義を求める感覚がよくわからない。正義を辞典で調べてみてもその道徳的正しさを希求する感覚が本当にわからない。わからないから、僕はそれがすごく怖い。

アメリカという国は、正義という概念でしか人を統治できなかった国だとひろゆきが言っていた。歴史が浅いのに多様性という言葉だけが一人歩きして多様性の多様性たる所以がなぜか正義準拠になっている。日本人の僕には本当にそれがわからない。

正義ってなんだろう、と考える。
僕が正義という言葉を使うときそれは一つの揶揄も含めているのだけど、そこには多分に「宗教的信仰」が含まれている。可愛いは正義だったり、BLは正義だったり。それは信仰の告白でしかなく、信仰の告白は、「貴方と私は違う」という宣戦布告である事が多い。それは果たして世界に普及させるべき物なのだろうかと考える。各個人が行える凄く簡単な宣戦布告が「信仰告白」でしかないんだよなあ。

「貴方と私は違う」

そう宣言されて良い気持ちになれる人が一体どれだけいるだろう。それは断絶であって融和じゃない貴方と私は信仰の線で分かたれた、と一方的に宣言されるわけだ。貴方と貴方として認める、というのはその信仰を認めるところから始まるのだけど、共同体を形作る為の「信仰」って共同幻想を共有しなくちゃあいけないわけで、そうなったときその幻想に添えなかった人達はどうなってしまうんだろうなあって考える。
だからやっぱり正義は怖い。

米中の摩擦がヤバいらしい。
というかこれから世界は昭和に先祖返りしていくだろうし場合によっては戦争もどきも起きるかもしれない。世の中から正しい基準が無くなってみんながフワフワしてこっちに行こうという人や国やコミュニティが無くなっちゃった。そんな時に頼るのが正義?一番頼っちゃいけないでしょう。

所謂リベラルな人達は、もちろん私にもリベラルなところはあるけれど時代の革新と進化を望んでいる。世界は常に移り変わり、変革していくべきだ。、と。変革は楽しい、世界が良くなればもっといい、でもそれが一体何人の幸せを形作るのか僕には甚だ疑問なんだ。

みんなは幸せになれないよ、と言われる。
じゃあその変革を支持する必要なくなくなくない?って思う。それは貴方の幸せであって私の幸せでないのなら私はそうならない為に全力で貴方の理想を壊していく、そういう話にしかならない。宗教戦争じゃん、そんな物。

変革は楽しいし、進化は面白い。でもこれだけ世界がフワフワしててみんなが「どうしよっか」って言い出した時に結局行き着いてしまうのは、生物的本能になると思う。
食べる事、子供を作る事、寝る事。その為に必要な全てがこの世界の全てになるだろうしそうなったらそこに果たして正義ってあるの?って思ってしまう。

つくづく思うのだけど、やはりリベラルな思想ってお金持ちの道楽な面が多いよね。明日の仕事に頭を悩ます一般人に正義による統治、正義という信仰による共同体なんて作れないよ。だって食うに困れば人間は人を殺す。奪うし支配もする。正義なんて元からない何故なら、

自分の子供を食わせる為に人を殺す事だって一つの正義だからだ。

最近谷崎潤一郎の陰翳礼讃を読んだのだけど、
日本人いやアジア人の美徳の一つに「不潔であり怠惰である事」があるそうだ。わかるなあ、と思う。僕はこのアジア人的不潔さにこそ、多様性が隠れていると思っている。
キリスト教はその教えにより人間を猿から文明人へと変えたらしい。それを奢りだと笑える強さがアジア人的誇りだと僕は思うから矢張り僕に耶蘇は合わないと思う。

めでたし聖寵満ち充てるマリア、御身の守護に感謝します



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