水筒の落ちる音がうつくしかった

仕事を終えて、いつもの帰り道。
残業をした後に乗る電車はだいぶ空いていて、私は手近な座席に座ることができた。

発車メロディを背に電車はゆっくりと進む。

声には出さずに、私は小さくため息を吐いた。
視線だけ動かして回りを見渡すと、どことなく疲れの色が隠せない人たちが一緒に揺られている。
仕事、学校、他にもいろいろな用事があって出掛けていた人たち。
きっと、それぞれの生活に根ざした疲れなんだろう。

向かいの車窓に反射した自分自身と、ふと目が合う。
まぶたが重そうで、腫れぼったい顔は周りの人たちと同じだ。

なんのこれしき。
私は目をギュッとつぶって、パッと大きく開く。
刮目。瞠目。
そしてまたギュッとつぶって、パッと開く。

息を大きく吸うのは深呼吸。
じゃあ、目を大きく開くのは……なんだろう、深瞬きとか?

言い表すのに適切な言葉は見当たらなかったけど、一日中パソコンに向かっていたせいか、目は閉じるたびにシパシパと染みる。

そろそろブルーライトカットの眼鏡を買おうかな。
私は四度目に閉じた目をそのままにして、最寄り駅まで少しだけ眠った。


駅から私の家まではそう遠くない。
ウォークマンで4〜5曲も流行りの歌を聴いていれば着いてしまう距離だ。

いつもはすぐにイヤホンを取り出してしまうんだけど、その日は静かに帰りたい気分だったので何も聴かずに歩くことにした。

すっかりシャッターの閉まった駅前の商店街を歩き、裏道を何本か進むと大通りに出た。
ここは車の通行量が多いうえに信号機がなく、なかなか向こう側に渡ることができない。
朝、急いでいる時なんかはもどかしくてたまらない場所だ。

でも帰り道なら、そう急ぐこともない。
私は横断歩道の手前で、左右から来る車が途絶えるのをじっと待った。

横断歩道の向かい側では、リュックサックを背負った若い女性が、私と同じように渡るタイミングを待っていた。
あっちには大きな総合病院が建っていて、彼女はそこから出てきたようだ。
仕事上がりの看護師さんだろうか、なんて想像をする。
髪を後ろで束ねていて、なんとなく快活そうな印象だ。

待てども、なかなか車の列は途切れない。
左から来なくなったと思ったら、右からスルスルとやってくる。
みんな早く帰りたいのか、それともどこかに行きたいのだろうか。
ヘッドライトの強い光を浴びて、ついつい目が細くなる。

そうこうしていると、リュックの女性の後ろからスーツを着た壮年男性が歩いてきた。
すぐそこに車のディーラーがあるから、そこで働いている人かな、なんて、また勝手に想像をする。
遅くまで働いていたところ申し訳ないが、彼もめでたく、チーム「横断待ち」の仲間入りだ。

ところが、スーツの男性が通りの前に着いた瞬間、左側から来ていたトラックが横断歩道の手前で止まった。
そしてトラックドライバーの男性は、夜でもよく日焼けしているのが分かるたくましい腕で「どうぞ渡って」というジェスチャーをしてくれた。

よし。右からの車はちょうど途絶えている。
私はドライバーに会釈をして、横断歩道を渡ろうと足を出した。


そして、多くのことが同時に起こった。


まず、スーツの男性が「あ!!」と大きな声を上げた。
横断歩道を歩き始めていた女性が驚いて勢いよく振り返り、束ねた髪がふわっと宙に浮く。
それと同時にトラックがヘッドライトを落とし、私は細めていた眼を開いた。
スーツの男性は言葉を繋げていた。「カバンが開いてますよ!」
女性の表情はこっちからは見えなかったが、たぶん「しまった!」という顔をしただろう。
けれど時すでに遅く、振り返った拍子に大きく開いたリュックの口から何かが飛び出していた。
私がそれを見たのは、横断歩道の上で二歩目を踏み出そうとした瞬間だった。

くる、くる、くる。

私と、リュックの女性、スーツの男性、トラックドライバー。
四人の視線が、飛び出したものに集まる。

ステンレスの水筒だ。

一瞬ののち、涼やかな金属音が高らかに鳴り響いた。

金管楽器で出来たキツネがいたらこんな風に鳴くのかもしれない。
中身はすっかり飲み干してあるのが分かる、高い音だった。

私はつい、横断歩道の途中で足が止まりかけた。
素晴らしいシーンに巡り合ってしまった。
そんな気がしたのだ。

水筒はアスファルトの上を少し転がったのち、スーツの男性が拾って女性に手渡され、みんな再び自分の帰路に着いた。
私もリュックの女性、スーツの男性そしてトラックドライバーと横断歩道ですれ違い、自宅へまた歩き始めた。

家に帰ってからも、私は心の中に妙な充実感を覚えていた。

横断歩道で止まり、ライトを落としたトラック。
わざわざリュックが開いていることを教えてあげた男性。
すっかり飲み干された水筒は、日中に頑張って働いた証左だ。

居合わせた人のそれぞれが、それぞれの生活に根ざした疲れがある中、小さな親切を実践した末に生まれた、夜に響く水筒の音色。

あんな高さから落としてもそうなるはずはないのに、私にはあの瞬間、アスファルトに触れた水筒から火花が散ったように見えたのだ。

生きていくことはそう簡単なことじゃない。
日々の暮らしの中で、心がどんどんと荒んでいく人をたくさん見てきた。
境遇を嘆き、他人を攻撃し、ついには自分が心の平穏を保てていないということすら分からなくなってしまう人もいる。

気持ちの在りようを言葉で言い表すのは難しいが、私はこれからもずっと、水筒の落ちる、あの音のうつくしさが分かる人間であり続けたい。
想像力、感受性、思いやり、そして当たり前だと思っていることに感謝すること。
ステンレスの水筒が教えてくれたのは、人としてのゆたかさとは何か、ということだったように思う。

そして、お互いにゆたかな気持ちがあれば好意の輪は繋がっていくのだ。
現に、私はあの横断歩道が少しだけ好きになったのだから。

自己投資します……!なんて書くと嘘っぽいので、正直に言うと好きなだけアポロチョコを買います!!食べさせてください!!