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なんで「空間」が好きなの?人が活用することで生まれるプレイス

私は来年度ある奨学金を利用し、海外でインターン・ボランティアをするために計画書を書いている。「留学」と言っても大学の交換留学で行くわけではなく、どこに行くか、何をするかは全て自分で決める。

私は「地域内の活動促進と空間活用」をテーマに計画を進めている。これまで、地域の交流が目的のイベントを公園で実験的に行ったり、当たり前のまちの景色をおもしろがることを目的にまち歩きを行ってきたりした。そしてこれからは、まちのなかの空間を使って、住民の活動を促進できるような場をつくりたいと思っている。



私が好きなまちの空間


計画書では「空間活用」という言葉をよく使っているが、私の言う空間ってなんだろうか。なんで興味を持ち始めたのだろうか。

元々、間取り図や家の構造を見るのが好きだったのだが、「空間」という言葉を意識するようになったのは、逆に空間が利用されていない様子を見たからかもしれない。駅前や道路で人が立ち止まることなく、家と駅と職場の点をつなぐようにただ通り過ぎていく様子だ。駅前で野菜が売られていて店員さんとお客さんと話している様子を見るといいな〜と思うし、街区公園で小さなマルシェが行われ住民が集まっているのを見るとわくわくする。

意識がより明確になったのは、オーストラリアのメルボルンに訪れたときだ。公園(ガーデン)では寝たり話したり軽食を取ったりそれぞれが思い思いに過ごしているような姿が多く見られる。また、郊外でも店の前の歩道にはテラス席が置かれて、歩いているだけでも賑やかな様子が見れる。

なにより、なんでもない道ばたや小さな公園といったまちの「間(ちょっとした外の空間)」を使って、みんなが自由にすごしていたり、楽しもうとしているのがなんともわくわくする。にやけてしまうような気持ち。

外で過ごすことの不慣れ


もちろん、日本ではオーストラリアのように寝転がれるような公園が当たり前にはないし、道路沿いのベンチも少ない。何かを置くにしても、法律や規制で禁止されていたり手続きが大変なことだらけだろう。
しかし、何より日常的に外で過ごそう、もっと空間を使ってみようという思いを持った人が日本ではまだまだ少ないのだと思う。整備されたテラス席では過ごすけど、「道端で休む」「公園で過ごす」ことが習慣の人は多くないだろう。

メルボルンで驚いたのは、ある地域では住民の行動により、車道が封鎖、そこに人口芝生やベンチなどが置かれ、人びとの憩いの場になっているという事例があることだ(ヘッダーになっている写真)。子どもたちのために安全にしたいという思いもあるが、そこに住む人びとが「もっと快適に過ごしたい」という思いがある。

繋いでいきたい交流の場


日本で私が好きな場として思いつくのは、商店街など地域の小さなお店が並んでいるところ。そしてそこで大事なのは人で、商店のおばちゃんや自らコミュニケーションを取るような客がいることで会話が生まれる。人が集まれるような空間、そしてそこで人とのコミュニケーションが生まれている場に興味があるのだ。

スーパーなどが代わりに出てきてそのような場が減っている現代では、コミュニケーションが生まれるような場を意識的につくっていく必要があるのだと思う。

まちの空間 × 交流の場

交流の場というのはオンラインであれ、カフェであれ、色々な場所が挙げられるけれど、「まちの空間」で挙げたような、公園や路地、軒先などを活用した活動も、そこに住む人びととコミュニケーションを取ることにつながる。

お店などの常にそこにあるような場と同じくらい、まちの「間」を活用して行われるような臨時的な場も増えたらいいな、と思っている。商店街のように、まちにひらいた場は外に通じていることが大事だと思うから。外で人が集まっていたら、なぜかわたしも入っていっていいような気持ちになる。


読んでいただき、ありがとうございました!




追記: 空間活用と交流の場、などがごちゃごちゃになってしまったのでまた編集します✏