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東日本大震災について、いま思うこと

3月11日を迎えると、どうしても東日本大震災について考える。
あの地震について考えるときに僕はいつも、自分の立ち位置を測りがたく感じている。

僕は福島県郡山市で生まれ、18歳までそこで育って、大学1年生になった19歳から主に東京で暮らしている。
2011年の3月11日は大学2年生で、僕はその瞬間は東京にある大学の部室にいた。
東京も震度6程度だったから、大きく揺れることは揺れて、部室にある本棚ががたがたと音を立て、
D中くんが目を剥きながら両手を大きく広げて、必死に背中で本棚を支えていた姿はいまでも忘れられない。
それからとなりにある公園に避難し、スマホを見ると東北を震源としたあまりにも大きな地震だったことがわかった。
もう部室には戻らないように、と大学から通達され、とはいっても電車もすべて止まってしまっていて帰れなくなったので、
僕たちは近所にあるS川くんの家に宿泊させてもらった。
その間に家族や友人にはメールかラインを送っていたが、音沙汰がなかった。
S川くんの家でテレビをつけると、そこには現実離れした津波の映像が流れていた。
家族や友人と連絡が取れていない事実もあり、ぞっとした。

数時間後に家族や友人から返事があり、みな無事だとわかった。
本当に幸いなことに、電波が混み合っていたり、連絡どころではない状況なだけだった。
心からほっとした。
その日は東京も異様で、スーパーやコンビニにはものすごい行列ができ、食材がほぼ売り切れてしまっていた。
ようやく買えたお菓子やつまみなどを食べ、その日を過ごした。

最初に書いた、立ち位置を測りがたいというのは、僕は福島県出身ではあるが、自分が直接大きな被害を受けたわけではない、というところが元にある。
当日の現地の様子について知っていることは、地元に住む家族や友人から聞いた話や、メディアを通した内容、震災後に訪れて見たものなどしかない。

しかも、東京に住んでいる以上、使用する電気は東京電力が発電したものであり、その発電所には福島原発も含まれていた。
地震による被害を受けるどころか、被害を増長させる側に乗っかってしまっていたともいえる。

だが、東日本大震災に対して冷淡な発言や行動のようなものを見聞きすると、強い怒りを感じざるを得ない。
それはやはり「故郷であるから」「好きな場所だから」「好きな人たちがいるから」としかいいようのない感情だ。

でもこの怒りも、もしかしたら、直接の被害を経験していないからできる、身勝手なそぶりなのだろうか、とも考えることがある。

この13年間、僕は福島をはじめとする東北地方には、たいして貢献できていない。

いまだに自分のなかで、あの大震災を消化しきれていない。

かろうじて支えになっているのは、橋本治『ぼくらの最終戦争』という本にあった下記の文章である。

大震災にあった人達に必要なのは、「忘れる」ということだ。それが出来てはじめて”復活”は可能になる。でも、大震災にあわなかった人間達のすることは違う。大震災にあわなかった人間達のすることは、それを「忘れない」ということだ。


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