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機会と枠組みについて

本日3月8日は、国際女性デーです。

今日はジェンダー問題について沢山の方が発信をされていますが、女性も男性も「能力」の観点で意見を述べる方が多く見られます。
〈女性にも能力が高い人が多い〉、〈動物的な男女の能力差は否めない〉など、ポジティブのつもりだったりネガティブなものまであります。
シンプルに私の意見を一つ、これは「能力」の問題などではなく「機会」の問題だとはっきり言っておきたいと思います。

根本的には、家父長制度の固定のために、家事や子育てなど家庭内のケア労働を女性に任せ、そのための〈女性はこうあるべき〉理想が醸成されてきたために、女性が能力を発揮する機会、女性が自分の意思で選択できる機会が男性より少なくなっています。

北村紗衣さんも書かれていましたが、〈女性問題は男性問題〉であると、その点が最近少しずつ一般的に共有されるようになってきましたが、まだまだこれからです。

下記のフェミニズム関係の記事は、沢山ご覧頂きました。
男性ミュージシャンが「ジャズはジェンダーで語られるべきではない」と発言したことについて「女性側は、いつでもジェンダーで語られてきた」という内容です。

私がデビューした頃は「女性ピアニスト」と、必ず頭に「女性」が付いていましたが、付けたのは男性と、男性社会で生き残るために差別を内面化してしまった女性です。後者の中には、女性A&Rや媒体関係者、それに私も含まれています。

私が〈女性ミュージシャンだけ眼鏡じゃないといけない空気って、おかしくないか〉と気付いたのは自分の病気が発覚したためでした。そちらの記事はこちら。

上の記事は、ブログに掲載していた頃に、Twitterで沢山拡散され、本当に沢山の方に見て頂きました。

〈機会が均等に与えられていないかも〉という疑念は、暮らすシステムの中で何か問題が起こらないと、その当人でないと、気付くことができません。〈このトイレに段差があって使えない〉とか、健常な人にとっては本当に小さなことです。
気付いた人が「おかしい!」と声を上げると、「煩いフェミニスト」と言われます。煩いと言う人たちは、そのシステム内で暮らすことに現状何の問題もないですから、煩く感じて当然でしょう。
しかし、そのシステムは誰かの機会を奪って成り立つものだったのではないかと、その場でトイレに行く機会を奪われた人が声を上げないと気づかないことだったりするでしょう。

作ったシステムにバグが出て、アラートが出ている状態を放っておくか、改善するか、OSをアップデートするか、そんな話だと思っています。

今日3月8日は国際女性デーということで、男性のSNSの発信で、「ガールズバンド」「女性トリオ」などと名乗ることについて、「ジェンダーフリーとか言いながら、当の女性がジェンダーを強調するのは違和感しか無い」という内容の意見が沢山見られました。

そういう方々への私の希望ですが、
〈その「女性」「ガールズ」という言葉は、誰がどうして付けたのか〉
を、少し考えて頂きたいのです。

「女性」を出すことでお金になるから付けた男性、もしくは名誉男性(男性社会に適合して勝ち残ってきた女性)がいるかもしれない。
当の本人の女性が付けたのならば、「女性」と付けた方がアピールになる、売れると潜在的にでも思ってしまう社会の枠組みがあるのかもしれない。

そんなことを、女性当人の能力ではなく「機会」と「社会の枠組み」について、思いを巡らせてもらえたらいいなと、現在古いOSから脱皮中のフェミニストの私は思っています。

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