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「強い現実」と「弱い現実」

 今回は内田樹の「そのうちなんとかなるだろう」を読んだ、その主観的感想と大事だなと思ったところの引用。この本は、内田さんが自分の人生経験を、その時代の周りの状況や、その時の自分の気持ちにまで振り返って書いたもの。人と仲良くなる秘訣や本人の人生観についてもわかりやすく読みやすい文章で書かれている。一冊の文字量はそれほど多くないのだが、不思議なほど充足感がある。

 彼の生き方は自分と重なる部分が多かった。もしも、自分の人生を振り返って満足できた人たちを集めて、そう思うに至るまでにどういう経路を辿ったか分析したら、大きく数種類のタイプに分類できてしまえて、それが私と内田さんは同じなんだと思う。それは一番カッコ悪く泥臭い人生を送ってきたタイプ。ずっと立ち止まってて、歩き出したと思ったら急になんば走りを始めたり、それも上手くできなくて転んで泥まみれだったり。

 本書の中で自分と内田さんが似ていると感じた箇所は、「このままじゃいけない自分」に気づいて武道を始め、師を求めていたというところや、学生時代に反ユダヤ主義や狂信的ナショナリズムについて研究していて、双方の主観と彼らなりの世界像を自分の視点から解明しようとしていたところ。自分の心と直感に最も信頼を置いていて、それに従って行動する勇気と頑固さだけはなぜだか持っていた、というところなど。

 私は20歳の時に、1年間いた私立の美大を中退した。そしてお金を貯めて、中国のチベットに旅立った。大学を辞めるまでの自分の人生は、自分の選択ではなく、周りの目を意識したものだったような気がする。初めてした自分自身の決断を支えたものは、今思えば全く根拠の無いものだった。内田さんの言う「心と直感」だけに従ったのだ。だからその後どうやって生きていけばいいかとか、アテは何もなかった。それからの私の人生は、細かく見れば、辛い事や苦しい事もたくさんあり、後悔もしたし、再び臆病で消極的な自分に戻ったりもしたけれども、そんなものは忘れてしまうくらいの「絶景」をいくつも見る事ができた。この絶景は、場所だけじゃなく「人との出会い」も、今まで知りもしなかった「思想」の類のものも含んでいる。後悔のない満足した人生を送りたいのだったら、自分が変わっていくしかない。内田樹の言葉は、私たちにその勇気を与えてくれている。

「あのとき、ああしておけばよかった」と思うのは「あのときああしていた自分」が「本当の自分」だと思っているという事です。でも、今の自分は「あのときあれをしなかった自分」です。「俺は本当はこんなところにいて、こんなことをしているはずじゃない」と思っている「仮の自分」です。 そういう人はその失敗を糧にすることもできないし、それを通じて人格陶治をすることもできません。 だって、今「あれしておけばよかった」と思って悔やんでいるのは本当の自分じゃない「誰か」だからです。「ああ、うんざりするぜ」という「うんざり感」だけが空中に浮遊していて、「うんざりしている主体」が存在しない。笑いだけが残って姿を消すチェシャ猫みたいなもんです。後悔だけがあって、「こんな失敗は二度と繰り返すまい」と思っている人間がいない。

 後悔しないためと言いながらいきなり海外へ行ったり、やみくもに挑戦し続ける事がいいと言うことでもない。内田さんは武道家でもあるから、日々の修行を通じてそれを学んでいるのだろう。手塚治虫の漫画「ブッダ」に出てくるアッサジ少年のように、幸せとは何かとか、自然と生きる術を知っていて、そのように生きて静かに亡くなっていく人もいる。

 決断とか選択ということはできるだけしないほうがいいと思います。右の道に行くか、左の道に行くか選択に悩むというのは、すでにそれまでにたくさんの選択ミスを犯してきたことの帰結です。ふつうに自然な流れに従って道を歩いていたら、「どちらに行こうか」と悩むということは起きません。日当たりが良いとか、景色がいいとか、風当たりがいいとか、休むに手頃な木陰があるとか、そう言う身体的な「気分の良さ」を基準に進む道を選ぶ人は、そもそも「迷う」と言う事がありません。 そちらの道を選ぶと、「日が差さなくて、景色が見えなくて、どんより気が濁っていて、腰をおろしたくなる場所もない」というような道が分岐点に出てきても、「そんな道」を選ぶはずがない。そんな道は選択肢としては意識化されませんから。ですから、身体的な気分のよさを揺るぎない基準にして歩いてきた人は、実際にはいろいろな分岐点を経由してきたのだけれども、主観的にな一本道を進んできたような気がする。 それが理想なのだと思います。

 この本の最後の方で彼は、彼自身が人生においてどのような選択をしても、結局は同じようなところに行きついたのではないか、という独自の考えを書いている。これは「そのうちなんとかなるだろう」というこの本のタイトル通り、この本の要となる思想なのではないかと思う。

大学教員になっていたらまず読まなかったはずの本が自由が丘の部屋の書架にあるはずです。それらの本は僕にとって「弱い現実です」。もしそれらを面白がって読んでいる僕がいるとしたら、それは「自分らしくない僕」です。 それくらいの「強い弱い」の区別を現実についてもできるんじゃないかと僕は思います。 「弱い現実」というのは「入力の違いがあれば、現実化していなかったもの」のことです。「強い現実」というのは「かなり大きな入力変化があっても今と同じようなものとして現実化しているもの」のことです。それがその言葉の本来の意味での「自分らしさ」ということではないかと思います。 さて、そこでぜひ強調したいのは「自分らしさ」が際立つのは「なんとなく」選択した場合においてです。とくに計画もなく、計算もなく、意図もなくしたことにおいて、「自分らしさ」は鮮やかな輪郭を刻む。そういうことではないでしょうか。

 元々自分たち人間の心、もしくは魂と呼ばれるものに備わっているものは、その時にいる場所や物事に容易に左右されて、コロコロ変化するような、そんなやわなものじゃないっていうことを、内田さんは自身の人生経験を通して教えてくれている。


読んでみたいと思った方はこちら。Kindle版もあるよ。↓

内田樹「そのうちなんとかなるだろう

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