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小学4年生

 ポーランドの美大もコロナの警戒のために明日からしばらく休校。時間もあるので思いつくままに思索していきます。

 まず、小学校の4年生の頃の話から。昔の辛い思い出話をするのは疲れるし好きではないけど、私はちょっと特殊な子で、特殊な状況だったし、そういう人間が存在していてそう言う状況が今後も起こりうるって事を知ってもらう意味でも、書いておく。

 私は小学生の時、学校では大人しい子どもだった。小学校4年生のときも、大人しかったためか、先生に目の敵にされていた。当然そんな状況下で学校を好きになれるわけもなく、勉強は苦手だし、宿題もよく忘れてくるし、特に仲のいい女友達もいなかった。私は誰とでも話をしたし、みんなから嫌われていると思ったことはなかった。放課後になると毎日遊んでいる、背が低くてひょろっとした男友達も1人いた。ただ、言葉でも表情でも自然に感情を表に出す事が苦手だったので、女友達とはしゃいだり、もたれかかってふざけ合うようなこともできなかった。そんなおとなしい子どもに育った原因は、先天的なものもあるかもしれないけど、お母さんが精神的な問題を抱えていて、子どもながらにいつも気を使わないといけなかった事とか、お父さんが子どもに対しても大人と同じように接する教育方針だったのが関係していると思う。(参考にしたのは、今はヨーロッパでは主流のモンテッソーリ教育っていうやつかな。お父さんのは自己流だったけど。)小学校っていう場所では、必ず一回はいじめるかいじめられるかされる環境だけど、当然私はいじめられる側だった。そんなにひどいいじめにはあったことはない。パシリみたいに、利用されたり、急に陰口言われる程度。でも基本はひとり。一人ぼっちが強調される休み時間は嫌いだった。バスの座席を決める時、席替えをする時、最後に余るのはいつも私だった。そんな毎日の中でも、図工の時間だけは好きだったし得意だった。私のことを大嫌いな先生も渋々認めるしかない描写力を持っていた。ポスターを描けば必ず全校生徒の前で表彰されていたから、学年の中でも「絵の上手い子」で有名だった。絵がうまいから入れてあげてもいいよ、って言われて修学旅行のグループに入れてもらったこともある。

 ある時先生に呼び出されて先生の座る机の前に出て行くと、先生は言った「あなた、友達ができないのは自分にも原因があるって、考えたことないの。」私は友達がいなかったけどみんなから嫌われてはいなかったし、好意を持ってくれている男の子も数人いたのを知っていた。そのときは何を言っていいかわからず黙っていた。またあるときは、国語の授業の音読の時間。私は大きな声が出せない子どもだった。先生に怒られるのが怖かったから、というのもある。私が読み始めようとすると、先生がそれを遮る「え?今何か言ったの?誰か、今の聞こえた人いる?」と言い、静まりかえった教室を見渡す。当然、誰も手を上げない。私が再び声を出し読もうとしても、聞こえていないフリをする。そして、その授業中私は無視をされ続け、授業は進められた。私はその時間が終わるまで、席を立たされ続けた。あるときは、授業中に突然「あなた、笑った顔一度も見たことないけど、今まで笑ったことあるの?」と言う。そして、静まりかえった教室でひとり、笑顔を作ることを強制される。私はそれをどう乗り切ったのか、よく覚えていない。私はその時間が一刻も早く過ぎ去ることだけを念じていた。こういったことが、一週間に1度か2度は必ずあった。父に話せば、父は学校を訴えることは目に見えていた。転校させたかもしれない。私はクラスのみんながすきだったし、自分が耐えればなんとかなることなのだと思っていた。また、それ以上に、そんな惨めな状況に毎週のように晒されている自分を話すことは、父のプライドをも傷つけるような気がして、話せなかった。家に帰れば、そんなに活発な方ではなかったけども、普通に笑って兄弟と遊んだり、ペットたちと戯れたりして楽しく過ごしていたからね。

 その先生は20代後半の男性で、筋肉質でずんぐりむっくりとした、縄文人のような濃い顔つきの人だった。私は今でも、あのじっとりと私を監視する目を、覚えている。今考えると、あの目は、私を、子どもらしさのない、何を考えているかわからない者としてみていた、私を嫌っていたのは、得体の知れない者への恐れからではないかと思う。実はこの、得体の知れないものを排除しようとする心の動きこそが、さまざまな差別を引き起こしているんだってことが、今ならわかる。だから、私はこの地獄のような状況でさえも、経験してよかったと思うことにしている。少なくとも私は逃げなかったし、傍観者ではなかった。ただの1年間でも他の子が標的になることを避けることができてよかったと思うのだ。

 それから数年後に聞いた話では、その先生はPTAの間でも度々問題になる程、親たちからの苦情が絶えない先生であったらしい。その先生が学校に来て1年目に、私はその先生のクラスになったのだが、最低任期の3年でその先生は移動になった。またその後の学校でもその後の学校でも、3年で学校を移動になっている、と言う話だった。人格に問題がある先生でも、大きな事件が起きない限り教師を辞めさせることができないのも問題だな。

 話は戻るが、ここから先はその「得体の知れないものを排除しようとする性質」について現時点で考えていること。

 日本では特に、女の子たちは無知でいる事を望まれる。父は私がホロコーストについての残酷なものを見たり読んだりすることに対して「なぜそんなものを見るのか。人生は短いのだから、それよりも自分がこの先どうやって生きていくのかを考えなさい」と言った。(私はそれが娘への愛情であることを理解している)戦争についての映像や番組だって、いつも見るのを阻止された。確かに、そのような映像はグロテスクで目を背けたくなるようなもので、そのようなものが大好きな頭のおかしな人たちはいる。だからといって私はそうじゃない。それに歴史を教科書の文字だけで認知しているだけでは、何も得られない。身をもって考えなければ、また同じことを繰り返してしまう。

 だから見る、そして考えると、また新たに別の角度から、別の分野で、いろいろなものが見えてくる。NHKの100分で名著で話していたけれど、ソクラテスは「無知の知」を説いたけれども、多くの人はその意味を誤解している。「自分は無知であることを発見した、だからすごい」は誤り。それでは人間は全て愚かで、生きる価値なんてない存在だということになってしまう。本当は、「私は知らないということを発見した、だから一緒に学んで行こうよ」という姿勢を持つこと、持ち続けることの重要性を説いているのだそうだ。ソクラテスは多くのことを知りすぎていた。きっと権力者たちから「得体の知れない者」に見えたのだろう、異端者扱いされ、毒を飲むことを強制されて亡くなった。それを深く悲しんだ弟子のプラトンは、彼の言葉を本にまとめた。その著作に書かれている事は、ありとあらゆることを網羅していた。哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」と言ったほどだ。

 どうやら人は、戦争の絵や映像を見せられても「だから平和って大事だな、戦争はいけないことだな」という感情は湧かないらしい。ほとんどの人間は、その恐ろしさに恐怖し「日本もそのような悲惨な目に遭わないように、軍隊を作り、武器を開発し、戦わなければならない。」と思うそうだ。そうとあらば、どうしたかいいのか、国が奪われてしまってもいいのか。例えば中国やアメリカの一部になってもいいというのか。それも辞さない。それよりも、争うことによって被る被害、様々な代償についても考える。もっと、大きく考える!中国の一部になったって、日本人の心までは奪えない。私たちはそこから、みんなで力を合わせて立ち上がればいい。武器は持たない。国を奪われたって、絶対に人の心までは奪えないのだから。

 宗教を学ぶと、いろんなことが見えてくる。誰も戦争など望んじゃいない。でも一部の人にしか平和の重要性が見えていないし、そこまでの道筋を知らない。

インドの独立を訴えたガンジーや黒人差別である公民権運動の撤廃を求めたキング牧師は、争いの無意味さや、それによって起こる様々な代償についてよく理解していた。だから同胞に非暴力を説いた。その教えに従った多くの同胞が無抵抗に殺されていく姿を目にした。ガンジーやキング牧師は、それを見てどれほど胸を痛めただろう。けれども、彼らはそこで命を落とすことよりも大事な何かを見つめていた。

以下はキング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)の言葉。

なぜ直接行動を、なぜ座り込みやデモ行進をするのか、交渉というもっと良い手段があるではないかと、あなた方が問われるのはもっともです。実に、話し合いこそが直接行動の目的なのです。非暴力直接行動の狙いは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、争点と、対決せざる得ないような危機感と緊張を作り出そうとするものです。苦しい体験を通して我々は、自由は決して、迫害者の側から、自発的に与えられることはなく、迫害に虐げられている側から、自ら要求しなくてはならない、と悟ったのです。

 私は時々瞑想(ヴィパッサナー)をするのだが、過去に一度だけ、不思議なことが起こった。体の一部分に意識を集中させ、深い集中を行っていた時、ふと、意識が自分の体を離れる瞬間を体験したのだ。私はこの時に、焼身抗議をしたチベット僧を想った。彼らはチベット人と中国人の争いを止めるために体にガソリンをかけ、火をつけた。燃えている間は、みじろぎひとつしなかった。静かに座っていたのである。「彼らは。死ぬ時に身体的な痛みを少しも感じていなかった。」その事実を発見したとき、私は涙が出るほどに救われた思いがした。

 それは黒人の人種差別に対抗したキング牧師も、その同胞たちも同じだったと思う。誰も、その人の心までも奪う事はできない。以下はキング牧師が暗殺される前日に行ったスピーチで語った内容である。

…前途に困難な日々が待っています。でも、もうどうでもよいのです。私は山の頂上に登ってきたのだから。皆さんと同じように、私も長生きがしたい。長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。神の意志を実現したいだけです。神は私が山に登るのを許され、私は頂上から約束の地を見たのです。私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。


(この辺の思想は私の中でも、まだまだ荒削りでまとまってないので、思い浮かんだことの記憶として書いておく。熟成するのを待って、ゆっくり生涯をかけて進めていきたい。まずは第一歩。)


 

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