見出し画像

多分、すぐに忘れてしまうことだから。

鍋料理のあとのスープにご飯を入れて食べるのが、とても好きだ。あのスープにはいろいろな味が混ざっていて、最高の味わいになっている。
なのに、そうやってできたおじやを、うちの子どもは何年も食べなかった。

それが一昨日、私の食べているおじやを見て「それ、僕も食べたい」と言った。内心の興奮を抑え平静を装って、「いいよ、食べな」と差し出すと、「うっめーーーーー!」と。
ああ、やっとこのおいしさをわかる日が来たか、と大変に嬉しく思った。

そして昨日。
あいかわらずの鍋の残りスープに、今度はうどんを入れて煮込んだ。
こんなとき、私は、卵を鍋にやさしく割り入れ、白身はすべて固まった、でも黄身はとろーんとした状態にする。ああ、思い出しただけでうまそうだ。

ということで昨日も、そんな風ないい頃合いの卵を入れたうどんを子どもに出してみた。
「これ、卵が入っているけど、食べられる?」と聞くと、一口食べて、「うっめーーーーー!」。
ああ、今日もまた、新しいおいしさを知ったね。

卵といえば、うちの子どもは半年くらい前に突然、味付きのゆで卵を食べるようになったんだった。その時にも、私の方に、なにかの世界が広がったような感覚があった。

子どもとの生活のなかでは、子どもに合わせた料理を作ることが多い。まあ、大人の分と子どもの分をわけて作ればいいんだけど、それも手間なので、こちらが子ども用に合わせる形になるのがほとんどだ。
それでもいいけれど、いいけれど、でも本当は、春菊とかセロリとか食べたいんですよ。っていうのはちょっとハードルが高いけれど、うちの子どもは卵焼き以外の卵は食べなかったし豆類も嫌いなので、目玉焼きも(私の大好物の)グリンピースの豆ごはんも作らなくなった。ううう、豆ごはん、今すぐに食べたい。

でもでも、少しずつ子どもの許容範囲が広がることで、一緒に食事をもっと楽しめるようになることがわかり、とても嬉しく思っている。
そして、料理の自由度が広がることの嬉しさと同時に、この不自由さが少しずつ消えていくことが、なぜか少しだけ寂しいような気もしている。

子育てのなかで頻繁にであうこうした成長シーンには、なぜかこんな寂しさがあるのも、不思議。これって、日本人ぽい発想なのかしらと思ったり。
その小さな寂しさを感じることも、わりと嫌ではなかったりするのもおもしろい。
そんなことも多分、スピーディに過ぎ去る時の流れの中で、すぐに忘れてしまうのだけど。


このnoteをいいなと思っていただけたら、「スキ」をプッシュいただけると大変嬉しいです。ストアヒガサ(スケート好きの雑貨店 https://storehigasa.stores.jp/)やTシャツ(https://suzuri.jp/storehigasa)もぜひ。