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改めまして、黒須仁美です。(前編)

どうもどうも。黒須(@hitmeeeeen)です。

ポテンシャライト在籍中は、採用関連の記事を何本か書いていましたが、そういえばちゃんと自己紹介をしたことがなかったので、半生を振り返りながら、"Who is 黒須仁美 ???" について徒然書いてゆきます。
(在籍中に私が執筆した記事は、現在非公開にしております。まああれは会社で得たノウハウですしね。いずれ別のメンバーのアカウントからリライトしたものを公開する予定ですのでご安心ください)

いつもは少しくらい誰かの役に立つことを書いていますが、今回はただただ私の話しかしない記事になります。

・・・

黒須仁美爆誕。幼少期から戦略的マイノリティ

平成6年(1994年)5月11日。
2200gと少々小さめな体でこの世に生を授かりました。

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生後7ヶ月で歩いていたらしい。口角。

両親の名前が「有二」と「浩美」だったので、1文字ずつ漢字を取って『 仁美 』と名付けられました。漂う初孫感。
(「人に優しく、美しく」って意味らしいです。いい由来ですね。ちなみに初孫です)

なぜか母親の「日本という枠に留まらないでほしい」という想いから、2歳から英語の英才教育を受け、道ゆく人に「こんにちは」より先に "Hello" と挨拶する子だったそうです。
それゆえに近所の子どもの輪に馴染めず、一緒に遊ぶために一生懸命日本語の勉強をしました。皆様お気づきだと思いますが、私は生粋の日本人です。


そんな5歳の私が夢中になっていたことは「サッカー」
始めた理由は2つ。

「強い女の子になりたかった」
「とにかく目立ちたかった」

当時「なんとかレンジャーのピンクじゃない方の女性」への憧れが強く、どうしたら強くなれるか、をずっと考えていたのを今でも覚えています。

そう考える中で、強くて目立っている男の子はみんなサッカーをやっているという方程式の下、サッカーを始めました。

なので当時は

「女のくせに」って言ってくる奴、全員かかって来いよ!!!
全員まとめてぶっ飛ばしてやるからな!!!!

と、常に思ってました。し、そう言ってました。
つまりとにかく気が強かった(らしいです)。
そういえば、毎日ケンカを申し込まれてはボコボコにしてた記憶が…

上手か下手かはさておき、「このまま続けていればなでしこジャパンになれるよ!」とコーチたちにおだてられながら夢中になってやっていました。
今思うと、なでしこジャパンになっておけばよかったと心底思います。笑

サッカーを始めてから、
 -  自分に自信を持てるようになった
 - 人前で話すことが好きになった
 - なぜかすごくモテた
ので、自己肯定感高めな幼少期を過ごせました。

夢中になってやっていたけど…
私は当時サッカーが好きだったのではなくて、サッカーをしてまわりから「女の子なのにすごーい!!」と言われている自分 が好きだったんだと思います。ごくごく普通の子だったはずなのにサッカーをしてるだけでかなりもてはやされるので、このときから自分に酔ってましたね。



反骨精神が私の礎を創った挫折まみれの小学生

成り上がりサッカー少女は小学校に進学するとともに、なぜか両親の意向でサッカーを辞め、ピアノを習うことになりました。理由は父が生粋のバンドマンだから(ギタリスト兼エンジニアです)。
ピアノを習ってはいたものの、相変わらず気だけは強くとにかく口の悪い子で理不尽に当たり散らしては、誰かを泣かせている問題児でした。
本当にこんなやつとは友達になりたくない。

ここで転機が訪れます。
すっかり運動を辞めた7歳の私は、はじめてのマラソン大会でビリから2番に。これまでサッカーをやっていたことで保てていた自尊心は、呆気なく粉砕されたのです。
あまりの悔しさと屈辱的すぎる結果を前に、初めて挫折を味わいました。 

大声で泣き崩れる私を見た母がかけた一言で私の人生はガラッと変わるのですが

「悔しいか。バスケ始めたらみんなのこと見返せるよ」

と、少々強引な理由でバスケを始めることになりました。
ひょんなきっかけから始めたバスケも、最終的には大学まで続けることになります。

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母は元々バスケをしていて、将来有望な選手っぽかったのですが、ヘルニアで選手生命が絶たれて途中で現役続行を断念。娘にはバスケをやらせると生まれてときから決めていたらしい、というのは後日談。

はじめに入ったのが、とてつもない練習量のミニバスチームで、練習が終わったらリュックを背負ったまま寝てた…なんてことも。超ハードな練習もあってか、気づけば守谷市で一番足が速くなっていました。この事実に対しては「努力すれば、ちゃんと結果が出る」と、一定自信になりました。

かなり指導も厳しく、「やらない失敗」に対しては手が出ることも。

コーチ「なんで今、目の前が空いていたのにシュート打たなかった?」
わたし「入らない気がしてシュートの打つのが怖かったからです…(沈黙)」

ミスをしてめちゃめちゃ怒られて叱咤されているとき、泣くのを我慢して下唇を噛んで堪えていたらそのまま殴られて流血したこともありました。
今振り返ると、結構ハードな話。10歳の私は、いつしかストレスで練習に行く前に体が震えるようになっていました。 


後々大人になってから当時のコーチと話す機会があり、言われたのは

「当時は期待していたのに、熱意が届かずこなすようにやっていた仁美を本気にさせたかった。絶対大成すると思ってたから強く当たりすぎてしまった」

という話をいただいて、なんて申し訳ないことを…と猛省しました。 
やはり本気でない人間は、見ていてわかりますよね。そういうことです。


いろいろありましたがそのチームは辞め、今となっては茨城を代表する名門チームへ移籍しました。そこではキャプテンになり、はじめて「チームを束ねる」という貴重な経験もさせてもらいました。

これだけ聞くと「まあまあ上手そうじゃん?」と思いますが…
実態は名ばかりのキャプテンで、普通キャプテンって「4番」のユニフォームを着るのですが、私が着れたのは一度だけ。要は実力が伴ってなかったんです。自分でわかっていながらもそれが悔しくて情けなくて…というより親に申し訳ないという気持ち。

地区の選抜にも選ばれず、自分の努力の至らなさを責めました。
 本当は陸上の強い学校に中学受験しようと思って、バスケは辞めるつもりでしたが、あまりにも悔しくて「このまま逃げていいのか?」と立ち返り、地元の中学校に進学しました。


よく考えれば、このときは全然バスケが好きじゃなかった。
だから本気になりきれなかった。
そんなところが自分に一番足りていなかったんだと思います。

小学時代は、自分よりも頑張っている人はたくさんいるということと、実直にやり続けている人が最後に報われるんだという学びがありました。



すべてをバスケに捧げた泣き虫坊主

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となりはおばあちゃんです。野沢雅子さんではありません

中学時代も生活の中心は変わらずバスケだったが、バスケに対する向き合い方が全く違かった。目標は「プロになること」とし、とにかく追い込んだことを今でも鮮明に覚えています。

実際にやっていたことは、

- 当たり負けない体を作るために1日4食、毎日5合くらいご飯食べる
- それでも細身なので深夜寝る前にホットケーキを3人前食べる
- 時間があればシューティング(昼休みも練習後も試合後も休まず)
- ダンベルを使った筋トレ、ラントレ、体幹トレーニング、古武術の勉強
- めちゃくちゃバスケの映像を見漁る(NBA,Wリーグ,高校バスケ etc.)
- 他のスポーツを見てバスケに取り入れられそうな動きはないか見漁る
- 社会人チームの練習に行って大人にしごいてもらう
- ヒーローインタビューを想定して英語と国語をめっちゃ勉強する
- 恋愛は成長の妨げと思い、髪型は常にソフトモヒカン(坊主も経験済)

などなど。
中学生にしては、自分で思考して頑張っていたと思います。 

今、当時の自分に電話する機会があるのであれば「やりすぎ」「思い詰めないで」と言ってあげたい。どう見ても圧倒的にやりすぎだけど、ただやらないと手に入らなかったものがたくさんあったと私は思っています。


本気がゆえに毎日泣いていました。
泣きすぎて元々くっきり奥二重だったはずが、原型を留めないくらいの一重まぶたになりました。

特に誰かに詰められていたわけではありません。
当時、どれだけ努力しても自分が求める自分になれないもどかしさ に泣いていたんでしょうね。
毎日綴っていた「Growth note」には

「努力が足りない。練習しないと不安になる。このままでは勝てない」

というセリフが多く散見され、見えない何かと戦っていて、みんな引いていたというよりは心配してくれていました。

いつしか小学生のときに歯が立たなかった相手に勝てたり、いろんな学校の先生たちに「いい選手だね」と言われることも増え、成長実感はありました。そう言われるたびに、親も喜んでくれました。

これは、自分がこれだけ頑張った!と思えるくらい努力したからではなく、私の熱意に応えてくれた当時の恩師や親、支えてくれる人たちがいたからで、いい出会いが自分を成長させてくれたと心底思います。


特に恩師・小泉先生。

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普通、お世話になった恩師って「死ぬほど怒鳴られて超うざかったけど、時間が立ってありがたみがわかるタイプ」が大方を占めると思うのですが、小泉先生はそうでなく。優しく心に語りかける仙人みたいな人でした。 


学校生活の素行がそんなによくなかった私に、

「いい選手である前にいい生徒であれ」

と教えてくれたのは恩師で。

「あなたはもっと他人から応援される人間にならなくてはいけない」

と何度も私に言い聞かせ、人間的に成長させてくれたからこそ、バスケと同じくらい勉強も頑張れた。(だから結構成績もよかった)
気持ちいい挨拶とかちゃんと掃除をするとか人に優しくするとか、人として大事なことを小泉先生から学びました。

「やればできる」は嘘。「やらないとできない」こっちが本当。

これを合言葉になんでもやりました。
本気で「ゴミを拾ったら1点差で勝てる」と思って落ちてるゴミを拾ってたし、みんなが遊んでるときにずっと1人で自主練してました。みーんな引いていた。


なぜ当時の私は、ここまで小泉先生の教えを守れたのか。
それは誰よりも小泉先生が謙虚で誠実で、バスケへの姿勢がすべてを物語っていたから。そして、常に「対話」をしてくれたからです。

今の自分の人格形成の中で小泉先生の影響は色濃くて、おそらく私がマネジメントをしたらこんな感じになると思います。(というかこうなりたい)



普通に生きることの難しさを知った15歳

部活引退後は県内外の強豪校からお声かけいただくことも多く、ますます「プロになりたい」と気持ちは大きくなっていました。

私の実家は普通のサラリーマン家庭なので、私立高校に行くのは心苦しいと中学生ながらに思っていたのですが、とある高校から「推薦でほぼ全額免除になる」という話をいただき、進学を決めました。

「自分を最大限追い込める。どこまでも成長できる」

そう思っていました。
そう思っていたけど、突然道が閉ざされました。



私の道を突如閉ざした正体は、「病気」
中3の春あたりから、突然40度台の熱が上がっては半日で35度台まで下がる日が数日間続いたり、全身疲労骨折したり…気付いたら現役を引退してから半年で15キロも体重が落ちてしまっていました。

ずっと繰り返していたので、何かがおかしいと思っていながらも、怖くて病院に行けなかった。案の定、受験日にも40度の熱は出ていて、ちょうど受験が終わったタイミングで大学病院で診察してもらったところ、「若年性特発性関節炎(成人スティル病)」と診断されたのです。国が指定する難病で完治はありません。

当時言われたのは

「バスケどころか、普通に階段も登れなくなりますよ」

と。理解ができなかった。

「私は何のために生きてるんだ?」

とずっと自問自答しました。

事実として、当時思うように動かない体にムチを打ちながら練習していたわけですが、そのとき残ったのは鶏ガラのように痩せ細った体しかなかったのです。

そこから緊急入院して、治療のためにステロイド剤を飲んで階段を登れないくらい体が衰えたり、自分の意思とは反してパンパンに腫れていく顔を鏡で見るたびに「こんなの私じゃない」と大粒の涙を流していました。


1回目の入院は、1ヶ月半程度。
入院中に小泉先生が渡してくれた「なぜ日本人は学ばなくなったのか」を何度も読み返し、頭がおかしくなるくらいRIP SLYMEの「Remember」とミスチルの「終わりなき旅」を無限リピートしました。
本や音楽の力も借りながら「超えれない試練はない」と言い聞かせ続け、またファイティングポーズを取れるようになりました。

これを超えたらどんな景色が待ってるんだろう。
自分はどうなれるんだろう。

病院にいる間は、いつしか「苦しい」感情よりも「未来が楽しみでしょうがない」と思って毎日を過ごしていました。


完治してないものの、退院して晴れて高校に入学するわけですが、結論1年で中退します。

正直退院してからの1年の方が地獄で、あまりにも辛すぎてこの時代だけは戻りたくない。もちろん、世の中にはもっと苦しい経験をしている人もたくさんいると思いますが…自分の人生史上最も苦しかった。

話せる範囲だけでまとめると

- 奨学金免除の話がなくなる
- そもそも体調が不安定で学校に行けない(入退院を繰り返す)
- ステロイドの弊害で糖尿病になる
- 全く復帰の目処が立たないまま部活に在籍する  → バッシングを受ける
- 一応、1月に復帰するも全然本調子じゃない → バッシングを受ける
- 各方面から「努力が足りない」「バチが当たったんだ」と言われ続ける
- これらの状況ただただ耐えるしかない

さらっと書くとこんな感じ。あえてさらっと書いています。

「全部お前の甘えだ」と何度も言われた。
毎日誰かに罵られたり殺されたりする夢を見た。
1人携帯も持たずに家を飛び出しアテもなく家出した(すぐ見つけられた)。

こんな精神状態なので、うつも併発しました。
成長できると思って耐えていたけど「いや試練長いわ」とさすがに思ってましたよね。


「普通に生きたいだけなのに」

私は普通に生きることすらも許されないのですね、と一瞬思った。
でも一瞬だけね。たぶん声を上げてないだけで、みんな何かに苦しめられているんだろうなと思います。個人の尺度の問題ですが、何にせよ自分だけが悲観的になっても、何も変わらないことを知りました。

つまり普通の人なんていなくて、普通に見せているだけ。
普通に生きることが一番難しいことを知った貴重な期間でした。


・・・


16歳までの人生は、こんな感じです。
もしかすると、記事を読まれて気分を害された方もいらっしゃるかもしれません。その場合は大変申し訳ないです。

ただ、私を語るうえでどう考えてもターニングポイントなので端折ることなく書きました。(同情は求めてません)

なお病気に関してですが、現在は寛解しておりますので生活に支障はございません。ご安心くださいませ。

まあ人生なんでちょっと暗くなることもありますよ。
次回は17歳からの数年について書きます。ちょっとポジティブな内容なので続けてご覧くださいませ。ではでは。


To be continued…


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