ゴアテックスと優しい嘘

 遡ること、約九年前。大学四年生の冬に、私はザ・ノースフェイスのマウンテンパーカーを購入した。
 そのマウンテンパーカーは、左胸と右肩の後ろにノースフェイスのロゴが刺繍された黒色のもので、当時、私はちょうどその飽きのこない定番のデザインを探していたところだった。そして、楽天市場内のアメリカから買い付けをしているショップのネット通販で、タイミング良くそれを見つけてしまったわけである。
 しかも、そのマウンテンパーカーは、ちょうどセールで半額になっていた。着丈や身幅などの採寸を確認したところ、サイズも申し分ない。何なら、他のサイズは全て売り切れていたぐらいだった。
 
 その時、これは運命なのだと私は思った。
 そう、ラブジェネレーションの木村拓哉と松たか子ぐらい。「髪をほどいた〜」と、大瀧詠一の[幸せな結末]を口ずさんでしまったかどうか、記憶は定かではない。
 しかし、もはやこれは、私に着られるべくして遥々海を渡ってきたのだと思うと、いてもたってもいられなかった。
 「鉄は熱いうちに打て」だ。
 私は、即座になけなしのバイト代をつぎ込む決意を固めた。そして次の瞬間、冷静さを欠いた荒々しいクリックが”商品をかごに追加”に襲いかかる。
 ようやく我に返ったのは、ご購入手続きが全て終わった後だった。
 私は、パソコンの前で「この買い物上手め」と自画自賛し、ほくそ笑んだ。


 また、そのノースフェイスのマウンテンパーカーがゴアテックス製だったことも、私をさらに有頂天にさせた。
 ゴアテックス(GORE-TEX)とは、アメリカのW.L.Gore&Associatesが開発した世界最高基準の防水透湿性素材のことである。それこそマウンテンパーカーの生地にも多く使用され、防水や防風に特化する一方で通気性にも優れ、ウェア内の蒸れやベタつきを防ぐことができてしまうのだ。
 ちなみに、街で着るだけのファッション目的だった当時の私は、その機能性についてなど知る由もなかった。
 当時の私にとってゴアテックスは、何となく耳にしたことがあるだけの、単なる
”ステータス”でしかなかったのだ。
 そのような貴様は所詮、リポビタンDを飲む時も”タウリン一〇〇〇ミリグラム配合”というニュアンスにだけ頼り、タウリンの効能について存じ上げないまま、結果オーライにあぐらをかき、辻褄を合わせるに違いない。
 宝の持ち腐れと愚の骨頂の、救いようのない二重苦である。

 
 購入したその冬に頻繁に着ていたことは勿論、私は毎年冬が訪れる度に、そのノースフェィスのマウンテンパーカーを着ていた。何年経っても飽きることはなく、むしろずっと変わらず、着る度に私の気持ちを上げてくれた。
 好きな服を着るということは、きっとそういうことなのだと思う。
 また、着れば着るほど愛着も湧いていった。私と一緒にいろいろなところに行き、いろいろな人に会い、いろいろものも見た。
 それにひょっとしたら、誰も知らない私だけが知っている気持ちの一つや二つぐらいは、知っていることになるのかもしれない。
 しかし、やっぱりタウンユースであることに、ずっと変わりはなかった。
 相変わらず私は、左手首の部分に刺繍された”GORE-TEX”の刺繍が時折チラつく度に優越感に浸っているだけの、単なる”ゴアテックス・ステータス野郎”のままだったのだ。

 
 「僕、ゴアテックスのアウターなら持ってますよ!ちなみに、ノースフェイスのマウンテンパーカーです!」

 職場での昼休憩中、私は仲の良い先輩に得意げにこう言い放った。
 なぜなら、その先輩に誘ってもらってお正月休みに初めて冬山に登ることになり、現時点で何を買い足さなくてはいけないのかという話になったからだった。
 それは、冒頭にも少し書いたとおり、毎冬に当のノースフェイスのマウンテンパーカーを街で着続け、もうすぐ九年が経とうとしていた頃だった。 
 そして、当のノースフェイスのマウンテンパーカーとの当時の運命的な出会いについても、私は意気揚々とその先輩に語り始めた。
 「それ、怪しいなー(笑)ノースフェイスは、偽物が多く出回ってるから(笑)じゃあ明日、そのマウンテンパーカーを持って来なよ!」

 「絶対に偽物なんかじゃないですから!!ちゃんとGORE-TEXの刺繍も入ってますから!!買った時に、GORE-TEXのタグも付いてましたから!!定価五万円ですから!!楽天市場のショップが堂々と偽物を売るはずないですから!!」

 「わかった(笑)落ち着けって(笑)とにかく、明日持って来なよ!」

 私は、このノースフェイスのマウンテンパーカーのことで、初めて動揺した。
 しかし私は、まだ自分自身が”買い物上手”だと信じて疑わなかった。


 
 結局、その職場の先輩にノースフェイスのマウンテンパーカーを見せるのに、何となくそれから二、三日掛かってしまった。
 このノースフェイスのマウンテンパーカーと過ごした九年という月日を考えると、万が一の心の準備と言うものは、どこかで必要だった。
 
 
 「これです。ほら、左手首のところにGORE-TEXって刺繍されてるじゃないですか!」

 意を決した私は、昼休憩の時に当のマウンテンパーカーを先輩に見せた。

 「ん!?ゴアテックスにしては、やけに重い気がするなぁ」
 
 マウンテンパーカーを手にした先輩の第一声は、こうだった。
 
 思えば、このゴアテックスは、私にとって”最初のゴアテックス”だった。
 そして、ゴアテックスについては、”このゴアテックスしか知らない”のだ。

 「試しに水で濡らしてみよう。本物のゴアテックスなら、濡らした時に水をはじくはずだから」

 私と先輩は、そのマウンテンパーカーを水道のところに持っていき、GORE-TEXと刺繍された付近に水を少し垂らしてみた。
 
 すると、水滴が綺麗にいくつかに分裂してはじかれた。
 
 撥水性……アリ!!
 
 しかし、「ほらみたことか」とドヤ顔になりかけた私をよそに、先輩は調査を続行する。

 「この部分は、確かにゴアテックスで間違いなさそうだな。でも、よく見てみなよ。この腕の下の部分からと、胸より下の部分から生地が変わってる。それから、フードの部分も生地が違う」

 私は、恐る恐るマウンテンパーカーのお腹の辺りに水を垂らしてみる。
 すると、さっきとは打って変わって、水が鈍く生地の上に溜まっているではないか。さらに溜まった水を流してみると、何と、その部分の生地が水を吸い込んで濡れているではないか。
 試しにフードの部分にも水を垂らしてみたが、結果は同じだった。

 撥水性……ナシ!!


 「まぁ、そういうことだ。GORE-TEXの刺繍がされてる生地に繋がってる部分だけがゴアテックス。ある意味、嘘ではないかもな」

 先輩はそれだけ私に言い残して自分の席に戻り、昼食の後片付けを始めた。
 
 私は、水道の前で呆然と一人立ち尽くし、「九年という月日は、長過ぎた」と思った。
 
 その夜、私はネットでノースフェイスの偽物についての情報収集を行い、”ロゴの刺繍は丁寧にされているか?”、”YKKのジップは正規のものか?”、”各部が雑に縫製されていないか?”などといった箇所を、手元の当のマウンテンパーカーと照らし合わせることに躍起になっていた。
 結果、素人目の独断ではあるが、私が九年間愛用してきたこのノースフェイスのマウンテンパーカーは、偽物ではなく正規のインポートものとして落ち着かせることにした。当時購入したショップも楽天市場でまだ存続されているみたいで、大々的に
”正規取り扱い”を掲げているのだから、そのバイヤーのプロの目を信じてやろうではないか。

 この一件を実に無知で愚かな出来事として片付けてしまえば、それまでだ。
 しかし、特に危害もなく優しい嘘を突き通されたこの九年間、全身ゴアテックスと思い込んでいた私は、ある意味幸せだったと思うようにしている。


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