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木を選別する~天理教の人材観~

①ひのきしん隊にて


今月、天理教教会本部周辺にて行われている、日帰りの特別ひのきしん隊というものに入隊してきました。


その際に、面白いひのきしん(感謝の心で行う奉仕活動という意味の天理教語)がありました。


それは、桟木(さんぎ。↓画像参照)として使われていた木材の、選別作業です。


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大量にある木材の中から、長すぎるもの、短すぎるもの、分厚すぎるもの、薄すぎるもの、また、反り曲がっているものなどは、桟木として適さないので、省いていくという作業です。


作業中、この木を、人間に例えてみたら面白いよね、という話になりました。


一緒に作業をしていた方が「こうして省かれていく木にこそ、役割を与えることが大切なんじゃないか」と言われました。


そして、「ねぇ、このひのきしん内容を基に、哲学的に考えて、noteの記事を書いてみてよ」と、提案してくださったのです。


そういったことから、今回、半年以上ぶりに、noteの更新をすることにしました。


機会をくださったその方には、とても感謝をしています。


②天理教の「人材観」


さて、そういった経緯から、今回は天理教の人材観についてのお話になります。


教祖の教えてくださった内容を基に、人材というものをどう捉えていくべきなのか、というお話です。


そして、深刻な人材不足を問題として抱えている天理教のこれからを考えていく上で、この人材観のお話は、とても重要なことなんじゃないかと思っています。


今回は、天理教の教えの二つの側面から、この人材観について考えていきます。


③「人間の反故を、作らんようにしておくれ。」


一つ目の側面は、「人間の反故を、作らんようにしておくれ。」という、教祖のおことばです。


反故というのは、捨て紙、要らなくなってしまった紙のことです。


『天理教教祖伝逸話篇』という書物に、こんなお話があります。


四五 心の皺を
 教祖は、一枚の紙も、反故やからとて粗末になさらず、おひねりの紙なども、丁寧に皺を伸ばして、座布団の下に敷いて、御用にお使いなされた。お話に、
 「皺だらけになった紙を、そのまま置けば、落とし紙か鼻紙にするより仕様ないで。これを丁寧に皺を伸ばして置いたなら、何んなりとも使われる。落とし紙や鼻紙になったら、もう一度引き上げることは出来ぬやろ。
 人のたすけもこの理やで。心の皺を、話の理で伸ばしてやるのやで。心も、皺だらけになったら、落とし紙のようなものやろ。そこを、落とさずに救けるが、この道の理やで。」
と、お聞かせ下された。(後略)


全部で200集録されている逸話の中で、私が最も好きな逸話の一つです。


この逸話からも分かるように、天理教の救済観は、「一人も余さず救けたい」です。


この民族だけが救かる、という民族宗教でも無ければ、善人だけが天国に行き、悪人は地獄に行くという死生観も持ちません。


どんな人間であっても救済したい。


それが神様の思いです。


ですから冒頭の、「こうして省かれていく木にこそ、役割を与えることが大切なんじゃないか」という言葉は、まさしくこれからの天理教が目指していくべき課題であると思います。


では、実際、どのようにしていったら良いのでしょう?


今、社会の枠組みから外れてしまい、社会から必要とされずに、生きることに苦しんでいるという方が大勢おられます。


そうした方々に、どのように役割を与えていったら良いのでしょう?


社会から省かれた木、捨て紙にされてしまった反故を、もう一度拾い上げる為には、どうすれば良いのでしょう?


それを考えていくために、天理教の人材観の、もう一つの側面について、お話したいと思います。


④「そのままこかす木もあるなり」


『おふでさき』という、教祖自らが和歌体で書かれた書物の中に、


「をなじきもたん/\ていりするもあり そのまゝこかすきいもあるなり 3-132」


とあります。


意味としては、同じ木(人間をたとえられている)でも、だんだん手入れをして役立つようにするものもあれば、そのままこかす(転がす、倒すという意味の関西・四国の方言)木もある、というような感じでしょう。


あれ?


そのまま倒されちゃうんですか?


どんな人間でも救けてくれるんじゃなかったんですか?


もしかして:矛盾?


そう、思われる方もおられるかもしれません。


この点を、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。


先ほどあげたお歌の前には、


一寸はなし神の心のせきこみハ よふぼくよせるもよふばかりを 3-128
たん/\とをふくたちきもあるけれど どれがよふほくなるしれまい 3-129
よふぼくも一寸の事でハないほどに をふくよふきがほしい事から 3-130
にち/\によふほくにてわているする どこがあしきとさらにをもうな 3-131


などとあり、用木(ようぼく)についてのお話をされている文脈なのです。


現在では、用木という言葉は、「おさづけの理」を拝戴した人を指す呼称として使われているので少しややこしいのですが、元々の用木の意味は、今よりももっと狭い意味だったのではないかと私は思っています。


よふ木”でも一寸の事でハないからに 五十六十の人かずがほし 7-23


ともあるように、50人や60人といった人数が最低限必要だと、神様は仰っています。


そのことからも、私はここで一つの仮説を立てます。


用木というのは、世界中の誰しもが必ずならなくてはいけないというものでは無いのではないか?


むしろ、用木というのは、神様からの度重なる手入れ(病気や人間関係のもつれなどの、不時災難となって表れることも多いです)に対しても喜んで通り切り、心が綺麗でまっすぐで、いつも人助けに向かって邁進している、そんな、一握りの超人にのみ授けられる称号なのではないか?


そして、誰もがそんな超人にならなくてはいけないわけでは無く、50人60人は居てくれたらそれで良い。


なので、用木として神様に使ってもらえなかったからと言って、信仰者として失格、というわけでは無く、用木にはなれなかった木も、ちゃんと役割が与えられていて、用木を中心としてその持ち場立場の役割を果たせればそれで良い、ということではないかと思うのです。


そういう意味で、「そのままこかす木もあるなり」というのは、私は、神様の優しさだと思うのです。


そもそも、用木というのは、建築用材として使われる木のことです。


建築用材として使われる為には、まっすぐで、歪みが無く、度重なる枝打ち(痛そう(´;ω;`))された後の節が綺麗で、年限をかけて長く、大きく、太く育った木でなくてはなりません。


そして、そのような木を育てる為には、必ずその周りにある木を間引きしないといけないのです。


こうして間引きされた木こそが「そのままこかす木」であり、こうした木の存在が無くては、立派な建築用材は、絶対に育たないのです。


さらに、間引きされた木にも、ちゃんと役割があります


例えば割り箸になって私たちの食事を助けたり、それこそ冒頭の桟木として使われたり、薪になったり、また、紙になったりもするのです。


そうして紙になった木は、本になって末代まで残ったり、手紙になって誰かの思いを伝えたり、多くの情報を私たちに伝えてくれる助けをしてくれます。


そして中には、反故になっていく紙もあるのです。


つまり、そのままこかす木のお話と、反故のお話とは、矛盾しているわけではなく、段階の違うお話なのです。


社会の中で例えるなら、一流企業の社長としてバリバリ働いて社会に貢献できる人間(用木)になれなくても、ちゃんとあなたの役割はあるよ、というのが、そのままこかす木の段階のお話。


そして、用木としてはこかされた木であっても、自分の役割を見つけて一生懸命に働いていく人がたくさんある中で、働ける場所がどこにも無く、また、生活保護などのセーフティネットにさえ漏れ出てしまった人が、反故になってしまう。


そんな反故のような人を、どうか救け上げておくれ、というのが、反故の段階のお話だと、私は思うのです。


私は、これからの天理教の人材観を考える上で、この2つの段階の視点を持つことが、とても大切だと思っています。


なぜなら、今までの天理教は、常に用木を作ろうとしてきたからです。


「一流のおたすけ人として育ってなんぼ、そうでなくてはならない。」


「おつとめができて、ひのきしんができて、にをいがけ・おたすけができて、お尽くし・お運びができて、その全てができるのが、信仰者のあるべき姿だ。」


こうした、理想像を目指す姿勢は、素晴らしいことだと思います。


しかし、それが最高目標として掲げられるだけなら良いのですが、最低限の目標として、押しつけに近い形で伝わってしまった時、


「すみません。私のようなものでは、とても信仰者として真っ当にやっていくことはできません。」


と、離れたくなくても離れざるを得なくなってしまう人が、今後もでてきてしまうのではないでしょうか?


ですから、「全ての人を救け上げたい」という視点を持つとともに、「完璧じゃなくても大丈夫」という視点も持つことは、とても重要だと思うのです。


⑤一手一つのチーム作り


私にとって、今年最初で最大の嬉しいニュースは、天理大学のラグビー優勝のニュースでした。


その時、チームが掲げたスローガンが「一手一つ」という天理教語でした。


一手一つは、英訳すると「Unity of minds」で、「心を一つに揃える」ような意味で使われますが、私はもう少し深い意味合いがあるようにも感じます。


ラグビーは、1チームに15人の選手が居て、それぞれにポジションがあります。


でももし、15人全員が、花形のポジションがやりたいと言って、例えば司令塔のスタンドオフというポジションになったら、そのチームは勝てるでしょうか?


きっと、一勝もできないと思います。


ラグビーでは、司令塔のスタンドオフも必要なら、フォワードとしてひたすら壁役になる人も必要で、ウイングとしてひたすらトライを狙いに行く人も必要で、15人が15人に、それぞれのポジションで為すべき役割があり、その役割を全うした上で、心を一つに揃える時に、初めて大勝利が待っているのだと、私は感じました。


天理教の、おつとめも同じだと思います。


おつとめの芯だからと言って、誰もが拍子木を打てば良いというものではありません。


拍子木とは全く逆の、裏拍子ばっかり打ってるチャンポンみたいな人も居ますし、その真逆の二人の調子を合わせようと動き回っている、すりがねのような人も居れば、ほとんど動かないけれど、ここぞという時にはドーン!と存在感を示す太鼓のような人も居る。


また、そうした打ち物の「打つか打たないか」とは全く違うルールの上で、旋律や音の高低を気にしながら動き回っている女鳴物のような人も居る。


それぞれ全く違う役割が与えられているけれど、それぞれがそれぞれの役割を尊重しながら、合わせ合っていく。


それが、おつとめなんじゃないかと思います。


そりゃ、「みんなで拍子木を打ちましょう」と言えば、合わせるのは簡単なんですけどね。


でも、それじゃあ「勝てる」チームにはならないと思うのです。


そういう意味で、私は次の天理教の課題は多様性の獲得だと思っています。


あっちには従来通りの戸別訪問によるにをいがけを頑張っている人が居れば、そっちにはSNSでのおたすけを頑張っている人も居る。


こっちには教会を福祉施設にしておたすけをしている人も居れば、目立たずにコツコツとひたすらひのきしんをして陰徳を積む人も居る。


俺は社会でバリバリ働いてお供えを頑張ります!って人も居れば、もちろん神様に使って頂ける用木になる為に、何でもできる超人を目指す人も居て良いんです(むしろこういう人は最低でも50人60人は居ないとダメなわけです)。


そんな風に、「かくあるべし」な一律で画一的な人材育成を目指すのではなくて、各々が、それぞれの持ち味を活かして、自分にできる信仰を模索して実践する。


そしてその信仰が、お互いに尊重されることが大切だなって、思います。


何でもできる人にはその人なりの役割があって、何でもはできないけれどできることがある人にも役割があり、「ほとんど何もできないけどこれだけだったらできるんです!」と言う人にはその役割が与えられ、「私には何もできません」と言う人にさえ、役割を代わりに見つけてあげられる。


そして、みんなの役割は全く違うけれど、それぞれがお互いの役割を尊重していて、その心は一つに揃っている。


そんな「一手一つ」のチームが作れたなら、どんな大きなことも、成し遂げられそうだなって、思うんです。


⑥「活きたい」場所、陽気ぐらし村


先日1月25日、青年会本部の1月例会の場で、今年度の基本方針の発表と、「夢プレゼン」がありました。


その場で、青年会長様は、「おぢばに陽気ぐらし村を創りたい」と、夢を語ってくださいました。


生活困窮者のシェルターや、ひきこもりのシェアハウスなどの機能を持つ村のような場所をおぢばに創り、そこでの生活を通したおたすけをしたい、という夢でした。


そして、その陽気ぐらし村のコンセプトとして、3つの「いきたい」を創ることを掲げておられました。


生きたい。行きたい。そして活きたい。の3つです。


私はこの中で、「活きたい」にとても感銘を受けました。


私は、最近つくづく、「生きる」為には「活きる」こと、「活かされる」ことが大事だなって思うんです。


自分が誰かの役に立っている、ちゃんと社会から役割を与えてもらえている、と感じることは、とても大きな「生きる」意味になります。


ですから、自分で「活きる」ことができる人は存分に自分で活きていったら良いと思いますが、自分ではどうやって活きたら良いのか分からない、という人が増えている現代社会の中で、人を「活かす」こと、人に「活かされる」ことが大切だと思います。


そして、おぢばという場所は、人が活きることができる場所だと思います。


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この写真は、天理教教会本部の回廊の写真です(Wikipediaから)。


床に、黒い斑点のようなものが見えますね。


これ「節(ふし)」なんです。


さっき、建築用材として使われる木の条件に、「枝打ちされた後の節が綺麗」であることを挙げました。


つまり、本来は、この写真のようにはっきりと節がある木材というのは、建築用材としては忌避されるんです。


けれど、天理教教会本部の神殿では、あえてこの節のある木材を、目立つ床板として使っています。


私は、こういうところにも、どんな人でも受け入れるという、懐の深さを感じます。


天理教では、「ずつない事(どうにもならないこと)はふし。ふしから芽を吹く。」という言葉があります。


木材においての節とは、枝があった痕です。


その枝を、枝打ちされて切られる時というのは、木にとっては痛いことでしょうし、それは人間に例えるなら、自分の力では乗り越えられないような、病気や、人間関係のもつれなどの事情であったり、自分の生き方を変えざるを得ない出来事であったりします。


そうした「ふし」を、上手に乗り越えることができたなら、痕は残らず、「無節」の優れた木材となりますが、この枝打ちが上手くいかないと、木に節が残るのです。


人間も、生きていれば必ず、悲しい出来事や苦しい出来事がやってきます。


それを、上手く乗り越えることができたなら、節の場所から枝が伸びていくように、自分が成長できるきっかけにもなるでしょう、


しかし、乗り越えられない人だって、たくさん居ます。


そして、そうした人生の「ふし」を上手く乗り越えられなかった時、それはトラウマになったり、いつまでも心の傷痕として残ったりします。


そして、そうしたトラウマが原因で、時に心は歪んでしまい、そのことが更に人間関係を困難にしてしまうことも多いです。


つまり、節のある木、扱いにくい人になってしまうのです。


「それでも良いんだよ」と言える場所が、おぢばだと思います。


社会では忌避されるような、節の強い人間でも、広く受け入れてくれて、活かして使ってくれる場所が、おぢばであり、また、天理教の教会だと思います。


そんな風に人と人とが活かし合い、活き方が自分で分からない人でも、一緒に活き方を探してくれる人との生活の中で、活き方を見つけることができる、そんな陽気ぐらし村を、おぢばに、また教会に創りたいという夢を、私も追いかけ続けていきたいと思います。


⑦最後に


この世界では、一億人から必要とされている、あのスーパースターのようには別にならなくても良いんです。


誰か一人だけでも、必要としてくれる人が居たらそれで良い。


そういう世界だと思います。


でももし、「私は誰にも必要とされていない」、そう感じている方が居られましたら、是非とも私にDMを送ってください。


私があなたを必要としています。


そして、あなたと一緒にあなたが活きる方法を、探したいと思っています。


この世界に、活きない人は一人として居ません。


必要でない木など一本も無いのです。


これからも、綺麗でまっすぐではない木も大切にして、人間の反故を作らないように、心がけて生きていきたいと思います。

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