わかりやすい天理教⑮「かしもの・かりもの」その2

この記事は以下の記事の続きです。

まずはこちらから読んで頂くと、より内容がご理解いただけると思います。

②「心遣いが大事って、なんでなの?」

天理教では、心遣いがとても重要視されます。

それってどうしてなんでしょう?

実はそれにも、この「かしもの・かりもの」の教えがとても密接に関わっています。

今日はその部分について、なるべく分かりやすく説明していきます。

「かしもの・かりもの」の教えは、大きく分けると2つになると僕は思っています。

1つは、前回話した「身体をはじめ、この世の全ては借り物である」ということです。

前回はその中でも特に、自然環境と動植物という例をとって話しましたよね。

そして2つ目は、「心一つが我の物」ということです。

これはどういうことか。

前回から、ずっと、”借りている”という話をしてきましたが、この身体も、この世の全てが神様の物なんだとしたら、それを借りている借り主ってなんだ?って話になりますよね。

だって、この世の全ての物が神様の物しか無いのなら、神様はどこにも自分の物を貸すことはできません。

つまり、「かしもの・かりもの」が成立する為には、この世界に”神様の物じゃないもの”が存在しないといけません。

それが、人間の心だ、というのが天理教の教えです。

心だけは、人間が、自分の自由に使って良い、神様の物ではない、人間の物だ、ということです。

でも、なんで神様は、人間に心の自由なんて与えたんでしょう?

それを理解するためには、次の事柄を、もう一度よく問い直してみる必要があると思います。

③そもそも、なんで神様は人間なんか創ったの?

僕は昔うつ病を患っていて、自殺願望が強かったので、このことはいつも頭の中で何度も何度も考えていた質問でした。

なかなか答えは出なかったですが、ある日、恐れ多い話なのかもしれませんが、一度神様の気持ちになって考えてみたんです。

そしたらこんなことが思い浮かんできました。

神様って、全知全能なんです。

何でも知っていて、何でも出来る。

神様の定義として、そういうことになっています。

そんな神様が、果てしなく広い宇宙空間の中で、果てしなく長い悠久の時間を過ごしていた。

そんな風景を想像してみました。

何でも出来るんですから、すぐにでも、地球みたいな星とか、人間みたいな生物とか、創り出そうと思えばいつだって創り出せます。

けれど、神様はそれもせずに、宇宙の中でぼーーっと過ごしています。

だって、神様には未来だって分かり切っているんです。

全知ですから。

こうやったら、どうなって、そうなる、みたいなことが、もう全部全部分かり切っているんです。

最初から結末の分かっている映画しか見れない、そんな状態です。

だから神様は何も創り出さずに、ただ長い永い時を過ごしていた。

そして「味気ない(物足りない、つまらない)」って言うんです。

僕は、「そりゃつまらないよなぁ」と思いました。

けれど、神様がある日思いつきました。

「そうだ。人間を創ろう」と。

なんで人間を創ったら、味気なく無くなるのか。

神様は続けます。

「人間を創って、それに”心”というものを与える。そしてその心は、人間に一切の自由を許す。私たち神は全知全能で、何もかも支配できるけれども、この”心”だけは一切支配しない。そしたら、分かり切っていた世界の中に、私たちにも”分からない”物が生まれる。それって、すごく面白いことだと思わないか?」

これは、天理教の教えを元にした、僕の想像ですから、本当に神様がそう思っていたのかどうかは分かりません。

でも、ここまで考えた時に、僕は、「あぁ、だから神様は僕たち人間を創ったのか」と思ったんです。

だから神様にとって、この「心一つが我の物」ということは、とっても大切で、欠かせない教えだと思うんです。

④自由なだけじゃダメなんだ。

さて、心だけが私たちなんだ、心は自由なんだ、ということは、何となく感じて頂けたでしょうか?

けれど、ここまで話すと、「自由にして良いの!?サイコー!!!ウェーーwww」ってなっちゃう人も居るかもしれないので、続きのお話をしますね。

神様が人間を創ることを思いついた後、実際に人間を創っていった時のお話です。

神様は、この世界の物理法則にのっとった形で、ゆっくりゆっくり人間と世界を創っていかれました。

指をパチンと鳴らしてすぐそこに人間がパッと現れる、みたいな、そんな創り方ではなかったわけです。

神様はそこに実に10億年という歳月をかけました。

その間、神様はとても苦労します。

なんて言ったって、神様にとって、初めて自由にならない相手を相手にしながら、物事を進めていくわけです。

これでもう大丈夫かな?と思ったら、絶滅しちゃったり、そんなことを繰り返していくわけです。

それでも神様は諦めずに、地球の環境を整えたり、それに順応できるように人間を色んな動物に進化させたり、それはもう一生懸命に育てるわけです。

余談ですが、今でこそ人間はこうやって長い時間をかけて進化してきた、なんてことは常識になってますが、そんなことは誰も知らない、ダーウィンが考えるより早く、天理教ではこのことをちゃんと教えていたわけですから、この教えは本物だな、って、僕は感じてます。

話、戻しますね。

なんで、神様はそんなに一生懸命に、今までしたこともない苦労をしてまで、人間を育ててくれたのか、それは、人間が可愛くて仕方なかったからです。

親心、というものが、そこにあったからです。

言うことは聞いてくれないけれども、育てていれば、毎日違う顔を見せてくれる。

少しずつ成長して、できることが増えていく。

中には、パパママの存在を覚えて、「ありがとう」って言ってくれる子もいる。

そんな毎日が、神様も楽しかったからだと思います。

まるで本当に、私たち人間が、赤ちゃんを育てている時のような、そんなあたたかい気持ちで、神様は私たち人間を、育ててくださったわけです。

近年では、虐待であるとか、親子関係というものもだんだん崩れつつあるようにも見られますが、どんな親でも一瞬一度は感じたことがあるような、「あ、この子可愛いな」っていう、基本的な親心、それをいっぱいにかけ続けてくださったのが、神様です。

ですから、天理教では、神様のことを、産みの親であり、育ての親であり、また、心を繋ぎ続けてくれた親であるからこそ、「親神様」と、親しみを込めてお呼びしているのです。

さてここで、皆さんにも、一度神様の気持ちになってみてもらいたいのです。

そこまで、手塩にかけて、心を込めて、苦労して育ててきた、可愛くて仕方のない子ども達です。

そう考えると、子ども達同士は、兄弟姉妹ですね。

その兄弟姉妹たちが、例えば、喧嘩をしている。

お兄ちゃんが弟をいじめている。

そんな姿を見て、親として、嬉しいでしょうか?

あぁ、お兄ちゃんが喜んでいるから、弟くんが泣いていても別に良いや、なんて、思うでしょうか?

思いませんよね。

神様は、可愛い子ども達、一人としての例外も無く、全ての兄弟姉妹たちが、みんな幸せに、明るく、陽気に暮らしている姿が見たいんです。

そんな姿になる為には、例えば兄弟姉妹の誰かが、自分はこうしたいんだ、自分は自由なんだと言って、他の兄弟姉妹に対して、好き勝手なことをしているようでは、なかなか難しいように思います。

大切なのは、「たすけあい」です。

兄が弟を助け、姉が妹を気遣い、また、弟は姉を慕い、妹が時に兄の為を思って意見する。

そんな風に、同じ親から生まれた兄弟姉妹たちが、みんな助け合って暮らしている。

そんな姿を見れば、親も安心するんです。

けれど、そんな世界を、心が自由な人間同士で作り上げていくのって、とてつもなく難しいことだと思いませんか?

僕は思います。

だからこそ神様は、そんな人間たちの手助けをする為に、一つの仕組みを作ったんです。

⑤この世界は、心通りになる。

天理教では、「私たちの人生には、願い通りではなく、心通りの姿が表れてくる」って、教えられています。

これって、どういうことでしょうか?

人間生きていると、願い通りにならないこと、思い通りにならないことって多いですよね?

そのことが基で、苦しんでいる人、自分は不幸だと嘆いている人も、多いですよね?

でも、これっておかしな話だと思いませんか?

だって、神様が私たちが幸せになってもらいたくて作った世界なら、全部私たちの願い、叶えてくれたって、良いじゃないですか。

でも、これで良いんです。

だって、もしですよ?

もし、私たちの願いが全て叶うような世界だったら、私たちは、自分のことを願うことに慣れてしまって、他人のことをどれほど思いやることができるでしょうか?

もし、自分の幸福と、他人の幸福が全くの真逆で、どちらかの幸福が叶うことが、そのままもう一方の不幸になるような時、そしてそのどちらかが確実に叶えられるような世界なら、私たちは、自分の幸福と、他人の幸福、どちらを願うことができるのでしょうか?

この世界は、誰か個人を幸せにする為の世界ではありません。

全ての人を幸せにするための世界です。

それならば、願いなんて、簡単に叶ってしまわない方が良いんです。

じゃあ、私たちはどうやって、自分の願いを叶えれば良いのでしょう?

その為にあるのが、「世界は心通りになる」という仕組みです。

それはどんな仕組みか。

簡単に言うと、「良い心を遣えば、良いことが起こってくる。悪い心を遣えば、悪いことが起こってくる」ということです。

良いとか悪いとか、漠然としてんなーって、思いません?

でも、そういう善悪の判断って、ちゃんとできるように、神様が生まれながらにして教えてくれてるんですよね。

人を傷つけることと、人を思いやること、どちらが善でどちらが悪か、ということは、皆生まれながらにして共通した認識を持っています。

この世界には色んな文化があり、それぞれによって全く違う価値観を持っていますが、こうした基本的な善悪の価値観については、人間は全て、共有したものを生まれ持っているんです。

もちろん、生まれてから生きていく中で、色んなことに見舞われ、色んな経験をした結果、このことを忘れてしまう人だってあります。

けれど、思い出せない人は一人も居ません。

なぜなら、これは、私たち人間を創ってくれた親の神様と、同じ価値観だからです。

神様は、私たち兄弟姉妹に、互いに仲良く助け合って、みんな幸せに陽気に暮らしてくれることを望んでいます。

そっちの方向に進んでいくような心を遣っていると、神様はそれを見ていて嬉しい。

逆に、その方向と逆行するような心を遣っているのを見ると、悲しいわけです。

けれど、神様は私たち人間の心に干渉することは一切できません。

自由を許されたわけですからね。

だからどうするかと言うと、人間の心以外の、人間の身体とか、自然環境とか、世界の一切は、神様の物で、神様が支配している物なんですから、それに対しては、神様も自由自在に何でもできるわけです。

そこに、様々な姿を見せられる。

良い心を遣っている人には良い姿を、悪い心を遣っている人には悪い姿を、というわけです。

ここで一つ付け加えておきたいのは、こうした、私たちの人生の上に起こってくる良いことや悪いことは、そのように神様が能動的に見せておられる部分もあるとは思いますが、ほとんどの場合は、神様がこの世界を創られた時からある仕組みとして、自動的に、成ってきている姿だと、僕個人としては思っているんです。

どういうことか。

神様は、基本的にはこの世界を、私たち人間の心を、普段はじっと眺めながら、手を出さずに見守ってくださっていると思うんですね。

その間も、人間は最初からある仕組みに従って、良い心には良いことが、悪い心には悪いことが起こってきながら生活をしています。

そうしている時に、神様がふと見ると、

「あ、ここにいるこの子、このままの心でこのまま行くと、大変なことになってしまう!危ない!」

と、思わず子どもの手を強く引っ張ることがあるんだと思うんです。

ちょうど、車がやってきている道路に飛び出そうとする子どもに気付いた親が、とっさに手を引くように。

その後で、「こんなことしちゃ危ないでしょ!」って怒るかもしれませんね。

けれど、子どもとしては、車が来ていたことなんて知りませんし、引っ張られた腕は痛いし、親は怒るし、泣き喚くかもしれませんね。

「パパママなんて大っ嫌いだ!」って言うかもしれません。

「神様なんて居ないんだ!」って思うかもしれません。

それでも親としては、手を引っ張らずには居られなかったわけです。

私たちの人生において、なんでこんなことになるんだ!っていう、本当に苦しい出来事、本当に悲しい出来事って、やっぱりありますよね。

そういう出来事を例えば、神様の祟りだ、とか、神様が怒ってるんだ、とか、そういう風に捉える人もいるのかもしれませんが、僕はこの世にそんなものは一つも無いと思っています。

この世界にあるのは、良いものは良いように、悪いものは悪いように、全ては心通りに、成るように成ってくる、という仕組み(僕はこれを”天の理”と呼ぶんだと思っています)と、その中に置いても、やっぱり可愛い子どもを助けたい、という”親心”の2つだけなんじゃないかと思うんです。

そう思えれば、辛い出来事も、見え方が変わってきます。

この世界には、悪いことなんて、本当は何も無い。

全部、私たちの心を、少しでも、兄弟姉妹が仲良く幸せに暮らせる方向へと、導いてくださる為のメッセージであって、また、子どもが可愛くて仕方がない親がかけてくれる、親心なんだ、と。

なかなかすぐに、心からそんな風には思えませんが、思えるようになってくると、身の周りに起こってくる出来事も、どんどん変わってきます。

だって、心が変われば、世界が変わるんですから。

逆に言えば、自分の心が変わってくる以外に、身の回りに起こってくる姿を変えていく方法は、無いとも言えます。

けれどその方法され分かれば、本当なら助からなかったはずの人が、助かるようになってくるんです。

天理教って、そのための教えなんじゃないでしょうか。

さて、前回よりもかなり長いお話になってしまいましたが、「なんで心遣いが大切なのか?」という話、分かっていただけたでしょうか?

それは、全てが「かしもの・かりもの」の世界において、心だけが人間の物であり、自由に使っても良い物。けれどそれを創った神様は、その自由な心を、できれば兄弟姉妹の助け合いのために使ってほしいと願っている。その為に、この世界は「心通りに成ってくる」んだ。だから、心遣いが何よりも大切なんだ、ということに、なると思います。

さて、全3回のこの連載ですが、ラストである次回は、これらのことを踏まえて、心通りの世界の中で、どうしていけば良いのか、どう生きていけば良いのか、という未来の話をしたいと思います。

乞う、ご期待。

次回は→「⑥人間関係も、借りている?」まで。

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