わかりやすい天理教⑮「かしもの・かりもの」その3

この記事は以下の記事の続きです。


まずはこちらから読んで頂くと、より内容がご理解いただけると思います。

さて、全3回に渡ってお送りしている「かしもの・かりもの」解説の、いよいよ最終章です。

第一回では、「この世の全てはかりもの」ということについて、第二回では、「心一つが我の物」ということについて、それぞれ解説してきました。

ここまでで、「かしもの・かりもの」とはどんな教えなのか、という解説は、ほぼ終わっています。

ですが、ここまでは、理論というのか、頭で理解し、心で感じる部分についてのお話でした。

今日は最後に、この「かしもの・かりもの」の教えを、実生活においてどう活かしていけば良いのか、という、実際的で、現実的で、未来的な話をしていきたいと思います。

その為にまず、こういう切り口から、ひも解いていきたいと思います。

⑥人間関係も、借りている?

天理教では、「人間関係もかりものだ」、というようなことも言われます。

例えば、人間は、親を選んで生まれてくるわけではありませんから、その親との関係も、かりものだ、と言われるわけです。

裏を返せば、親にとって子どももかりものですし、他にも、夫や妻もかりもの、恋人や友人もかりもの、上司や部下もかりもの、ということになってきます。

しかし、これを言葉の意味そのままに受け取ってしまうと、「あれ?おかしくないか?」ってなりませんか?

だって、この世の全てはかりものでも、人間は、かりものでは無い、自分の心を持ってるんですよね?

その心を持っている他人が、かりものなんだとしたら、「じゃあその人は僕の為だけに存在しているのか?」とか、ひねくれた考え方を持っている僕なんかは考えてしまうわけです。

例えば、僕は昔中二病(分からなければググってみてください)をこじらせていたので、「この世界で自分の意志を持っているのは、本当は僕だけなんじゃないか?僕以外の人は、実はよくできたロボットだったり、全ては僕が見ているだけの夢だったりするんじゃないのか?」みたいなことを、けっこう真剣に考えていたんですね。←痛(笑)

映画の『マトリックス』とか見た後、皆さんもそう思いませんでしたか?(僕の場合は、「あ、僕と同じこと考えてる人いるんだ。ってことはみんな意志持ってるのかな」って逆に納得しちゃったんですけどね←痛(笑))

でも、この世界がもしそういう世界なんだとしたら、さっき言っていたことも理解できますよね。

この世界で自由な心を持っているのは自分だけで、他の人には意志なんてなくて、世界の全ては自分だけの心の写し鏡で、嫌なことをしてくる人も、ただ自分を成長させるためだけに存在しているんだ、って。

けれど、僕も大人になってきて、どうやら世界はそんな単純な風にはできていないということも分かってきます。

世界中の全ての人が、ちゃんと意志を持っているし、自分が望むと望まないとに関わらず、みんなそれぞれの生きたいように生きて、考えて、行動しているし、この世界は自分の為だけに存在しているわけではないんだ、って。

でも、それなら、「人間関係も借りている」って、どういうことなんでしょうか?

これはよく聞く話かもしれませんが、2020年現在、世界には約78億人の人が住んでいて、その人たちと、たとえ1秒ずつだけ会ったとしても、全員と会うためには約250年かかるんです。

また、これは色んな算出方法があって一概には言えないんですが、人は、一生の内に、言葉を交わすほどの関係を持つ人の数は、平均すると30000人だと言われています。

更にその中でも、お互いのことを話し合って、知り合うくらいに親しい関係を築ける人の数は、一生の内に300人だと言われています。

世界には、78億人も人が居るのに、その中で私たちが親しく付き合うことのできる人の数は、たった300人しか居ないんです。

けれど、その300人って、とても重要ですよね?

人は誰しも、親、兄弟、友人、恋人、上司など、近しい人の影響を受けながら生きていきます。

人間関係なしに、自分の人生を語ることなんてできないんです。

じゃあもし、今自分がこの人生で出会っている300人と、全く違う300人と出会っている人生だったとしたら、今の自分は、果たしてこんな自分だっただろうか?

きっと、今とは全く違う自分になっていたんじゃないだろうか?って、思いませんか?

人と人との出会いは、簡単に両者の人生を変え得るものです。

そして、その人と人との出会いには、神様のお働きが、関わっています。

神様が、「この人は、この人と出会った方が、きっと良い」と思われて、引き寄せられたり、または、前回お話したように、「世界は心通り」の法則に従って、自動的に、自分の心遣いに合った人たちが、自然と自分の周りに集まってくる。

そうした神様のお働きによって、人と人が出会うこと、それは、「借りている」と表現できると思います。

つまり、「人間関係も、かりもの」という時、それは、その相手の心も含めて全てを借りている、ということではなく、その人との「出会い」や「縁」を借りている、ということではないでしょうか。

ですから、この世界においては、どんな人との出会いも、必ず意味があります。

それは自分にとってもそうですし、同じように心の自由を持っている相手にとっても、あなたとの出会いには意味があるんです。

その出会いを通して、一歩でも、兄弟姉妹が助け合って、みんな陽気に幸せに暮らす世界の方へと、前進していってほしい、という神様の思いの上に、その人との出会いを、お借りしているからです。

さて、しかしここで、私たちは一つのことを、よくよく頭に入れておかなくてはなりません。

それは、以下のようなことです。

⑦この世界の全ては、自分にとってちょうど良い。

ここから少し、難しい話になってきます。

いえ、頭で理解するのには、少しも難しい話ではありません。

しかし、心で受け入れていくのには、とても難しい話です。

それはどういう話かというと、私たちの人生において、起こってくる全ての出来事、また、周りに与えられている全ての物や、出会ってくる全ての人々、それらは全部、自分にとってちょうど良いんだ、ということです。

この話、ここまで私がしてきた話が理解できている人にとっては、少しも難しい話ではありません。

だって、この世界は「心通り」なんですよね?

そして私たち人間には、自分の物は心しか無いんですよね?

だとしたら、自分の心遣い通りの姿が表れているのが、今の自分の人生なんだ、ということになるはずです。

しかし、人間なかなかそうは思えません。

いや、幸せな人生を送っている人にとっては、「そうか、私が幸せなのは自分の心遣いが良いからか」と、いい気分になって簡単に受け入れられることかもしれません。

しかし、今まさに、人生の苦しみの中に居るひとにとって、「その苦しみは、あなたの心通りだよ」と言われても、そんなの受け入れられるはずが無いんです。

例えば私は、「天理教は、世界たすけ、人だすけの宗教だ」と聞かせてもらっているので、信仰者として、日々様々なおたすけ活動をさせて頂いています。

その中の一つに、ネット上に相談窓口を設けて、人々の悩みを聞いたり、時には実際的な生活の支援をしたり、といったおたすけをしています。

そうしたことをしている中で、親から虐待を受けている子どもたちから、相談を受けることも多いんです。

その時に、「君を虐待するその親は、君にとってちょうど良いんだよ」なんて言えるかって、言えるはずが無いんです。

そしてまた、そういう子ども達って、本当に優しい子たちばっかりなんです。

なんでこんなに心の綺麗な子ども達が、こんな目に遭わなくちゃならないんだろう?って、僕自身もいつも思います。

世界が心通りなら、なんでこの子たちが、なかなか幸せになれない状況に、生まれてきてしまったんでしょう?

でも、それにもちゃんと理由があります。

あってしまうんです。

そんな話、聞きたくないですよね?

僕だってしたくないです。

でも、今からする話は、本当はそういう苦しい現状にある人にこそ、分かっていただかなくてはならないお話なんです。

ですから、たとえ途中で嫌な気分になったとしても、どうか、最後まで、読んでいただきたいのです。

⑧結局、「いんねん」の話かよ!

天理教の教えの中に、「いんねん」という概念があります。

仏教でも、「因縁」という教えがありますね。

そっちの方を辞書で調べると、「事物を生ぜしめる内的原因である因と、外的原因である縁。事物・現象を生滅させる諸原因」とありました。

よく分かりませんね。

けれど、天理教の「いんねん」は、それとは少し意味合いが違うので、あえてひらがなで表記しています。

どういう教えか、あえてめちゃめちゃ大雑把な言い方をしてしまうと、「前前前世も前前世も前世も今世も来世も来来世も来来来世も、それより前もそれより後も、ぜーんぶ繋がってるんだよ!」ってことです。

天理教では、いわゆる生まれ変わりを信じます。

しかし、仏教における「輪廻転生」とは少し違います。

輪廻転生では、人間は死んだ後、天国に行ったり地獄に行ったり、色んな「あの世」へ行きます。

けれどどの世界にしても結局苦しみの世界には変わりなく、人間は結局この苦しみの円環から逃れることもできずに、ずっと同じようなところを、ぐるぐるぐるぐると回っている、そういう世界観です。

けれど天理教には天国も無ければ地獄も無い、「この世」しかありません。

なので、人間は死んでもまた、この世に返ってきます。

その時に、この身体は神様からの借り物ですから、古くなって使えなくなってしまったら神様にお返しして、また新しい身体を借りてこの世に戻ってくる。

なので、天理教では死ぬことを「出直し」と呼びます。

その出直しの時、身体はもちろん神様にお返しするんですが、私たちの本体である心はどうなるのか、というと、これも、今までの全ての前世の記憶を持ちながら今世を生きることはとても辛いことですから、神様が、綺麗に洗い流してくださるわけです。

なので私たちは前世のことなど全く覚えていません。

心は、私たちの人生一代限りのものなんです。

けれど、じゃあ全てが綺麗さっぱり無くなってしまうかと言うと、そうではない。

そこが、ミソなんです。

私たちには、心とは別に、魂、というものがあります。

これは、末代永久に不滅の物で、この魂が、新しい身体を借りて、この世に生まれ変わってくる。

そして、これはあくまでイメージですが、魂とは心の核(コア)のようなもので、その核が身体に入ることによって、核の周りに心がだんだんと育っていく、というイメージを持つと、理解しやすいかなと思います。

そして人間が出直す時、核である魂の周りの心の部分は、来世には持ち越されないわけですが、この魂は残るわけです。

そしてこの魂には、今世で自分がどういう心遣いをしてきたか、ということが、ちゃんと残ってあるわけです。

その残っているものを、いんねん、と言います。

そしてまたその魂がこの世に返ってくる時に、その魂のいんねんに相応しい身体を借りて、いんねんに相応しい環境の元へ、生まれてくるわけです。

先ほど、輪廻転生とは、同じ場所をぐるぐるぐるぐると回っていることだ、というようなことを言いました。

それと比較するならば出直しは、らせん階段を登っているようなものです。

同じような人生を繰り返してはいますが、前世が終わった時の魂のいんねんに相応しい状態から今世が始まり、今世の間に良い心遣いをして階段を駆け登っていけば、来世はその登った地点から始めることができる。

そうやって、少しずつ、出直しの度ごとに、前に進んでいくんだと、教えられているんです。

これって、すごい夢のある話だと思います。

死ぬことは、必ずしもそこで終わってしまうような悲しいだけのものではなく、今よりもより良い地点から、より良い人生を歩んでいくために、また新たな人生へと出発していく、ということでもあるからです。

けれど、これは、過去も未来も全て見通しておられる神様の視点から見れば思えることであり、神様を信じ、神様と同じ視点を持つことができた信仰者の方なら、死ぬことすら前向きに捉えられますが、普通の人にとって、いきなり納得できることではないでしょう。

なぜなら、人間には、今しか、今世しか見えないからです。

そしてこの、今しか見えない、という人間の特徴が、このいんねんの話においても、神様とは違った捉え方をしてしまう原因になります。

神様から見れば、人間は全て平等です。

だって、一番最初に人間を創った時のスタートラインが同じです。

そして、兄弟姉妹みんな助け合って、陽気に幸せに明るく暮らす(陽気ぐらし)という目指すべきゴールも同じです。

神様としては、いんねんの話は、みんなスタートが一緒、ゴールも一緒、登り方も一緒、ということの説明だったはずなんです

でも、同じようにスタートして、同じようにゴールを目指してはいるわけですが、その間、何度も出直しをしながら、それぞれのスピードでらせん階段を登っていく中で、今、という時間だけに目を向けるなら、もう随分と階段を登って、幸せの方に近くなっている人も居れば、まだ階段の下の方で、苦しみに喘いでいる人もいるわけです。

すると人間からすれば、いんねんの話は、なぜ人生はスタートラインが違うのか、なぜ世界には不平等があるのか、という説明の話に思えるわけです。

だからいんねんの話をしていると、どうしても暗い話のようになりがちです。

なので今では天理教では、いんねんの話を始めると、「うわ、いんねんの話かよ!」というように、敬遠した顔をされることも少なくありません。

今までいんねんの暗い部分の話を聞きすぎて、もはやトラウマになっている、と表現しても過言ではないくらいです。

けれど、今回私は荒療治でこのトラウマを克服してもらう為に、更に暗い部分へと今日は話を進めていきますね(笑)

なぜ、同じルールでらせん階段を登っているのに、ここまで差ができるのか、それは、いんねんのスパイラルに嵌ってしまうと、なかなか抜け出せない、ということが挙げられるのではないでしょうか。

だってそうですよね?

この世界において、らせん階段を駆け上がって幸せに近づいていく為の手段は、心、しかないわけです。

心が私たちの唯一の物で、その心通りに世界は変わっていくわけですから。

でも、心は自由とは言っても、色んなものの影響を受けながら、心は育っていきます。

そして、その心に影響を与えるもののほとんどは、いんねんによって決められている、という現状があります。

例えば、身体。

これも、前世までのいんねんを見て、そのいんねんに相応しいように、ちょうど良い身体をお借りしているわけですよね。

例えばスポーツが得意・不得意、これもいんねん通りの借り物です。

顔がイケメン・ブサイク、これもいんねん通りです。

脳も借り物ですから、頭が良い・悪い、これも、いんねん通りなんです。

また、生まれ持っての障害を持っている・持っていない、これもそうです。

でもこれらのことって、どんな性格(心)になるかに、めちゃめちゃ影響を与えると思いませんか?

どんな心になるか、ということと、どんな身体をお借りするか、ということは、切っても切り離せないと思うんです。

あ、ちょっと余談になってしまうんですが、どうしても話しておきたいことがあるので、少し話を逸らしますね。

心の病、って表現、ありますよね?

あれって、天理教の人にとってはものすごく辛い表現なんです。

だって、人間には心しかないって、教えられているんですもん。

その心を病んでしまうっていうのは、もう自分の全てを全否定されたように感じられてしまうわけです。

僕も病んでいた時は、本当に自分を責めてばかりでした。

ですが、その後おたすけ頂いてから、臨床心理学を勉強する中で、あれは正確には、心の病ではなく、脳の病なんだ、っていうことが分かりました。

脳内ホルモンの分泌や受容の異常だったり、脳の一部分が委縮していたり、そういったことが原因として挙げられるわけです。

なので、心の病と呼ばれるアレも、本当に心そのものが病んでいるわけではなくて、風邪や怪我と変わらない、かりものの身体に見せられたお知らせなんだって分かったんです。

だから、同じような悩みを抱えておられる天理教の方。

そんなに自分を責めなくて良いんですよ?

さて、話を戻します。

身体の次は、環境、特に家族との人間関係です。

どんな家に、どんな家族の元に生まれるか、ということも、前世までのいんねんを見た上で、自分にちょうど良いところに生まれてくるわけです。

そうした環境の中でも特に、どんな親の元に生まれてくるか、ということは、もうめーっちゃめちゃ子どもの性格(心)の形成に影響を与えます。

それくらい、親子の関係というのは根深いものがあります。

また、兄弟姉妹が居るか居ないか、という影響も大きいでしょう。

また、幼稚園、小学校、中学校といった義務教育ぐらいまでの人間関係も、ある程度は生まれた瞬間に、その地域によって決まってくるでしょう。

そうした、生まれた時から、もう既に選べない人間関係、というのは、いんねんによって決められてしまっています。

ですが、裏を返せば、その後は、自分で選べる人間関係も、どんどん多くなってくるわけです。

高校・大学・恋人・結婚相手・職場etc・・・。

そうした、自分で選べる人間関係を通して、人生をいくらでも自分の手で変えていけるんだという救いも、一度ここで挟んでおきますね。

また、心は実は、魂の影響も受けているんです。

記憶などといった心の部分は、出直しの時にほとんど来世に持ち越されませんが、少し残る、という話をしました。

その少しの中に、例えば生き方の癖とか、心の芯に残った性分というか、そういったものも残って、来世へと引き継がれるわけです。

胎児にも性格がある、という話も聞きます。

まだ何も経験しない内からもうすでにある性格、それは、魂の影響です。

双子が、同じDNAを持って、同じ環境で育っても、全く違う性格に育つこともままあります。

それも、魂の影響ではないでしょうか。

さて、このように見ていくと、例えば、いんねんによって、苦しい身体で、苦しい環境に生まれた魂が、その後豊かな心を育んでいくことは、そうではない魂と比べて、難しいんじゃないか、って、思いませんか?

いんねんに決められた運命を切り拓いていく手段は、心しかない、でも、その心がいんねんによって縛られてしまっている、と。

え?じゃあ、このいんねんから抜け出していくの、無理じゃね?

いんねんに敗けるしか、無いんじゃね?

って、思ってしまいませんか?

そうした状況をどうにかするために立教したのが、天理教である、とも言えるんです。

天理教の教えを知るまでは、このいんねんのスパイラルから抜け出して、いんねんを良くしていく方法が分からなかった。

なので、いんねんに苦しんで、いんねんに泣いている人たちも、仕方ない、と、置いておくしかなかったんです。

その状況に、神様もずっと心を痛めておられました。

(じゃあ、なんですぐに天理教を立教しなかったんだ?という質問には、いつかこちらで答えると思います→https://note.com/hitokotohanashi/m/m767a7ffd7c3f )

しかしついに、天理教が立教して、人間世界を創られた神様自ら教えを説かれたことによって、私たち人間は初めて、今まで話してきたような、この世界の真実、世界の仕組み、また、不幸の原因と、幸せになる方法を知ったわけです。

そういう意味で、天理教は、心を切り替える為の、そしてまた、心を切り替えることによっていんねんを切り替え、今まで苦しみに喘いでいた人生から、陽気ぐらしができる人生へと抜け出して行く為の教えだと、言うこともできます。

その教えを聞いて、納得して、実践した人が次々に助かり、またその人が教えを説いて、人々を助けて回る、そうした連鎖が日本中に巻き起こったような時期もあったのです。

明治時代の後期から、昭和の初期にかけてのことです。

そしてその時代のおたすけの現場では、こういった会話がなされていました。

「なに?〇〇の病気だと?それは、いんねんだ。お前が前世で〇〇の悪事を働いていた表れだ。そこをよく反省して、人助けをしろ」

また、

「なに?夫の浮気癖で悩んでいるだと?それは、いんねんだ。お前が前世で夫にしていたことを、そのままやり返されているだけだ。だからむしろ悪いのはお前だから、これからはその夫を拝んで通りなさい」

などと。

こうした話を「そうだったのか」と納得することができて、その通り実践された方は、不思議と次々に助かっていかれたそうです。

けれど何度も言いますが、やっぱりこう聞くと、いんねんの話って、聞いていて楽しいものでは決してないですよね。

むしろ自分がそういうことを言われたところを想像しただけでも苦しいです。

実際に、このいんねんの話をされて、苦しくて仕方なくて、天理教の信仰をやめてしまった、という人も多くおられます。

そして先ほど話したように、現在では信仰者の間でも、このいんねんの話はすっかりトラウマ化してしまっているので、おたすけの現場でも、いんねんの教えが説かれることは本当に少なくなってしまいました。

こうしたいんねんの話を、この現代においても説いていくことに、私も少なからぬ難しさを感じています。

昔は生活も今ほど便利ではなく、科学や医学も発達しておらず、また人々が得られる情報も今と比べれば本当にわずかなものだったので、人生における選択肢が少なかったのです。

なので、こうした話に、藁をも掴むような思いですがるしかない人も多くいました。

ですが、現代では、生活も様変わりして豊かになり、世界は情報に溢れ、昔と比べれば、どうしようもない困った事態に遭遇する機会は格段に減っていると思います。

それに、人生における選択肢も、誰に対してもほとんど無限に開かれています。

困った時、別に藁にしがみつかなくても、乗せてくれる船がその辺を行きかっていたり、浮き輪があちらこちらに浮かべられているような社会になってきたんです。

選択肢が少なければ、苦しい選択肢を自ら選ばなくてはならないことも、多かったことでしょう。

しかし、これだけ選択肢が山のように与えられている時代になると、他にいくらでも楽に生きられる選択肢があるのに、その中であえて苦しい選択肢を選んで生きる、という人は、自然と少なくなってきます。

その結果、昔と比べて人間は、苦しみに対する耐性が弱くなっているということが言えると思います。

そんな、みんな苦しいことを嫌がっている時代に置いて、自分の身に覚えのない前世の罪を悔い改めて、そのいんねんを切るために血の滲むような努力をしなくてはならない、なんていう聞いただけで苦しくなるようないんねんの教えを、誰が心から聞いてくれるでしょうか。

しかし、説くのをやめたところで、いんねんが無くなるわけではありません。

いんねんの仕組みは、古来から現代、現代から未来に至るまで、厳然として、間違いなく私たち人間の人生の上に存在しています。

ここから目を背けていたのでは、いつまで経っても世界は陽気に建て替わっていきません。

いんねんを切る、悪いいんねんを良いいんねんに変える、出直しのらせん階段を駆け上る、そういったことが、世界が陽気に建て替わっていく唯一の方法であり、そして天理教の役目です。

では、どうすれば良いのでしょう?

そのヒントを私にくれたのは、中島みゆきさんでした。

⑨”さんげ”をすれば、いんねんは切れる。

中島みゆきさんと言えば、数少ない、天理教の信者であることを公表しておられる芸能人の方です。

その中島みゆきさんが『泥海の中から』という、タイトルからして明らかに天理教チックな楽曲を作って歌っておられるのですが、その歌詞に、次のようなフレーズが出てくるんです。

「ふり返れ 歩き出せ 悔やむだけでは変わらない   許せよと すまないと あやまるだけじゃ変わらない」
「ふり返れ 歩き出せ 忘れられない罪ならば  くり返す その前に 明日は少し ましになれ」
「ふり返れ 歩き出せ 悔やむだけでは変わらない  果てのない 昨日より 明日は少し ましになれ」

大学の天理教学の授業の時、教授がこの歌詞を引用して、「これが”さんげ”ということだ!」と力説していました。

”さんげ”という、また新しい言葉が出てきましたね。

この”さんげ”が、実は天理教の教えの中では、いんねんを切る方法の一つとして挙げられており、しかも、他のどの方法よりも最も多く言及されている、最大の方法なのです。

では、さんげとは、どういう意味か?

似た言葉に、キリスト教で主に重視されている、懺悔(ざんげ)というのがありますね。

辞書で引くと、「自分の犯した罪悪に気付き、それを神仏や他人に告白し、悔い改めることを誓うこと」とあります。

しかし、天理教のさんげは、これとは少し違うのです。

懺悔とは、中島みゆきさんの歌詞で言うならば「許せよと すまないと あやまるだけ」の状態です。

しかし、いんねんは、「悔やむだけでは変わらない」のです。

もちろん、「ふり返る」ことも大切です。

今の自分の苦しみの原因は、身に覚えはなくとも、前世まででの自分の行いにある、ということを、知っておくことはとても大切です。

しかし、こんなことを言っては身も蓋もないのですが、私たち人間には、どうせ前世なんて見えないんです。

そんな、見えもしない前世までのことに、今まではこだわり過ぎていたんだと思います。

前世まででの罪を自覚して、反省して、悔い改めて・・・。

そんな部分に重きを置いてきてしまったから、いんねんの教えが、とても暗い教えのように思われてきてしまったんだと思います。

けれど、本当はいんねんは、暗い教えなんかでは無いんです。

「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」なんて故事もありますが、まさにいんねんの教えは、その教えを知ることによって、なぜ自分は苦しんでいるのか、そしてどうすれば助かるのか、という、最も根本的な方法を教えてくれている物なんです。

なので、大切なのは、「ふり返る」ことよりも、「歩き出す」ことなのではないでしょうか。

どうせ分かりっこない「果てのない昨日」に囚われているのではなく、「明日は少しでもマシ」にする為に、前を向いて歩き出すことが大切ではないでしょうか。

「自分が今苦しいのは、過去や前世に原因があるらしい。それは分かった、分かったからもう良い。後は、じゃあ今、どうやったら、この苦しみから抜け出せるんだ?どうやったら、今よりマシな未来に生きることができるんだ?そうか、そうやったら良いのか、だったらそうしよう!そうやって、未来を変えていこう!」

いんねんの教えというのは、本来このように、心の切り替えをする為の、とても明るい教えだと思うのです。

さんげ、は、身体の行いというより、心の働きです。

なにか行動を変えることがさんげではなく、心の向きを変えるということがさんげです。

そしてその向きとは、「懺悔」のように、あくまでも過去のことだけを反省することに重きを置くのではなく、過去を振り返った上で、心で前を向く、未来に向かって歩き出す、それが、さんげ、だと思います。

⑩たすかる為に、「かしもの・かりもの」を学ぼう。

さて、いよいよ最終章です。

じゃあどうやったら、心の向きが変わるのか、つまり、さんげができて、いんねんが切れるのか、ということをお話して、この長い長いお話を締めます。

江戸時代から明治時代にかけて、天理教において、まだ人々が、直接神様に色々と聞くことができた時代、その時に、人々は何度も何度も、病気になったとか、人間関係で困ったとか、そうしたことのたすかりを求めて、神様に指図を仰いだわけです。

その時に、神様が何度も何度もお答えになった言葉の一つに、「たんのうは前生いんねんのさんげ」というものがあります。

つまり、この「たんのう」ということをすれば、さんげができて、いんねんが切れるってことです。

「たんのう」とはどういうことか、簡単に言うと、「この世の全ては今の自分にとってちょうど良い」ってことを悟るってことです。

そうです、ここにきて最初の話に戻るわけです。

まるで伏線回収みたいですね(笑)

私たち人間には、理想とか、欲望みたいなものがありますよね。

「こうだったら良いのにな」「あぁなりたいな」ってやつです。

でも、その理想や欲望と、現実がかけ離れていればいるほど、「足りていない」部分に目がいきますよね。

その「足りていない」部分に心を向けること、そしてそのことを、言葉や行動に出すこと、それを天理教では、「不足」と呼んで、あまり良い行いではないと、戒められています。

ではそのあまりよくない行為「不足」の対義語は何か。

私は、それが「たんのう」だと思います。

たんのうは、漢字で書くと「足納」です(諸説あり)。

つまり、「足りている部分で納める。満足する」ってことです。

それができれば、私たちはいんねんを変えられるそうですが、でもどうすれば私たちは、現状に満足することができるんでしょうか。

その方法がすなわち、「今自分に与えられているもの、お借りしている身体、置かれている環境、身の周りの人間関係、それら全て、今の自分の心にとって、ちょうど良いんだ、一番ふさわしい形なんだ」ということを悟ることです。

これができれば助かるんです。

けれど、「現状に満足するってことは、なーんだ、理想を諦めろってことか、欲望を我慢しろってことか」って風に、思われる方がほとんどじゃないですか?

「現状に満足しちゃったら、何も成長できないじゃないか」って。

けれど、そうじゃないんです。

むしろ、いんねんに苦しんでいる人にとっては、たんのうこそが、唯一の成長戦略なんです。

そもそもですよ、「神様も、いんねんなんか関係なく、みんな幸せにしてくれたら良いじゃん」って、ここまで読んでる内に思いませんでしたか?

けれど、どうしてそれができないのか。

それは、いんねんに関係なくその人を幸せにしてしまうのは、逆ピラミッドを作るようなことになってしまうからです。

…………ん?今の例えはちょっと分かりにくかったですかね?

要は、幸せになる為には土台が必要ってことなんです。

ピラミッドで、一番下の段に10個のブロックがあったら、その上に9個のブロックを乗せても、完全に安定していますね。

更にその上に8個のブロックを乗せても全然へっちゃらです。

そうやって、下の段が安定していると、どんどん高くピラミッドを積み上げることができます。

けれど、ピラミッドの一番下の段が1個のブロックしかないのに、そこに2個のブロックを乗せようとしたらどうなりますか?

更にその上に3個のブロックを乗せようとしたら?

グラグラですよね?

いつ崩れてしまうか分かりません。

そしてその内に本当に崩れてしまうことでしょう。

それに、1個のブロックの上に、神様が可哀そうだと思って、何とか10個のブロックを乗せてあげたいと思って乗せてみても、ちゃんと乗るのは1個だけ。

あとの9個は落ちてしまうんです。

だから、神様も、1個のブロックの上には、1個のブロックを、乗せ続けることしかできない。

しかしそれも高くなるほど不安定になって倒れてしまいそうになりますから、同じ数だけ上に乗せる塔のような幸せよりも、例え先細っても、ピラミッドのような安定した幸せを、神様としては与えたいわけです。

その為には、下の段にブロックをたくさん積む以外に、方法は無いですよね?

そうした、ピラミッドという幸せの形を、その上に築き上げる為の基礎、それが、心なんです。

世界は心通り、というのは、そういうことです。

神様からすると、この人間は心が良くないから幸せにしてあげない、という感覚ではなく、この人間も心は良くないけど幸せにしてあげたい、してあげたいのに、したくてもできない、という状況なんです。

幸せのピラミッドも、倒れてしまったら、今ある現状の幸せすら失ってしまいます。

そっちの方がずっと可哀そうなことになります。

そういう理由で、神様も、いんねんを無視して人を幸せにすることができません。

なので、神様としては、「どうにか心を入れ替えてくれ」というメッセージを送ることしかできません。

心通りの幸せしか与えられませんし、心に直接干渉して変えることもできないからです。

では、どういう心になれば幸せをいっぱい上げられるのかと言うと、この話はいずれ詳しく話すので今は流しながら簡単に説明すると、その心を神様は「誠真実の心」と呼んで、その心の内容を大きく3つに分けると、「人をたすける心」「裏表の無い心」そして、「たんのう」の心、ということになります。

今回お話している「たんのう」の心。

こうした心になることの他に、ピラミッドの基礎を広げて、幸せになる道は無いんです。

「自分は現状に満足せずに、挑戦してきたからこそ成功した」

そんな風に言う経営者の方も居ますが、しかしそうした人の根本には、感謝の心があります。

恵まれた環境に生まれてきたお陰で、実業に挑戦できた。

家は貧乏だったけれども、才能に恵まれた、そのお陰で、チャンスを掴むことができた。

僕には才能が無かったが、優秀な仲間に恵まれた、彼らのお陰で、実績を積み上げることができた。

そうした、「おかげさま」の心、感謝の心が根本にあって、成功して、その成功にまた感謝して、その上の成功にまた感謝して。

そうやって、大きな成功を、人は掴んでいきます。

これは、たんのうの話となんら矛盾しません。

現状に感謝するからそれ以上の幸せが与えられる、その新しい幸せに感謝するから、また更に上の幸せが与えられる。

そんな風に、人はたんのうの心を積み上げることによって、幸せのピラミッドも積み上げ、成長することができるのです。

現状に満足することは、実は成長の母なのです。

しかし、先ほどいくつか挙げた経営者の例では、「自分は〇〇に恵まれた」という、感謝しやすい根本があったからこそ、このたんのうの良いループを積み重ねていくことができました。

つまり、ある程度、良いいんねんを持って生まれたからこそ、更に良くなった、という例です。

なら、感謝することが何も無いというように見えてしまう現状の中から、感謝するにはどうすれば良いのか。

それが、何度もお話している「今の現状が、ちょうど良いんだ」と悟ることです。

感謝まではいかないけれども、まずは、現状は、不足するほどのことではない。

マイナスではなく、ゼロ地点なんだ、ということを悟ることです。

すると、その悟りを得た瞬間から、幸せを積み上げる為の心の基礎が、どんどんと広がり始めます。

マイナスだと思っていたものが、実はプラスマイナスゼロだと思えたら、心のベクトルは相対的にプラスになっているわけですからね(数学嫌いの人、変な例えごめんなさい)。

その心の基礎の上に、今までには表れて来なかった、幸せに近づくような出来事がだんだんと起こってくるようになり、そしたらまたそれを喜べます。

するとまたその心の変化が、更なる幸せを呼んで、またそれを喜べて、という、たんのうの良いループへと、その人も入っていくことができるわけです。

しかしその良いループに入っていく為の一歩目、「今ある全ては、自分にとってちょうど良いんだ」という悟りを得ることが、案外に難しいんです。

悟り、と言うからには、頭で理解するだけでは足りないんです。

なので、今私がここに書いたことを読んで、頭で理解しただけではたんのうにはなりません。

本当に心から、この世界の全てはかりものなんだ!そして全ては心通りなんだ!だから今の自分の周りの全てはちょうど良い!何一つの不足も無い!全てが満足できる!喜ぶべき、感謝すべきことしかこの世には無いんだ!ということを、心の奥底から感じて、信じ切って、初めて至れる境地だと思います。

その為には、本当に何度も何度もこの話を聞かなくてはなりません。

今まで話してきたような一連の話を、何度も聞いて、読んで、そして人にも話して、伝えて、自分の言葉で書いて、そうしたことを、1000回くらい繰り返している内に「そうだ!本当にそうだ!」と思えるようになってきます。

私自身もまだまだ、頭で理解の域を超えることができません。

だから今も、こうして全力投球でアウトプットして、その域に達しようと進んでいます。

この世界においては、現時点でもう既に幸せな人は、放っておいても勝手に幸せになります。

その理由は、今まで話してきた通りです。

けれど、現時点で、いんねんの繰り返しに敗けてしまっていて、不幸のさなかに居る人は、この、たんのうの一歩目、を踏み出さない限り、なかなか幸せの連鎖に入っていくことが難しいんです。

そして、ここがとても重要なことなんですが、たんのうの一歩目は、自分一人だけでは踏み出せない、ということがあるんです。

⑪よふぼくとして、生きていく。

さっき「これが最終章です」と言いながら、また一つ、書いてる内に書きたいことが思い浮かんでしまって、章を増やしてしまいました。

けど、実はこの記事は、最初からずっとそんな感じで書いてきました。

最初に想定していた文章量の、軽く5倍にはなっています(その結果、この第三弾の公開がここまで遅れてしまったこと、深くお詫び申し上げます)。

書いている内に、今まで自分では思い付きもしなかったようなことを、次々と神様が頭の中へ思い浮かべてくださるものですから、それに従って書き進めてきたような次第です。

「神様が頭の中へ思い浮かべてくださる」なんてことを言うと、ちょっと異端っぽく思われたり、聞く人が聞いたら怒られるのかもしれませんが、僕はそういったことこそが、「よふぼく」なのかな、とも思うんです。

よふぼくとは、漢字で書けば「用木」で、そのまま読めば、「用いられる木」という意味です。

なぜ木なのかと言うと、天理教では世界を陽気ぐらしにしていくことを、木造建築に例えて教えられていたからです。

なので、この「よふぼく」は、色んな定義の仕方があるんですが、今回の記事では「神様に使ってもらえる人」と定義しておきたいと思います。

さて、ここで話を戻しますが、いんねんに敗けて、不幸のどん底にある人は、一人で這い上がってくることは非常に難しいんです。

けれど、神様としては、何とかしてでもその人に助かってもらいたい。

助かってもらうには、心の向きを変えてもらうしかない。

けれども神様は、人間の心に干渉することができない。

そこで、神様はどうされるか、よふぼくを使うわけです。

神様は、世界中の人を助けたいと思っていつも見ておられるけれども、直接手出しはできない。

なので、よふぼくに神様の代わりをしてもらうわけです。

そこで出てくるのが、「人間関係もかりもの」ということです。

人と人との出会いや縁は、神様のお働き、なので神様は、何とか助かってもらいたい人の所に、その人を助けてくれそうな人を出会わせるわけです。

「あぁ、ここにまた苦しんでいる可愛い子どもが居る。何とかしてあげたいなぁ。あ!この子の近くに〇〇(あなたの名前)というよふぼくがいる!なぁ、頼む、わしの代わりにこの子を助けてやってくれ!」

多分、そんな感じだと思うんです。

脳もかりものですから、虫の知らせとか、第六感とか呼ばれたりする、直観、あれは、自由な心の働きというより、神様のかしもの・かりものの働きの一つだと思うんですね。

なので、「普段はここを右に曲がるけど、なんとなく今日は左に行ってみようかな」と、思う。

そしてその先で、困っている人と出会う。

もしあの時、私が出会っていなかったらこの人は・・・。

みたいなことが、よふぼくとして使っていただけるようになると、人生の中に多々起こってくるようになります。

とはいえ、前述したように、人間1人が一生の内に密接に関われる人の数は300人くらいしか居ないんです。

そして時間や距離の問題もありますから、どれだけ神様がその人を助けたくても、その人と出会えそうな所に、その人を救えそうな人が一人も居なければ、神様としてはどうしようもありません。

だから神様は、この世界によふぼくがたくさん欲しいんです。

よふぼくがこの世界にたくさん居れば、それだけたくさんの人を救うことができるんです。

ではどうすれば、神様によふぼくとして使って頂けるか。

よふぼくである為の条件、それは、心が、神様の思いと近いこと、ではないでしょうか。

何度も言うようですが、神様は、人間の自由な心に直接干渉することはできません。

ですが、神様はこの世界を陽気ぐらしの世界にしたい、という思いを持っておられ、その思いと、違わない心を持つものが居たら、神様は別にその自由な心に干渉せずとも、神様の働きを、そのままにその人の元に表すことができます。

そうなってくると、人だすけ、世界だすけの上に、神様に使って頂けるようになります。

そのように、神様の思いに心を近づけていく為の第一歩は、やはり「かしもの・かりもの」の話を聞く、というところにあると思います。

この世の全てはかりもの、心だけが自分の物、そして世界の一切は心通り、ということが、よく了解できてくると、後は自然と、たんのうの心が芽生え、裏表のある心が無意味であることが悟られ、自分が助かりたい心から、人に助かってもらいたいという心に変わってきます。

そのような心になると、神様はどんな働きも、その心通りに見せてくださるようになります。

神様の願いと、自らの願いがイコールになった時、この世界は、心通りの世界から、願い通りの世界へと変わる、そんな境地に達する第一歩目が、「かしもの・かりもの」の話を聞くことなんです。

そして、これがとても大事なことなんですが、「かしもの・かりもの」の話を聞く・する為には、必ず相手が必要です。

「かしもの・かりもの」の話は、自分一人さえ心におさまっていればそれで良いというものではないんです。

人と人の間で、積極的に交わされて初めて、輝くものなんです。

先ほどから、いんねんの苦しみに喘ぐ人は、自分一人で助かることは難しい、という話をしてきました。

そして、その人を助ける為に、神様はその人をよふぼくと出会わせるのだと。

なら、よふぼくは苦しむ人と出会った時、どうすれば良いのか。

私は、「かしもの・かりもの」の話をすれば良いんだと思います。

そして少しハードルは高いですが、「いんねん」の話も。

今までしてきたような、この長い長いお話、こうしたことを、自分の言葉で取り次げば良いんだと思います。

いんねんを切るためのたんのうの第一歩、その為には、かしもの・かりものの話を何度も聞いて心に納めなくてはなりません。

そしてその為には、そもそもかしもの・かりものの話を教えてくれる、よふぼくと出会わないことにはどうしようもありません。

いんねんに苦しむ人が、よふぼくと出会い、かしもの・かりものの話を聞く。

二人の間で、何度も何度もかしもの・かりものの話がなされる。

すると、いんねんに苦しむ人の方は、だんだんとたんのうができるようになって、さんげができるようになって、いんねんが切れてくる。

一方、よふぼくの方も、何度も話す内に、だんだんと心が神様の思いと近くなっていき、より使って頂きやすいよふぼくへと、成人していく。

少し大げさな言い方かもしれませんが、神様は、かしもの・かりものの話をさせる為に、苦しむ人とよふぼくを出会わせるのではないかとさえ思います。

それほどまでに、「かしもの・かりもの」の話は、全ての助かりの根源です。

さて、かしもの・かりものの話の後に、いんねんの話も取り次ぐならば、一つ、注意事項があります。

それは、「それは貴方のいんねんだ」なんて、言ってしまわない、ということです。

だって、何度も言うようですが、いんねんに苦しむ人は、「それは貴方のいんねんだ」と言われて、そこから自分一人で悟って助かっていくことなんてできないからです。

そもそも、それが一人でできるくらいなら、神様はあなた(よふぼく)をその人(苦しむ人)に会わせたりなんかしないんです。

この世界では、幸せになれる人は一人で勝手に幸せになっていきます。

そうじゃない人が居るから、あなたが必要なんです。

そして神様は、あなたならその人を助けられると思ったから、あなたとその人を会わせたんです。

ならば、あなたが言うべきことは一つです。

「それは、私と貴方のいんねんです」

そう言って、相手の苦しみに寄り添うことです。

そこからしか、おたすけは始まらないと思います。

共に苦しみを分かち合い、共に悩み、共に考え、共にたんのうし、共にさんげする、そこに、共にいんねんが切れていく道があります。

天理教の最終目標、陽気ぐらしの世界は、自分一人でできるものではありません。

陽気ぐらしの世界は、人と人との間に出来上がってくるものだと思います。

そして、陽気ぐらしの世界は、私たち人間が何もしなくても、神様が勝手に導いてくれるものとは言えないんだと、ここまでの話に納得してくださった方なら思われることと思います。

これから、世界が陽気な世界へと建て替わっていくのか、それともどんどん悪い方へ進むのか、それは、私たちの双肩にかかっています。

まずは、しっかりと「かしもの・かりもの」を学び、「かしもの・かりもの」の話を何度も聞き、そして、目の前にいんねんに苦しむ人が表れてきたら、それを我が事だと捉えて、真剣に「かしもの・かりもの」の話を取り次ぐ。

それを何度も何度も繰り返した先に、必ず世界は良くなっていきます。

陽気ぐらしの世界へと、向かっていきます。

十章までで終わっていた話と、一章の蛇足を以て、この長い長い話を、締めさせて頂きたいと思います。

思いつくままに書き連ねましたので、至らぬ点も多々あったかと思います。

私自身、一度書いただけではこの話が心にまだまだ治まっておりませんので、これから何度もこの話を読み返していきたいと思っているような次第です。

そしてここは、と思った所には加筆修正を施して、どんどん進化をさせていく、そういった話にしていきたいと、思っております。

ご感想・ご意見、頂けましたら幸いです。

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