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鍵盤はレースを纏い 第4話

第4話

 土曜日になり、白川は胸を高鳴らせながら楽器店に向かう。
「いらっしゃいませ」
 店員が丁寧に出迎えてくれた。先週、楽器を預けた店員だ。預り証を出しながら言った。
「先週、バイオリンのメンテナンスをお願いした者なのですが……」
「白川様ですね。少々お待ち下さい」
 肩が強張る。どんどん鼓動が速くなる。奥から、見慣れたソフトケースが大切そうに取り出されてきた。
「こちらでございます。仕上がりのご確認をお願いします」
 白川は恐る恐る、ケースを開け、掛け布を取る。ピカピカの弦に、白い弓毛。十年前、大学オケで弾いていたときを思い出す。白川のバイオリンは、十年の眠りを経て、目覚めた。
「軽く音出ししてご確認いただけますか」
 白川は頷く。そっと楽器を持ち上げ、肩当てをつける。松ヤニは使えない状態になってしまっていたので、その場で購入する。
 弓に松ヤニを塗り、楽器を構える。
(ああ、俺の楽器だ)
 交響曲、協奏曲、ソロ。たくさんの曲を弾いてきた。弾けずに苦悩してきた。その楽器を感じながら、白川は弓を構える。
 思い切ってAを鳴らすと、大きくズレた音がした。緊張が切れて、思わず笑ってしまう。
「あれ?」
 店員があたふたする。
「張り替えをしたばかりなので、狂いやすいのですね。チューニングしていただいて……」
 白川は、ペグを回し、弦をはじきながら言う。
「チューナーを貸していただくか、Aの音を貰えますか」
 店員が手近なピアノを開け、ラの音を出す。弦を弾くピチカート奏法で音の大まかな調整をしたら、アルコ、つまり弓を使った奏法で音を出しながら、ペグを回す。ペグの僅かなズレで、大きな音のズレに繋がる。ピアノのラの音と、バイオリンのAが一致したとき、白川は店員の方を向きながら軽くお辞儀をした。
「合いました。ありがとうございます」
 そして、隣の弦と重音で弾きながら、すべての弦のチューニングを行う。
 店員が感心したように言う。
「十年ぶりとおっしゃっていましたが、素晴らしい耳ですね。しっかり重音の幅を覚えていらっしゃる」
「案外覚えているものですよね」
 白川は笑う。ふと、あるフレーズが頭に流れた。そのまま、フレーズを指板と弓に乗せる。
 かなりゆっくりだが、パッヘルベルのカノンのテーマ部分だ。
「ゆっくりでしたら、なんとか弾けました。音程が少し危うかったですが」
 店員が小さく拍手する。
「素晴らしいです。この小さな音程のミスに気付けるというのは、やはり耳がよろしいのかと存じます。十年間弾かれなかったのが、もったいなく思えてきました」
 それはお世辞が過ぎるだろう、と白川は笑って受け流す。
「とにかく、ありがとうございます! とても弾きやすいです」
 店員はにっこりと微笑んだ。
 白川は、バイオリンを片付け、メンテナンスの精算をする。
「そうだ、楽譜を見せていただけますか。ピアノと合わせられる、最近の流行りの曲のようなものがいいのですが」
「かしこまりました。そうですね、ではこの辺りが、難しすぎず、結婚式の余興などにも人気です。だいたい初心者から中級者向けです」
 店員が持ってきたのは、バイオリン曲集だった。パラパラと見ると、そこまで複雑な楽譜ではないのがわかる。
 あくまでメインはふうみぃのピアノだ。あまりに下手でも許されないだろうが、白川は引き立て役になる。難しい曲をボロボロに弾くよりは、簡単な曲をしっかり弾けたほうが良いだろう。そう判断して、その楽譜集も購入した。
「是非、楽しまれますように」
 店員は、笑顔で送り出してくれた。
 白川は、ソフトケースを背負い、駅に向かって歩き出す。今頃、ふうみぃは、そのピアノで多くの人を魅了しているのだろうか。白川は、背中にバイオリンの重みを感じながら、気合を入れ直した。
 帰りの電車では、購入した楽譜集を眺め、曲の選定に集中した。

 帰宅途中のファミレスで簡単に昼食を摂る。思った以上にバイオリンが邪魔だ。
 ここは、以前ファミレス飲みで毎日のように通っていた場所だ。グループリーダーの立場を不満に思い、かといってそれ以上の昇進も見通せず、鬱憤をひたすらビールにぶつけていた場所。
 偶然遭遇したふうみぃのピアノが、白川の生活を変えた。ファミレス飲みは、めったにしなくなった。家のWi-Fiに繋げてMyFilmでピアノを聴いているほうが楽しいからだ。
 久しぶりに来たこの店は感慨深い。もちろん店が悪いわけではない。不貞腐れていた白川が悪い。
 仕事で見通しが立ったわけではない。相変わらず白川は薄給なのに責任だけはあるグループリーダーで、課長職までは遠い。うだつのあがらない会社員だ。
 しかし、偶然にもふうみぃと接点を持ち、仕事もピアノも頑張っている彼女を見ていると、何も行動を起こさず、くだを巻くだけだった自分を恥ずかしく思った。
 少しだけ、仕事に対する背筋が伸びたと思う。
 水島の顔が浮かぶ。水島が白川に気があるかどうかは、白川は知らないし、今は脇に置いておくとして、水島が努力していたのは事実だ。水島にも、グループリーダーだった時代もあったはずだ。その中で頭角を現したから、課長になった。
 ふうみぃ、つまり芙美子も、仕事をこなしながら、ピアノを弾いている。あやめも、侑大も、一生懸命、自分のできることでふうみぃを支えている。
 無駄だ、できない、どうせ無理、と諦めることは簡単だ。でも、それでは何も変わらなかった。
 何の因果か、ストリートピアノの世界に引き込まれることで、白川の視野は広がった。自分を哀れんでいても何も始まらない。何かできることがあるはずだ。仕事でも、音楽でも。
 そんなことを考えていたら、土日もやっているランチメニューが運ばれてきた。
 帰ったら、音出しだ。

 白川は家に戻った。白川の住む賃貸のアパートで、楽器を弾いても問題ないかと、不安になる。ミュートという、駒に挟んで音を小さくする器械を使うこともできるが、音色が変わるのであまり使いたくない。
 少し悩んだが、白川は肩当てと弓を準備し、調弦を始めた。また調弦が狂っていたので、スマートフォンのアプリでAを調整する。少しズレている気がして調べると、アプリが反応する周波数が違うようだ。専用のチューナーを買わなければならない。今日のところは、多少のズレには目をつぶることにした。
 そして、ケースの中に眠っていた、指運動と音階の楽譜で練習を始めた。
 特に音楽になっていないそれらも、しっかり伸びやかに弾いていくと、美しく聞こえてくる。ビブラートをかけてみる。ぎこちないが、できた。
 白川は一通り弾いて思ったことは、「けっこう覚えている」だ。最低限の音階練習すら弾けないかもしれないと思っていたが、予想外だった。
 白川は調子に乗って、今日買ってきた楽譜を広げる。一番最初は、あるプロピアニストが作曲した有名曲だ。
 音の並びを見ても、そこまでハードルが高そうではない。音階はハ長調。バイオリンには、左手の位置を変えるポジションという弾き方がある。この曲には、3rdポジションが出てくるが、基本の1stポジションでほとんど弾けた。
 何の曲かわからないほどにゆっくりと弾いていく。それでも、どの弦の何番の指が何の音だったか忘れていて、混乱する。楽器屋で弾けたパッヘルベルのカノンは、かつてさんざん弾いてきたがゆえに覚えていただけで、それ以外の演奏レベルはかなり落ちているようだ。
 白川は楽譜を睨み、考え直す。そんなことは想定内だ。まだこれに決めたわけではないが、練習としてこれを弾けるようにしよう。
 白川は、夕方近くまで練習した。

 集中が続いたから、一気に練習したが、夕方には疲労感に満ちていた。二の腕まわりが筋肉痛になる予感がする。今日は風呂でよく揉まないといけない。
 白川は腹が減ったので、近所のスーパーで何か買ってこようと、バイオリンを仕舞い、出掛ける準備をする。
 鍵を持って外に出たとき、ドアについた郵便ポストに紙切れが挟まっているのを見つけた。引っ張り出して見ると、こう書かれていた。
《楽器を弾いてましたよね? かなり響いてうるさいので、やめてください》
 匿名だったが、このアパートの住人だろう。
 白川は、申し訳なさと恥ずかしさでその場に座り込んだ。練習場所を、考えなければいけない。
 夕飯の惣菜をつまみながら、白川はスマートフォンで検索をしていた。ミュートを使わず、集合住宅で楽器を練習する方法だ。
 その中で見つけた現実的な方法は、カラオケボックスの利用だった。
 毎回カラオケ代が発生するのは痛いが、確かに思う存分、弾けるだろう。白川のアパートから五分くらいのところに、こじんまりとした、二十四時間営業のカラオケ店がある。
 そして、月曜日から五日間、つまり来週いっぱい、白川は盆休みだ。白川の実家は同じ県内の田舎にあり、日帰りで一日は顔を出そうと思っているが、それ以外は練習に打ち込める。
 白川は、明日以降の予定を決めた。カラオケで思いっきり弾こう。

 割れた音が漏れ聞こえてくる。
「フリーですね。では、こちらのセットを持って、204号室へどうぞ」
 店員に促され、使わないマイク類が入った籠を持ち、エレベーターに乗る。一人でカラオケに来ること自体、初めてなので緊張する。カラオケなんて何ヶ月……いや、何年ぶりだろうか。
 目的の部屋に着く。証明が落とされていて暗い。これでは楽譜が読めないので、慣れない手つきで証明のスイッチを探し、なんとか灯りをつけた。
 ここまででどっと気疲れした。金を払ってまで気疲れしなくてはいけないとは、と不貞腐れそうになる自分に喝を入れる。
 どうなるかわからないが、頑張ると決めた。白川は、小さく拳を握る。
 そのとき、スマホが鳴動する。SNSの新規投稿通知だ。白川は、ふうみぃの投稿を通知オンにしている。見れば、ふうみぃチャンネルの新規投稿のお知らせだった。昨日遠征すると行っていた件だろう。
 白川は、ワクワクしながら動画を再生する。
 見慣れない景色とカラフルなアップライトピアノ。通りすがりに、ふうみぃの風貌を物珍しそうに見ていた人たちの足を、ピアノの音が釘付けにする。どんどん増えていく聴衆たち。
 曲は長年親しまれてきたアニメ映画の音楽の高速アレンジ……が変化していった。合間合間に挟まれる聞き覚えのあるクラシック曲のフレーズ。マッシュアップだ。
 気がつけば、クラシックの曲に様変わりしていた。見事な変化。聴衆も大盛りあがりだった。
 白川は動画を停止し、カラオケのソファにどさりと身を預ける。
 こんな子に合わせて弾けるのだろうか。今ここで連絡して、やっぱり辞めるといったほうがいいのではないだろうか。

「楽しいのが一番ですよね」

 ふと、その笑顔が思い出された。
 白川は、まだ、ろくに弾いてもいない。楽器屋でただ開放弦を弾いただけなのに高鳴った胸。きっと弾けたら楽しいだろう。
 うまく弾けなくてもいい。まずはやってみないといけない。
 白川は、テーブルにバイオリンケースを置き、弓を取り出して松ヤニを塗り始めた。
 まずは調弦。昨夜ネットショップで注文したチューナーはまだ届かないので、スマホのアプリと自分の耳を頼りに、チューニングしていく。開放弦というのは、何故弾いていてこんなに楽しいのだろうか。
 つぎに、指と音階練習をする。そして、昨日家で練習した曲をもう一度さらっていく。
 細かいところは指がもつれる。
 なんとなく、しっくりこない。
 この曲は好きだ。知らない人がいないような有名曲。気のせいだろうと弾き進める。
 トリルが特にうまく弾けない。指に力が入っているのだ。気がつけば、肩にも力が入っていて、必要以上にバイオリンを挟みつけている。肩と背中が痛い。体全体に不自然な力が使われている。これは怪我をしかねない。
 白川は一度バイオリンを置く。どっと疲れが押し寄せてきた。
 やはり十年のブランクの壁は厚いと感じる。
 白川は、その場でストレッチを行うことにした。左手を右手側に伸ばし、右手を折り曲げて体の方に引き寄せる。ぐーっと力を入れて、脱力。
 そう、脱力だ。白川は演奏の感覚を思い出していく。体から余計な力を抜かなければいけない。しかし、意識すらばするほど力は入る。しばらくはこうして、休憩をはさみながらストレッチと脱力を蹴り返して、バイオリンの姿勢と力加減を思い出さなければならない。
 もう一つ、白川の体を固めている要素にも気づいている。それは恐怖心だ。
 弾けないのはつらい。すらすら弾けたらそれは楽しいだろうが、それは練習の先にある。わかっているのに、「間違えたらどうしよう」と考えてしまう。
 できなくて当たり前。十年のブランク。頭ではわかっているが、気ばかり急いてしまう。
 芙美子の隣に立ちたい。それならこんなものではだめだ。
 白川は、自分自身を責める。急き立てる。追い捲る。
 大きくため息をついて、白川はまたソファに身を預けた。
 うちなる自責の声に耳を貸してはいけない。それは、上達から遠ざける。
 息を大きく吸って、細くゆっくりと吐き出す。白川が自分を落ち着けるときにやる、お守りのような行動だ。
 白川は、明日、実家に帰ることにした。明後日にしようと思っていたが予定を変更する。実家には、エチュード、つまり練習曲の楽譜集がたくさんあるはずだ。
 いきなりセッション候補の曲を弾こうとしたことが間違いだった。急がば回れ、だ。
 スマートフォンを手に取り、母親に連絡を入れる。帰省が一日早くなったことに怒っていたので、平謝りした。
 ついでに、芙美子、あやめ、侑大のグループメッセージにコメントを入れる。
《新しい動画、観たよ!マッシュアップ最高だった》
 そして、白川は再度指練習の楽譜を開く。
 バイオリンを構えて、急がず一音一音、音階と響きを感じる。その音に、自然と体の力も抜けていった。

 ぱたぱたとスリッパの音が行き来する。
「全く、急に予定変えて!」
 白川を迎えたのは母からのクレームだった。
「ごめんって、母さん。ちょっと急ぎで調べたいことがあってさ」
「ほとんど帰ってこないくせに、調べるようなものがあるのかね」
 母の機嫌は直らない。父は何も言わずリビングで本を読んでいた。
 母はぷりぷりと怒りながらも麦茶を用意してくれる。芙美子の家で飲んだ麦茶も美味しかったが、実家の麦茶というのは何かが違う気がする。
「ありがとう。涼音すずねは?」
「コンビニに行くって言っていたから、そのうち帰ってくるんじゃない? 何か用事だった?」
「ああ、アイツ婚約したんだろ。顔合わせにいけなかったから、せめてお祝いくらい伝えないとと思って」
 白川涼音は、白川の妹だ。都市部の大手人材紹介会社に勤めている。今は実家暮らしだが、結婚を機に、ここからそう遠くはない新居へと移る予定だ。白川にロリィタというファッションスタイルの存在を教えた張本人でもある。
「それなら顔合わせに来ればよかったのに」
「向こうの兄弟が来ないっていうんだから、俺だけ行くのも変だろう」
 そう言いながら、ぐるりとリビングを見渡す。懐かしいリビング。本棚には大量の楽譜が仕舞われている。
 隣の部屋にはアップライトピアノと、バイオリンが数台置いてある。白川の母は家でバイオリンの個人教室を開いている。白川も幼い頃は母に習った。ここに来れば、初心者向けの楽譜はたくさんある。
「ただいま」
 玄関から声が聞こえた。涼音が帰ってきた。
「あ、お兄ちゃん。おひさ」
「おー、婚約おめでとう」
 涼音は照れくさそうに身をよじる。
「やめてよ。まさか私が結婚なんて、自分が一番信じられないんだから」
「俺もお前は結婚願望がないと思っていたよ」
「本当に、ご縁って感じだよ」
 涼音は、自分で麦茶を用意すると、ソファに座る白川の隣に陣取った。
「お兄ちゃんは最近どうよ」
「相変わらずうだつのあがらない会社員生活だよ」
 Filmerを手伝っているとは言えなかった。後ろ暗いところはないが、言いにくい。
「そっちじゃなくて、良い人いないの」
「本当、涼音が片付いてくれたんだから、アンタもいい加減片付いてほしいわ」
「片付くって何よ、失礼ね」
 母と涼音がふざけ半分に言い争いを始めた。
 白川の脳裏に、さらりとしたストレートロングが揺れた。しかし、水島の話は柴田が酒に酔って言っていただけだ。そのあと会ったときも、全然そんな様子は感じられなかった。それ以前に、自分にはもったいなさすぎる女性だと、白川は思っている。
 次に金髪と黒髪、両方の女性も浮かんでくる。ふうみぃと伊東芙美子。真逆のような容姿の同一人物。だが、こちらも違う。ふうみぃは〝推し〟だ。恋愛対象ではない。
 そのとき、白川は、何故ふうみぃだけではなく、普段の芙美子の姿が思い浮かんだのか、わからなかった。
 考え込んでしまった白川は、母と涼音がニタニタと笑いながら見ていることにやっと気づいた。
「何、そんなに考えちゃって。お兄ちゃん、彼女できたの!?」
「い、いや! いないよ。全然別のことを考えていた」
 白川は誤魔化そうと奮闘する。母が容赦なく追撃する。
「そんなこといって、気になる子くらいならいるんじゃないの?」
「いない、いないって……あ、そうだ、母さん!」
 白川は、話題から逃れるために、本題を切り出した。
「今度、えーと、社会人サークル? みたいなものでバイオリンを再開することにしたんだ。でも、ブランクは十年だし、指がうまく動かないから、慣らしに良さそうなエチュードをいくつか借れられない?」
 もちろん、すべて正直には語らない。
「へえー! アンタがまたバイオリンを! アンタもそこそこ上手かったのに辞めちゃったからねえ」
「私はまだ続けてるけどね」
 涼音は胸を張る。涼音は社会人のアマチュアオーケストラで活動している。セミプロと言える腕前だ。
「そりゃ、一軒家では弾けるだろうよ。ボロアパートじゃ厳しいって。大学みたいに練習できる環境もないし。今回のことがあるから、近所のカラオケボックスで練習するつもり」
 母は右手を頬に当てる。
「なんだか大変そうだけど、こっちの部屋にある楽譜は使い古したものだから好きに持っていっていいわよ。あと、アンタの部屋にも昔、アンタが使っていた楽譜が残っているはずだから、掘り起こしてみたら?」
「おお! サンキュー! 助かるよ」
 白川は麦茶を飲み干すと立ち上がって、二階への階段を昇った。

 白川の部屋は、白川が一人暮らしを始めたときと同じ状態だった。ときどき母が掃除してくれているのだろう、ホコリはそれほど溜まっていない。
 窓から日が差し込む。本棚には日に焼けた漫画本が並ぶ。懐かしい気持ちになって、勉強机を撫でた。
 白川は押し入れを開ける。上段に衣類、下段が雑貨類が入っていた。衣類はないが、雑貨類は少し残っている。
 下段から大きな箱を取り出す。そこには、白川が長い間付き合ってきた、バイオリンの楽譜たちが入っていた。
 子供向けの教本、中級の協奏曲、アニメ曲のメドレーなどもある。どれにも弓順や強弱、指番号などがびっしりと書かれている。
「俺、頑張ったんだなぁ……」
 独り言を言いながらと眺めていく。
 難易度ごとに持って帰る教本や楽譜を選ぶ。これなら、リビングに置いてある教本は不要そうだ。
 教本と教本の間から、ひらりと楽譜が落ちた。製本テープで複数の楽譜が貼られた楽譜。
 パッヘルベルのカノンだった。
 初めて弾いたのはいつか、わからない。これは大学のサークルのアンコール用として用意したものだったはずだ。
 白川はじっとカノンの楽譜を見る。そして、持って帰るほうの山に放り投げた。
「じゃあ、俺帰るわ」
 階段を降りながら言うと、母が目を見開く。
「は? アンタさっき来たばっかなのに!?」
「ここにいたって、やることないだろ。俺は涼音の祝いと、楽譜のために戻っただけだし」
「はー……なんて薄情な息子だろうね」
 その声を背に靴を履いていると、低い声が届いた。
「おい」
 父だ。
「ん?」
 白川は座りながら振り返る。
「腐らずやれよ。仕事も」
 父が昔からよく言う言葉だった。
 腐らずにやる。少し前の、仕事で不貞腐れきっていたときだったら逆ギレしているかもしれないな、と苦笑いしながら、答えた。
「ああ。ありがとう、父さん」
 白川は楽譜で重いリュックを背負いながら、実家を後にした。

 自宅に帰ると、ネットで注文したチューナーが届いていた。お盆なのにありがたいことだ。白川は、いくつかの楽譜と楽器を持って、またカラオケ店へと出掛けた。
 部屋に案内され、届いたばかりのチューナーで調弦する。音がしっくりきた。
 指運動のエチュードを弾き、初心者向けの教本をパラパラとめくって、めぼしい曲を探す。しかし、モチベーションが上がらない。このレベルから練習をしなければいけないのはわかっているのだが、どうにも面白みを感じない。
 白川は、大学のときのアンコール用の楽譜を広げ、試しにパッヘルベルのカノンを弾いてみる。
 一番盛り上がるところは、指が回らずグチャグチャで、曲として全くできていない。でも、それすらも面白かった。
 これは大学オケの休憩時間に、特に仲の良かった仲間と遊びで弾いていたものだ。様々なアレンジで、一気に高速にしたり、装飾音を付け足したり。とても楽しかった。
 バイオリン系のFilmerを見ていて、とても心惹かれたものがある。カノンロックという、その名前の通りカノンのロックアレンジだ。エレキバイオリンで弾いている場合も多く、ピアノよりもギターなどのバンド構成で演奏されていた。
 あれを弾いてみたかった。流行りの曲の楽譜も買ったが、白川にとってカノンは、楽しい思い出が詰まった曲で、好きにアレンジして、ふうみぃのピアノに合わせて弾いてみたい。

「楽しいのが一番ですよね」

 またあの笑顔を思い出す。
 そう、楽しいのが一番だ。まずはベーシックなカノンを弾けるようになること。そして、白川だけのアレンジを作り、弾くこと。ふうみぃなら、きっとどんなアレンジでも合わせられる。
 それを目標にすることにした。
 途端、ワクワクしてきた。気が乗らなかった、子供向けのエチュードも、その目標への道と思えば苦ではない。
 白川は、スマートフォンを取り出して、グループメッセージを打ち込む。
《カノンロックって知ってる? 自分でアレンジして弾いてみたい。全然、まだそのレベルで弾けないけど(笑)》
 返事はすぐに返ってきた。あやめだ。
《面白いと思います! カノンロックでピアノとのセッションはあまり見ませんし、芙美子のイメージにも合っていると思います!》
 続いて、芙美子。
《それを弾いていて、白川さんは楽しいですか?》
 見透かすようなメッセージに、どきりとする。しかし、白川は自信を持って答えた。
《最近流行りの曲や、盛り上がる曲の楽譜集も買ったんだけど、カノンが弾きたいと思ったんだ。大学生の頃、同期と遊びながら弾いた曲。俺にとって、楽しい音楽の象徴だから》
 少し間があってから、芙美子から返事が来た。
《良いと思います! 頑張ってください》
 侑大からは、相変わらず返信がこなかった。もしかしたら、お盆も仕事中なのかもしれない。どちらにしても、白川の選曲がそうとうおかしくない限り、彼は口を挟まない気がした。
 白川は大きく伸びをすると、バイオリンをかまえる。まずは子供レベルの曲。それだって、音の広がりを意識して、曲をしっかり解釈すれば、適当に弾くのとは雲泥の差となる。
 白川は弓を構え、息を吸った。

 お盆の期間、じっくりバイオリンと向き合った。
 妹の涼音は、音大を目指していた。結局受験に失敗してすっぱり諦め、一浪の後に文系の学部に進学したが、バイオリンへの想いが本気だったことは確かだ。
 対して白川は、真剣にやっていたわけではない。母がバイオリン講師で、いろいろとうるさいしやっておくか、という意識のまま、大学オケまでダラダラと二十年続けた。つまり、惰性だ。
 今の白川の練習の様を見たら、家族はさぞかし驚くだろう。ここまで長い間、真剣に練習をしたことはかつてないのではなかったのだろうか。
 曲を飛ばしながらも、教本の1巻からさらっていく。
 ピアノはほとんど弾いたことはないが、バイオリンはピアノとは違った魅力と難しさを持つ楽器だと思う。
 バイオリンの音程は、文字通り、〝幅〟で決まる。ピアノのように鍵盤で固定された音を出すわけではない。指と指の幅で音を探す。たとえば、ラの#とシの♭は、ピアノでは同一の黒鍵だ。しかし、バイオリンだと、音の高さを微妙に変えることができる。もちろん、ピアノも表現によって同一の鍵盤を違う雰囲気で弾くことはできるのだろうが、バイオリンの場合、物理的に指の位置で音を変えることができるから、より顕著に差が出せる。
 だから、音階の練習も重要だ。音階の解釈で曲の解釈も変わる。
 背筋を伸ばし、体を開いて音を鳴らす。この音は長調なのか、短調なのか。本来の音程より、もう少し高いほうが高揚感を表現できるだろうか。この低音は弓を根元から強く弾いて重厚感を出したほうがいいのか、やや弱く気だるげに弾いたほうが良いのか。ビブラートたっぷりに弾くより、あえてシンプルに弾いたほうが良いのか。
 イメージしている光景を音に乗せる。すると、音楽ができあがる。
 ふうみぃやゆいろー、ほかの音楽系のFilmerや、その道に進んだ人たちに見えている光景はどんなものなのだろう。このエチュードをそれらの人が弾いたらどんな形になるのだろう。自分のイメージを表現できているのか。
 そんなことを考えながら練習していると、あっという間に時間が過ぎた。
 ここまで考えてバイオリンを弾いたことも初めてかもしれない。思考が深まったのは、白川が歳をとって経験を積んだからかもしれないし、才能あふれるアーティストたちと遭遇し、触発されたからかもしれない。
 こうして、バイオリンや曲を根本から考え直しながら弾くと、惰性で弾いていた十年前より、練習が遥かに面白いと感じた。
 帰宅してからは、様々なカノンロックを聴き漁った。それぞれのアレンジにセンスがあった。
 白川の手元のカノンの楽譜は、大学オケ時代のものだ。それにも、いくつかアレンジが書き足されている。実際にオーケストラのアンコールで弾いたのは、スタンダードなパッヘルベルのカノンだったので、友人と遊びで弾いているうちに書き足したものだろう。
 他のカノンロックを参考にしようか迷ったが、白川は十年前に残したアレンジを活用することにした。
 当時封じ込めた〝楽しい〟を、今の白川の感性で感じたかった。
 白川は、楽譜にさらに細かいアレンジを書き加えていった。
 社会人になり、学生よりもずっと短くなった夏休みは、バイオリン漬けで過ぎていった。

 連休明けの月曜日は特に体がだるい。まだまだ厳しい残暑に、むわりとした湿気。不快指数が高い。体にまとわりつく夏に鬱陶しさを感じる。
 世の中にはお盆休みのない企業もたくさんあるので、そういった企業から大量に連絡が来ていることは、想像に難くない。メールの山を思うだけで、気分が落ち込んでいく。詰め込んだバイオリン練習のせいで腕が痛いのも、落ち込みに拍車をかける。
 バイオリンは、修行の甲斐あって、初級の登竜門的な曲である、ヴィヴァルディの協奏曲イ短調にたどりついた。この曲は弾いていて特に楽しい。ヴィヴァルディらしいメロディにポンポン飛ぶ音。適当に済ませたくない曲だと思ったので、この曲を重点的に練習していこうと考えている。3rdへのポジション移動もあるし、カノンにも役に立つだろう。音程も難しいので、まずはゆっくりと弾いて、安定してきたらスピードを出す。
 そんなことを考えながら、重い体を引きずって職場を目指した。

続き

第5話

─────

目次

第1話

第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

第7話

第8話

第9話

第10話


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