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鍵盤はレースを纏い 第9話

第9話

 芙美子が泣き止むまで、あやめと侑大は静かに見守っていた。芙美子が明日、白川と話すということで、今日はそのままお開きとなった。
 侑大が帰ろうとするとき、芙美子に声をかけた。
「芙美子、ちょっと付き合ってくれないか?」
「ん? いいけど、あやめ……」
「あー、行って来い」
 あやめはカップを洗いながら言う。侑大はあやめに、芙美子への想いが知られていることを察する。心拍が急激に上がっていった。
 侑大はランニングシューズを履き、小柄な芙美子がそのあとをスニーカーを履きながらついていった。
「いってきます」
 芙美子の声に続いて、バタンと扉が閉まる音がする。
 あやめは、洗ったカップを水切りかごに並べる。静かな部屋に、かちゃんとステンレスが鳴った。濡れた手を、そのまま胸元に寄せる。右手で左手を包むような格好で、握る。ぎゅっと、目を閉じた。

 外はもう真っ暗だった。街灯の光を頼りに、駅前に向かって歩いていく。
 芙美子と侑大がふたりだけで行動することは珍しい。何を喋っていいのかわからず、無言のまま、星の見えない夜空の下を、ただ歩き続けた。
 駅の光が見えてきた。バスターミナルの端に差し掛かったとき、芙美子は口を開いた。
「今日は……ごめんね、泣いちゃって。来てくれてありがとう。気をつけてね」
 タクシーのヘッドライトが芙美子を後ろから照らし、消えていく。周りを見れば、駅に向かう人、駅から家路を急ぐ人。皆、黙々と歩いている。
「芙美子」
「ん?」
 侑大は大きく息を吸った。
「付き合ってくれ」
 芙美子は、小さく首を傾げる。意味がわからない様子だ。
「好き……なんだ。俺と、付き合ってくれ」
 芙美子は両手で口を覆う。その意味をやっと理解した。
「なんで……侑大?」
「なんでも何もないよ。俺は……お前が好きなんだ。俺と……付き合ってください」
 侑大は勢いよく頭を下げた。
 そのまま、どれだけの時間が過ぎただろうか。侑大には永遠にも思えるほどの時間が過ぎたとき、芙美子はぽつりと言った。
「わ、わからないよ……」
 侑大は顔を上げる。
「わからない……って、どういうこと?」
「わ、私、侑大をそんなふうに考えたことなかった。侑大は大切な友達。……友達のままじゃ、ダメ……なの?」
 侑大はふ、と笑う。
「俺は、友達以上になりたい」
「だって……そんな、わからないよ……」
 芙美子は髪を両手で掴むように頭を抱える。
「悪い、困らせて。でも、考えておいてくれないか」
「……なんで……私なんか……わかんないよ、侑大……」
「……白川さんが好きなのか?」
 侑大は、諦めたかのように穏やかに微笑む。
「し、白川さん?」
「どっちでもいいや。芙美子が俺を見てくれるかが問題なんだから」
 侑大は、髪を掴む芙美子の両手に触れる。芙美子はびくりと体を震わせる。そっと両手を髪から離してやる。そして、乱れた髪を手櫛で整えてやった。
「今日、大変なことがあったのに、ごめんな。こんなこと言って。でも……もう言ってしまわないといけなくて……。返事は急がないから、考えてくれないか」
「……わかった」
 またタクシーのライトが芙美子の顔を白く照らす。その光の中でもわかるほどに、芙美子の顔は真っ赤だった。
「じゃ、おやすみ」
「……おやすみ」
 そう言うと、侑大は大股で駅の階段へと歩いていった。侑大の心臓は、痛いほどに鳴っていた。

 芙美子はふらふらとマンションにたどり着く。治安が良い土地とはいえ、危なっかしい状態だった。
「た、ただいま……」
 消え入るような声で言う。芙美子は、あやめになんて言えばいいのかわからない。そもそもこんなことをあやめに相談するべきなのだろうか。ふうみぃを作っているのはあやめと侑大と、本人である芙美子なのだから、そういう意味では言っておいたほうがいいのかもしれないが、べらべらと喋ると、侑大の気持ちを蔑ろにしてしまう気もする。
 ゆっくりとリビングに入ると、あやめがちらりと視線を遣った。
「侑大に告白された?」
 芙美子は飛び上がった。
「な! な! な! なんで!」
「いや、わかりやすすぎでしょ……」
 あやめは呆れ顔で答える。
 あやめに知られているのであれば、相談してもいいのかもしれない。芙美子は懸案事項がひとつ減ってほっとする。
「……うん。驚いた。侑大が私のことをそんなふうに思ってるなんて」
「気づいてないの、芙美子だけよ。侑大が芙美子のこと好きなの、私も気づいてたし、白川さんも気づいてた」
「白川さんも!?」
 芙美子は目玉がこぼれるほどに見開き、両手で頬を包む。
「だから、わかりやすいんだってば」
 芙美子は手近なクッションを掴み、顔を埋める。
「……私、どうしよう」
「芙美子はどうしたいの?」
 あやめは芙美子のすぐ隣に座る。
「わからない」
「……侑大のこと、好き……なの?」
 部屋に無音が降りた。しばらくして、ぐず、と鼻を鳴らす音がする。
「ほ、本当に、わからないの……。侑大をそういうふうに見たことなかったし……それに……」
 それに。芙美子はそこまで言って、ひとりの男性の顔が思い浮かぶ。白川だ。ここで行ったテストのとき、リハーサルのとき。「いい感じだったことない!?」子供のように無邪気に笑う。芙美子が仕事で失敗をしたときは、何も言わずにただ話を聞いてくれた。それが、どれほど安心したことか。

 あの、優しい笑顔。

 侑大のことを考えているはずなのに、芙美子の頭に浮かぶのは白川のことばかり。今、あの人は顔バレ事件でどれだけ苦しんでいるだろうか。あの笑顔はきっと曇ってしまっている。そう思うと、抱きしめていたクッションを、さらに強く抱きしめる。
 その様子を見たあやめは、静かな、そして冷たい声で言った。
「白川さんのことが、好きなの?」
 あやめの平坦な言葉は、芙美子の耳にすっと入ってきた。芙美子は迷った末に、俯いて答えた。
「……わから……ない」
 あやめは立ち上がった。芙美子を見下ろし、怒鳴りつけた。
「わからないわからないって、そればっかじゃん! 芙美子は人の想いと向き合っていない! そんなんだと、見た目通りの甘ったれだと思われるよ!? 侑大は勇気を出して芙美子に想いを告げた! それを『わからない』なんて言葉で逃げないで!」
 芙美子は、何故あやめがそんなにも怒っているのかわからず戸惑う。しかし、芙美子は抱えていたクッションを投げて立ち上がり、涙でびしょびしょの顔であやめを睨む。あやめのほうが背が高いため、芙美子が見上げる形になるが、人前で即興のアレンジと演奏を行ってきた芙美子の胆力は本物だ。あやめはその目に気圧される。
「なんでそんなことをあやめに叱られないといけないのかわからない! わからないことをわからないと言って何が悪いの! 考えないなんて言っていない! まだ考えたことがないから、今わからないってだけよ! だいたい、なんで誰も彼も恋愛をしていて当然だと思っているの? 好きな人がいることは当たり前なの? 私はピアノが好き。恋愛は二の次三の次だった。あやめも知っているでしょう?」
 あやめは芙美子の剣幕に何も言うことができない。
「私にとって、恋愛というものは優先順位が低いの! それの何が悪いというの? それでも侑大から気持ちを打ち明けられたから。白川さんから優しくしてもらえたから! きちんと考えるって言ってるのに、あやめは何が不満なの?」
 あやめはゴクリと唾を飲む。それは芙美子が侑大から愛されているからだ。あやめが欲しくてたまらない侑大は、芙美子を求めている。その関係性を身近で見せられて、あやめも我慢の限界だった。
 しかし、それだけは言ってはいけないことだった。
 芙美子の決断がにぶる。
 芙美子は、あやめと侑大がうまくいくようにしようとするだろう。だが、あやめにとって、そんな屈辱的なことはない。恋敵に恋愛対象を譲られ、斡旋されるなど。あやめのプライドが許さなかった。
 今、あやめにできるのは押し黙り、こう言うことだけだった。
「ごめん、言い過ぎた」
「うん……」
 二人の目に涙が浮かんでいた。同時にすとんと、床に座り込む。
 喧嘩をしたふたりは、エネルギー切れだった。先に動いたのは芙美子だった。
「あやめ、お茶入れる。今日は、紅茶でいい?」
「……ありがと」

 紅茶をカップの半分ほど飲んだ芙美子がぽつりと言った。
「……ちょっと落ち着いた」
「私も……」
 芙美子もあやめも目が真っ赤だ。実家が隣同士のふたりは、何かと喧嘩して育った。互いのことが大切で、互いを尊重しているからこそ、衝突を恐れない。絶対の信頼感の上で、芙美子とあやめは、些細なことから重要なことまで、喧嘩をした。
 子供の頃におもちゃを巡って。芙美子のピアノの才能にあやめが嫉妬して。芙美子があやめに運動神経のなさをからかわれて。一緒に住んでから、シャンプーの詰替をどちらがやるかについて。
 二人は衝突を繰り返し、そのたびに仲直りをしてきた。しかし、最近では互いの距離感や塩梅がわかってきたので、大きな爆発はなかった。
 だが、今日ばかりは引けなかった。芙美子は自分の心に答えを出すため、あやめは侑大のため。芙美子は逃げることを許されなかったし、あやめは目をそらすことを許されなかった。
 再び部屋を沈黙が支配する。隣か、上の部屋で、どんどんと何か物音が聞こえる。ときおり、紅茶を啜る音もする。
「……私、ピアノ弾く」
 蚊の鳴くような声だったが、はっきりとした意志を持った声が聞こえた。
 芙美子はぐっと紅茶を飲み干すと、ピアノの方に歩いていった。あやめは何も言わない。
 芙美子はピアノの蓋を開け、掛け布を丁寧に折りたたむ。ピアノ椅子に座ると、両手を空に彷徨わせる。
 何秒経っただろうか。ぽん、と優しい音が響いた。
 ショパン作曲、前奏曲第十五番変ニ長調・雨だれ。
 優しい雨が地を打つような音が、同じリズムで刻まれていく。そのリズムに乗る優しい音楽。優しい雨。何のアレンジもない、スタンダードな演奏。
 芙美子は、考え事をするとき、この曲を弾くことを好んだ。
 あやめは目を閉じる。芙美子は深い思索に入っていった。
 芙美子は雨が好きだ。いろんな音階のリズムがあちこちから聞こえる。傘に当たり響く水音、車が水の上を滑り走るメロディ。降り始めも、本降りも、雨上がりも、全てに音楽がある。
 だから、この曲、ショパンの雨だれも好きだった。オーケストラでは、ヴィヴァルディの組曲四季も好きだ。あの曲にも、天気がある。
 オーケストラ、バイオリン、カノン。カノンロック。連想されていく。芙美子は、楽しかった。ふうみぃは、ストリートピアノでクラシックを弾くことは少ないから、ロックアレンジとはいえ、カノンを弾くのは新鮮だった。
 バイオリンとのセッションももちろん楽しかった。
 白川は、よくあんな無茶振りを受けてくれたと思う。あやめや侑大も、芙美子の我儘を許してくれた。
 侑大に発想が飛ぶ。芙美子は己に問う。私は、侑大のことをどう思っているのだろう。恋愛だとか、そういうふうに思ったことは、本当になかった。
 芙美子は、男女の間にも友情は成立すると思っているタイプだ。そうでないと、寂しいからだ。ただし、実際には男性の友人はほとんどいない。
 では、白川は?
 友達とは違う。職場の先輩だが、業種も違うし、最近まで名前すら知らなかった。白川は、〝演奏のパートナー〟という位置づけが一番しっくりくる。しかし、仕事でも芙美子を励ましてくれた。芙美子の中で白川の立ち位置が定まらない。
 白川がバイオリン演奏を引き受けてくれたときは、嬉しかった。必死に練習し、仕上げてきた曲を聴いたときは感動した。研修でミスをして自己嫌悪に陥っていたときは、話を聞いてくれて、胸の奥が温かくなった。
 白川は優しい人だ。しかし、その優しい人は、今、芙美子の動画のせいで苦しんでいる。
 ピアノをミスタッチした。不協和音が鳴る。芙美子は、弾き続ける。
 これが、恋愛感情なのか、わからない。そもそも、全ての感情に名前がついていなければいけないのかも、わからない。そんな線引きができるほど、単純なものとは思えない。ここから先は〝恋愛〟のようなイメージだろうか。
 ……それはいやだな。なんとなく。
 芙美子は、白川のことも、侑大のことも好きだ。その〝好き〟に、無理矢理、名前をつけることを求められていることに、違和感を抱く。今、少なくとも、侑大にはそれを求められている。
 これまで、芙美子も男の子を好きになったことがないわけではない。しかし、恋愛小説で読むような、燃え上がるような感情を体験したことはない。いつも、芙美子の恋は淡い。たとえ恋をしていても、自覚するのが遅い。それが原因で失恋したこともある。失恋すら、淡かった。
 ショパンの雨だれは、芙美子にとっては黒に近い藍色の曲だ。いつかの失恋に似た色。
 今ここで芙美子が感情に名前をつけて、侑大か白川かを決めなければ、後悔することになるのだろうか。
 侑大は、良い人だと思う。〝恋愛〟かどうかわからないが、〝好き〟に分類されるなら、受け入れてしまったほうが、いいのかもしれない。
 そんなふうに流されて心を決めることは罪だろうか。
 3巡目に入っていたショパンの雨だれが、途中で止まった。
 あやめは顔を上げる。
「考えはまとまった?」
 静かに訊いた。
「恋愛かわからない。けど、侑大のことは好きだから、受けようかと思う」
 あやめは芙美子をギッと睨みつけた。
「恋じゃないのに、好きだと答えて付き合うの?」
「これが恋かわからない。でも、人としては好きだから、そう答えるの」
「ふっざけないでよ!」
 あやめは芙美子に目掛けて思い切りクッションを投げた。クッションは、芙美子の顔面にクリーンヒットする。
「ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな! そんな想いなら……! 私は……」
 あやめは涙を流しながら大声を上げる。
 芙美子はクッションをどけて、その様子を呆然と見る。
「あやめ……侑大のことが、好きなの……?」
 震える声で芙美子が問うた。
「……ううー……」
 あやめは流れる涙をそのままに、ひたすら芙美子を睨めつける。
「そんな……そんな半端な想いのヤツに、侑大はやらない。侑大と芙美子の問題だから! 私は、外野だから! 黙っていたけど! 侑大が傷つけられるかもしれないならもう黙らない! 芙美子、最低だよ! 人の……侑大の心を……恋をなんだと思っているの!?」
「私……そんなつもりじゃ……」
「そんなつもりじゃなくても、その程度の想いで侑大と付き合うなら、私は許さない!」
「あやめの許可なんかいらないじゃない! これは私と侑大の問題だよ!」
 芙美子も立ち上がり、応戦する。途端に、あやめの顔が悲しげに崩れた。芙美子の両腕を優しく掴む。
「……なんで、なんで芙美子なのよ……。私はこんなに好きなのに……。わかってるわよ。芙美子、可愛いもの。私みたいな可愛気のない女じゃ……ああもう、言うつもりなんか、なかったのに……」
「ごめん、ごめん、あやめ。もっとちゃんと考える。考えるから……。あやめの気持ちも侑大の気持ちも、私は軽く考えていた。二人を傷つけた。ごめんなさい。ごめん……」
 芙美子とあやめは、それから延々と泣いた。泣き疲れて二人とも居間で眠りこけてしまった頃には、時計の針は午前を越えていた。

続き

第10話

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目次

第1話

第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

第7話

第8話

第9話

第10話


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