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鍵盤はレースを纏い 第5話

第5話

「白川さん、おはようございます」
 小山に声をかけられる。
「おはよう……あれ? 日焼けした?」
 心なしか、こんがりした小山を見て白川が訊く。
「あ、はい! お盆休み旅行に行っていて。あとでお土産配りますね」
「サンキュー」
「白川さんはどこかに行かれましたか?」
 しまった、と思った。こういう話題になるだろうことを予測できていなかった。バイオリンを弾いてました、なんて言えるわけがない。誤魔化すしかなかった。
「実家に顔を出したかな。妹が結婚することになったから、顔を見にね。あとは引きこもりライフを満喫していたよ」
 笑顔をつくる。営業の必須スキル、営業スマイルだ。
「へー! 妹さん、おめでとうございます! 実家でまったりもいいですね」
 どうやら小山は、白川がずっと帰省していたと勘違いしたようだ。
「さて、今日はメール地獄だぞ。わからないことがあったら聞いてくれよ」
「はい! よろしくお願いします!」
 小山は元気よく答えた。
 ブルドーザーのようにメールの山を処理していった白川は、最後の一通を送るときには、すっかり消耗していた。
「白川さん、すごかったっす……。だいたいのメールにCC入っていたから見えていましたが、すごい勢いでした」
 小山が白川に畏敬の念を抱いているのがわかった。
 白川は、伸びをすると、ビルの下層階にあるコンビニに行くことにいした。缶コーヒーがほしい。甘めのものだ。白川のオフィスの中にも自動販売機があるが、白川はその銘柄があまり好きではなかった。コーヒーを買いに行くときは、コンビニに出向く。
 財布をポケットに突っ込んで、白川はノロノロと立ち上がった。

 コンビニで缶コーヒーを買う。コンビニからはビルの中庭に出られる。少しくらい休憩させてほしいと思い、中庭の木陰に逃げ込む。カシッと音を立てて、缶コーヒーを開けた。
 木漏れ日の中のベンチに、キラキラと光る黒髪の女性を見かけた。華奢で小柄。上品なオフィスカジュアル。
 違うかな、と思いつつ、白川はその女性の顔が見える位置に回り込んだ。
「やっぱり、伊東さんだ」
「え、白川さん!」
 白川は、意地悪く問う。
「サボり?」
 芙美子は、気の毒なくらい狼狽した。
「ちちち違います! 水島課長のお使いで、ちょっと休憩していて」
「水島の?」
「私、ここのコンビニのいちごミルクがすごく好きなんですけど、一度水島課長にもオススメしたら、とても気に入ってくださって。せっかく買いに行くなら、自分の分も買ってきて、って」
 そう言って白川に二つの紙パックを見せる。白川は呆れた。
「水島……部下をパシリに使うとは……」
「いえ! 私がオススメした商品を気に入ってくださっているのが嬉しいので、全然問題ないです。それに、集中しすぎて疲れてしまう私を気遣ってのことだと思います」
「やっぱり集中力、すごいんだ。お盆中も練習した?」
「はい。動画も上げましたよ」
「え? 本当? 気づかなかなった」
「え? そうなんですか? いつもどおりでしたけど……」
「いや、俺がスマホ放置して、通知も適当に消してたからだね……。バイオリン漬けでさ。あ、隣座っていい?」
 芙美子が横にずれ、ベンチに広がっていたスカートをまとめる。
「すみません、気づかなくて」
「いやいや。ここ、結構涼しくていいね。時間帯によりそうだけど」
 芙美子はにこりと笑う。
「どの時間でも影ができやすいんですよ。帰宅前にここでぼーっとしたりすることもあります。穴場なんです」
「お、それはいいことを聞いたなぁ」
 芙美子が話題を戻す。
「お盆、バイオリン漬けだったんですか?」
「うん、あんなにバイオリンとしっかり向き合って練習したの、バイオリンをやっていた二十年でもなかったと思う」
 下から黒い瞳にじっと見つめられる。瞳には木漏れ日の形に、光が映り込んでいた。白川は、その視線に鼓動を速める。この目の前では、どんなことでも白状してしまいそうだ。
「楽しかったですか?」
 まただ。「楽しいか」。芙美子はそこに帰結する。
 白川は微笑んで答えた。
「楽しかった。バイオリンをあんなに楽しいと思えたことは、これまでなかったと思う。まだまだ、技術は追いついていないけどね」
 芙美子は、その答えを聞いて心底嬉しそうに笑った。その表情は光の粒が踊っているかのようで、思わず白川は見惚れる。木漏れ日が柔らかく、彼女を輝かせていた。
「楽しいのが一番です」
 白川は、返事ができない。繊細なレースを思わせる優しく可愛らしい笑顔に、絡め取られてしまった。芙美子は構わず続ける。
「私、再生回数とか、チャンネル登録者数とか、正直あまり興味ないんです。あやめや侑大が頑張ってくれているから、私も見ているだけで。あのふたりは、ゆいろーに比べて伸び悩む数字に対して真剣に考えてくれているので、申し訳ないんですけど……。バイオリン加入のテコ入れも、私はほかの楽器とセッションできたら楽しいな、ってそれだけなんです」
 芙美子は、ふうみぃは、純粋に音楽を愛し、楽しんでいるのだ。自分の好きに素直なのだ。
「……いいね、それ」
 やっと出た台詞があまりに陳腐で、白川は自分のことながら情けなくなる。
「ありがとうございます! だから、白川さんには強制したくなくて。楽しんで弾いてくださっているなら、良かったです」
 白川も笑顔を返す。心が温かい。
「うん、頑張りたいんだ。ふうみぃや、ほかの奏者が見ている景色を俺も見たい。表現したい。」
 芙美子は、照れくさそうに自分の髪を手櫛ですく。
 この真っ直ぐな光に、白川は惹かれていた。この感情に、どんな名前をつければいいのかは、まだわからない。しかし、彼女が白川にとって特別な存在になっているのは、確かだった。
「いけない! すっかり長居してしまいました」
「あ、本当だね、ごめん。水島に何か言われたら俺に捕まってたって言い訳していいから。事実だし」
 芙美子はぴょこんと立ち上がる。
「あはは! ありがとうございます。では、また!」
 そう言って、芙美子は駆けていった。
 彼女の形をした光だけが、白川の横に残っているような気がした。

 芙美子と話したことで少し気持ちが軽くなった。白川は、他の仕事も順調にこなしていく。
 今日は忘れずに人材育成報告書も作成して、送付した。水島に怒られずに済む。
 やっと帰宅時間となり、荷物をまとめ、会社を出る。定時近くで切り上げた。
 しかし、電車に乗りながら、白川は悩んでいた。平日も練習するべきか。
 バイオリンを数日弾かないだけでも、ブランクになる。ほんの少しでもカラオケボックスで練習したほうがいいのはわかっている。ただ、それだけの余裕が持てるだろうか。時間的にも、精神的に、体力的にも。
 白川は首を振る。考えても仕方がない。まずはやってみないとわからない。残業の有無や疲労の度合いによって臨機応変に対応を考えることにした。
 白川はつり革を握り直した。

 悩んだ結果、白川は、今日カラオケボックスにいくのはやめた。連休明けの初日は、いうなれば病み上がりのようなもの、という言い訳だ。
 弾けば楽しいのはわかっているのに、なかなか腰が重い。自己嫌悪のため息とともに発泡酒を開ける。
 代わりに、カノンの楽譜アレンジに励んだ。原本とは別に、コンビニでとったコピーを広げる。うまくいかなくてもまずはアレンジを自由に考えてみようと思った。
 ピアノ部分は芙美子に全面的に任せる。白川は、好きに作ることにした。
 メトロノームのアプリをダウンロードし、テンポ感を決めていく。やはり疾走感を出すために、速めが良い。
 テンポを決めたら、次は装飾だ。すべてをゴテゴテにしてしまうと、くどい。緩急が大切だ。大学時代に書いたアレンジをベースに、より細かく、かつダイナミックに。
 気がついたら、一時間以上経っていた。一息つこうと、水道水に氷を入れて、飲み込む。頭がしゃっきりとする。
 そういえば、お盆の間にもふうみぃが動画を上げていたと言っていた。白川はスマートフォンで検索し、すぐに見つける。
 見たことのないストリートピアノだった。遠出したのだろうか。弾いていたのは、ブームが再燃している昭和の歌手のメドレーアレンジ。
 どのような曲でも細かい高音が際立つ。昔、母に言われたが、白川はどちらかというと低音のほうがいい音が出せる。白川の演奏とどう合わせられるか。練習を重ねたことで、以前よりもリアルに想像できるようになっていた。
 動画が終わる。白川の体と心がウズウズする。左手で弦を押さえたくて。右手の弓で音を奏でたくて。今日、練習に行けばよかったと後悔する。
 明日こそ行こう。そう決めて、明日の残業も少ないことを祈りながら、白川は眠りについた。

 それから二週間ほどは、ヴィヴァルディ協奏曲イ短調の練習に励んだ。おかげで、3rdポジションの音程も安定してきたし、ビブラートも自然になってきた。
 白川は、次の段階に進む。ベーシックなカノンを弾いてみる。ここで白川は失敗したと気づいた。カノンはニ長調だ。ヴィヴァルディの協奏曲とは音階が違う。散々練習してきたがゆえに、癖が抜けにくかった。
 音階練習の楽譜を開いて、ニ長調をインストールする。十分に耳と体が音階に慣れたら、音程に気をつけながら、カノンを弾き始める。
 最初のゆったりとしたメロディには僅かなビブラートを、高音には広がりを。
 二週間前はろくに指が回らなくて、グチャグチャだったのに、原曲テンポでも、かなり良くなった。しかし、カノンの練習をしていたわけではないので、弾けるようになったわけではない。
 一からやり直す気分で、カノンを練習していく。
 ヴィヴァルディも楽しい曲だったが、カノンは昔の記憶が鮮明で、一層楽しい。ふざけながら、いろいろな楽器と合わせてジャズのように自由にアレンジしていた大学時代が思い出される。
 白川は、社会人になってから、仕事以外で誰かと一緒に何かを創り上げる、表現するということはなかった。まだ、ふうみぃと合わせることもできていないが、気分が学生時代に戻ったように感じる。
 白川は、楽しみながら、無理せずにカノンの練習を進めていった。
 そしてさらに二週間後、約束まで残り三週間となったとき、白川は、ついにアレンジバージョンのカノンに着手する。
 まずはテンポだ。もともとの楽譜の一・五倍ほどの速度。それに細かい装飾音がつく。
 難易度は格段に上がった。まずはテンポだけで練習しても、左手の指が弓に追いつかなかったり、逆に弓のタイミングがズレたりする。焦る心を抑えて、着実に練習を重ねていく。それしか道はない。
 高速のテンポに慣れたら、装飾音だ。ふうみぃの緻密なアレンジに合わせて、こちらもかなり凝った形になった。
 速度に負けて音の粒を潰さないように。どうしても弾けないところや、弾いていて、くどさを感じる場所は、アレンジを諦める。
 つくづく、その場の即興アレンジができるふうみぃやゆいろーの凄さを実感する。
 ときどき一人で弱音を吐きながらも、白川は暗譜しながらアレンジを弾き込んでいく。
 納得のいく通しができたのは、曲を聞かせる約束をしていた土曜日の二日前、木曜日の夜だった。
 まだ不安定だが、これで弾くしかないと思った。翌日の金曜日は残業が確定で、弾く時間は取れない。
 白川は緊張に押し潰されそうになりながら、楽器を片付けた。

 白川は、バイオリンを背負って、芙美子とあやめがシェアハウスするマンションの前に来ていた。
 ここは、ファミリー向けであることもあって、規定の時間帯なら楽器を弾いても良いそうだ。確かに、あのリビングにはアップライトピアノがあった。毎日カラオケボックス代を払っている白川にとっては羨ましい環境だ。
 深呼吸する。早鐘を打つ心臓を落ち着けるよう、胸を撫でる。
 今日は、アレンジしたカノンロックを三人の前で弾く日だった。侑大も、今日は仕事が休みらしい。
 まだ、誰にも聞かせたことがない、十年ぶりの演奏。三人はどう評価するだろうか。芙美子は優しいから、お世辞でもうまいといってくれるかもしれない。しかし、あやめや侑大は容赦しないだろう。
 白川はオートロックのインターホンに指を伸ばした。
「白川さん、いらっしゃい! お久しぶりですね」
 あやめが出迎えてくれる。
「そうだね。今日はよろしくね」
 部屋の廊下を抜けると、リビングにはラフなスタイルの芙美子と、相変わらず険しい顔をした侑大がいた。芙美子は、ピアノの椅子にちょこんと腰掛けている。侑大はPC前のチェアに座っていた。
「うわあ! 楽器ですね!」
「まだケースに入ったままだよ」
 芙美子の目が輝く。白川はそのリアクションに苦笑する。
「まあまあ、まずはお茶でも。もう暑さも落ち着いてきたけど、冷たいもので良いですか?」
「ありがとう、辻さん。何でもいいよ」
 白川は、背中の楽器を下ろす。ほぼ同時にあやめがアイスコーヒーを出してくれた。
「ありがとう」
「いえいえ、どうぞ」
 白川は緊張を悟られないように、アイスコーヒーを何でもないかの様に飲む。苦味と、少しの酸味に、覚醒した気がした。
「曲は、カノンロックにしたんすか」
 侑大が白川に訊く。
「うん」
「アレンジは? 誰かの模倣ですか?」
「いや、俺のオリジナルなんだ。大学時代にカノンにアレンジを加えて遊んでいたのをベースに、追加した感じ」
「へえ、そうなんすね」
 侑大の目が興味深そうに笑った。馬鹿にしているわけではなく、純粋に楽しそうだ。
「オリジナルとは、期待できそうですね!」
 あやめも乗ってくる。
「やめてよ。これでも緊張してるんだからさ」
 白川は苦笑いをしっぱなしだ。芙美子はニコニコして、その様子を見ている。
 アイスコーヒーを飲み終えると、白川はケースを開けた。
「じゃあ、早速だけど準備して弾かせてもらうね。まずはソロで弾けばいいよね」
「はい、お願いします」
 芙美子が答えた。
 白川は、弓を出して張り、松ヤニを塗っていく。掛け布を取り、肩当てをつける。
 そしてチューナーを取り出そうとして、気づく。
「あ、そうか。ピアノがあるんだ。伊東さん、ラの音くれる?」
 芙美子はピアノを開けて掛け布を取ると、ラの鍵盤は叩く。
 白川は立ち上がり、その音に合わせてAを調弦する。十月に入り、湿度が安定しているおかげか、あまり狂いはない。
「ありがとう」
 それから、D、G、Eの弦も調整する。
 三人はその様子を興味深そうに見つめている。見られていると思うと少しやりにくいが、バイオリンの調弦は見慣れなくて面白いのだろう。
「簡単に指ならしさせてね」
 白川はそう言うと、ニ長調の音階と分散和音を弾いていく。その三週間で毎日のように弾いてきた。
 誰からともなく、おお……という声が漏れるのが聞こえる。部屋の中での響きはカラオケボックスとは異なり、白川にとっても聞き慣れない。混乱して音程を間違えないようにしないといけない。
「では、よろしくお願いします」
 白川は一礼する。そして、楽器を構えた。
 ひと呼吸。
 そして、弾き始めた。
 最初はアレンジもなく、原曲通りに弾いていく。音の伸びとビブラートを意識する。
 一つのフレーズが終わったあと、ギアチェンジする。テンポを一気に上げ、リズミカルに装飾を入れていく。装飾音がメロディラインに侵食しないよう、音の強弱にも気を払う。
 白川自身も演奏に乗ってきた。音が走りそうになるのを必死に頭では止めながらも、感情が先へ先へと進んでいく。
 最高音のメロディに細かな装飾。大丈夫、弾ける! 楽しめ!
 白川はカノンロックを弾き上げた。
 全くミスがなかったといえば嘘になるが、これが白川の今の百パーセントだと胸を張って言える。
「ありがとうございました」
 一礼した。
 三人が拍手してくれる。芙美子とあやめは目をキラキラさせながら勢いよく両手を叩く。侑大は、少しだるそうなゆっくりとした拍手だったが、口許は微笑んでいた。
「ど、どうだった?」
 白川は、恐る恐る訊く。真っ先に答えたのはあやめだった。
「想像以上でした! 十年のブランクがあると聞いたときはダメかと思ったのですが、とても良かったです」
 続いて侑大。
「……良いと思いました。二ヶ月前は、舐めたこと言ってすみませんでした」
「そんな、気にしてないよ」
 不器用だが、実直な侑大に、返答する。
 そして、全員の視線が芙美子に集まった。
「とっても楽しそうでした!」
 白川は拍子抜けした。技術や表現についての講評が得られると思っていた。
「う、うん、楽しかった。それで、技術とかは……」
「楽しんで弾けるなら私にはそれで十分です。白川さん、もう一度弾いてもらえますか!? 私もあわせて弾きたくなっちゃった!」
 白川は戸惑いながらも、即答で了承する。ふうみぃとのセッションに、喜びがこみ上げる。
 他の二人も止めない。
 白川は、また楽器を構える。
 ひと呼吸。そして、最初のフレーズ。白川のソロから始まり、途中からふうみぃの柔らかな音が乗っていく。
 テンポチェンジをすると、ふうみぃの演奏もガラリと変わる。白川の装飾音がない部分を狙いすまし、細かいピアノが入ってくる。
 ピアノとバイオリンの音の質の違い故か、決してくどい感じはしない。
 最も盛り上がる部分は、ふうみぃは白川に主導権を譲った。白川は遠慮なく、伴奏に乗っかることにした。ふうみぃが伴奏に徹してくれているなんて、ありがたいことだ。
 音が、編み上がる。
 即興なのに、レースのように繊細に、緻密に、計算されつくされたかのように、ピアノとバイオリンが音を纏っていく。
 ピアノとのセッションはさらにワクワクするものだった。即興だから、次の拍でどんな音が飛び出してくるのかわからない。
 白川は全力で楽しんだ。

 弾き終わったとき、軽く息が上がっていた。思わず息を止めてしまっていたようだ。白川の口からころりと言葉がこぼれ落ちる。
「すごい……」
 芙美子は振り向くと、満面の笑みでサムズ・アップした。
 その笑顔は、月並みな表現だけれど、輝いて見えた。
 白川はその瞬間、自覚した。

 ああ、俺はこの子のことが好きだ。

 心から尊敬している。心から応援している。そして、心から感謝している。白川を音楽の世界へ連れ出してくれた、その華奢な手に。
 ただただ、不満に飲まれていた毎日に光をくれた。導いてくれた。
 十年のブランクがある白川のことを、仲間の反対にあいながらも信じ切ってくれた。
 思わず、目が潤みそうになる。胸の中に熱が広がっていく。もう、隠せない。誤魔化せない。
 二ヶ月前、侑大に偉そうなことを言ってしまったが、白川は芙美子の、ふうみぃのたくさんの魅力に当てられてしまった。認めよう、この感情の名前は、きっと恋だ。
 白川は自然と微笑んだ。
「ありがとう、伊東さん」
 あやめと侑大から、拍手を贈られる。
「すごい! 良かったです!」
「良かったけど、今のだと芙美子が脇役すぎだな。アレンジってし直せますか?」
 白川はその言葉に目を丸くする、
「え? できるし、そうしたいと思っていたけど、あの。俺、合格?」
 あやめがバンザイをしながら元気に答えた。
「もちろん!」
 白川は、がばりと頭を下げた。
「ありがとう!」
 あの世界に入っていけるのだ。どこまでやれるかわからない。ふうみぃもゆいろーも、ほかの音楽系のFilmerたちも、果てしなく遠い。だが、白川もそのスタート地点に立てた。
 何よりも、芙美子と、ふうみぃと弾ける。それが嬉しかった。
 白川が感動していると、あやめが言う。
「名前どうしよう。そういえば、白川さん、下の名前って何ていうんですか? 芙美子知ってる?」
「あれ、知らない……。社員証見てたのに」
 名前すら教えていなかった自分の間抜けさに気を落としながら、白川は答える。
「ああ、孝頼だよ。親孝行の〝孝〟に、〝頼る〟で、孝頼。ちょっと仰々しい名前でしょ」
 侑大が口を挟む。
「俺の名前も大概ですから」
「侑大くんだよね、かっこいいよね」
 白川と侑大の会話に、あやめが待ったをかける。
「脱線ストップ。〝より〟って響きいいんじゃないですか? そのまま使いましょうよ。アルファベットでYori」
 手元のメモに〝Yori〟と書いて見せる。
「そんなシンプルな名前で、他の配信者と被らないか?」
 配信者。その単語に胸が高鳴る。白川は、自分が配信者になるという事実に、感情が追いつかない。
 白川の気持ちも知らず、あやめは眉間にシワを寄せて言う。
「だからとっとと検索!」
 侑大が不満そうにスマートフォンを取り出して、操作をする。
「ええと……ん? いないな。意外にも……」
「よし、クリア! 白川さん的にはどうですか?」
 急に話を振られてあたふたする。
「あ、俺!? えっと、俺は何でもいいけど、ふうみぃに合わせなくていいの?」
 あやめが小首を傾げる。
「ふうみぃはあのファッションも込みでそういう雰囲気にしてますけど、白川さんもああいうの着ます?」
 白川は、大慌てで否定した。
「いやいやいやいや! 無理だよ! 俺、いくつだと思ってるの!」
「ファッションに年齢はないと思いますけど、まあ、趣味じゃないですよね」
「い、伊東さんが着る分には似合うと思うけど……」
 さっき自覚したばかりの想いを悟られぬよう、さりげなく言う。
「だとしても、白川さんが変装の雰囲気変えるなら、名前の雰囲気も寄せる必要ないと思うんですよね。どう思う、芙美子」
 芙美子は、ピアノを見つめている。
「芙美子?」
 あやめが再度声をかけると、芙美子はハッとした表情になった。
「わ、さっきの余韻が……。すごく楽しかった」
「全く、アンタは……。で、名前。白川さんの配信者名、Yoriでいい?」
 そう言って、先程のメモ帳を見せる。
「うん」
 芙美子はあっさりと了承した。
 あやめは白川の方を向くと言った。
「明日、空いてますか? 変装グッズ、見に行きません?」

続き

第6話

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目次

第1話

第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

第7話

第8話

第9話

第10話


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