シン・エヴァンゲリオン感想 または「現実に帰れ」論争
なぜいまさらシンエヴァの感想を書くのか。シンウルならまだしも。と自分でも思う。だけれど昨年に鑑賞したときにその完成度に胸を打たれながらも、それを的確に言語化することができず、この一年間半、ずっと悶々とした気分に陥っていた。でもいまならなんとか書けそうな気がする。なぜか。一年経ってほどよく本編を忘れているからだ。当時は語るべきことが多すぎて、言葉をまとめることができなかった。しかし、いまやプロットの記憶は曖昧模糊とし印象的なシーンしか覚えていない。細部が消失したその不鮮明な記憶だからこそ、当時私がこの映画のどこに胸を打たれたのか、素直に適切に語れそうな気がする。
もっとも曖昧な記憶なので、ひょっとしたらこれから語る私の言葉にはいくつかの事実誤認が含まれるかもしれない。が、エヴァンゲリオンという作品を通じて、そしてシンで語られたことに対して、私が何にもっとも感動したのか、については、嘘偽りなく、語れると思う。
まずは旧劇の話
シンエヴァを語る前に、まずこの映画と対となる旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(以下洋題の"The End of Evangelion"を縮めたEoEと記す)を語らねばならない。長くなるが、お許しいただきたい。
というのがEoEのあらすじだ。極めて大まかにはだが、シンエヴァもこのテーマと展開をなぞっていると言ってよい。それは「他者・現実の肯定」がエヴァンゲリオンのメインテーマだからである。
しかし、EoEには、そういった表層的なプロットだけを見ていては見逃す、重大なシーンがある。シンジの精神世界で描かれる"オタク否定"だ。アニメ映画に唐突に挿入される実写シーンに、驚いた観客も多いはず。
とくに興味深いのは次の二点。一つは劇場に満席に集っている(おそらく)オタクの集団に「気持ち、いいの?」というテロップの上乗せ、2つ目は庵野秀明への誹謗中傷を再現したとされる掲示板及び落書きされたガイナックス。テーマと相まって、まるで「オタクはアニメばっかみてんじゃねえキモいな」みたいなメッセージに受け取れてしまう。これらを総称して、一部では「オタクは現実に帰れ」問題と呼ばれている(ような呼ばれてないような)。
このシーンにはいくつかの解釈が存在するが(注1)、当時の庵野がよくインタビューでオタク否定を口にしていたこと、SFマガジンの1996年8月号で庵野本人が「現実に帰れ」と明言してることからも(注2)、やはりオタクを否定的に捉えてることはゆるぎのない事実のように思える。
なお、庵野本人も重度のオタクであり、ここでいう”オタク”とは「現実を顧みず、フィクションに耽溺する者」といったニュアンスであることに留意されたい。
「オタクは現実に帰れ」という脳内レイ=シンジの"希望の心"が発したメッセージ(注3)は、ついに彼を現実へと連れ戻し、人類補完計画を打ち破るに至る。物語上はこの作品最大のカタルシスである。一方で、この映画を見に来たオタクたちは、自らを否定されたどんよりとした気分が腹の底に溜まるのである。
そして、この一連のシーンこそ、演出家・庵野秀明の仕事の最高傑作だと私は考えている。改めて考えてほしい。「オタクが現実に帰ること」と「碇シンジが人類補完計画を否定すること」は何の関係もないのである。
プロット上で問題となっているのは、全人類がLCL化し、全生命の命運を握る碇シンジが「このままひとつの生命体となって新生する」か「それを否定して元の世界に戻す」か、である。碇シンジの精神面で語るのならば「他人の存在しない心地よい世界を望む」か「他人の存在する傷つく世界を肯定する」か、の二択である。オタクの介入する余地はない。
それらの問題点が、なぜか「オタクは現実に帰れ」という庵野の私憤とでもいうべきメッセージにすり替わっている。のみならず、そのすり替えが、他人を受け入れられないシンジへの”説教”として、作劇上機能しているのである。なんという神業!
「オタクは現実に帰れ」とはなんだったのか
最後に、「オタクは現実に帰れ」とは、具体的に何を言っていたのか、シンエヴァに進む前に検証したい。脳内レイは実写シーンで次のようにシンジを諭す。
そして次の問答に続く。
痛烈である。つまり、フィクション(虚構/夢)とは、現実の延長にあるものなのだと脳内レイは指摘しているのである。これは、正しい。映画にしろ、本にしろ、それらが”物理世界の中”に存在することは当然であり、虚構や夢が現実抜きに存在し得ないのもまた当然である。もし物理世界で地球が粉々になればフィルムも吹き飛ぶだろうし、または私がうつ病になってアニメを楽しめなくなったら、それも作品の死である。フィクションはどうしようもなく現実に依存している。現実をおろそかにして成立する虚構は存在しないのだ。(注4)
『それは、夢の終わりよ』という脳内レイの言葉とともに、溢れ出るように映し出される庵野を誹謗中傷するレスのモンタージュは、『虚構に逃げて』いるオタクたちへの、露悪的な貶しと言ってよいだろう。
一方で、脳内レイは虚構それ自体を否定していないことには注意しておきたい。彼女が指摘していることは、『虚構に逃げて、真実をごまか』すこと。つまり現実をごまかすことを、否定しているのである。(注5)
単に主人公を目覚めさせるだけではなく、映画が映画を自己否定し、ある種暴力的に、観客に行動を促そうとするこの映画は実にエキセントリックで挑戦的だ。類似する演出にアレハンドロ・ホドロフスキーの『ホーリー・マウンテン』があるが、物語を通じごく自然な流れで”説教”を行った巧みさにおいては、EoEに軍配が上がる。
シン・エヴァンゲリオンについて
さて、いよいよ本題のシン・エヴァンゲリオンである。
先述した通り、シンジが他者を受け入れ、世界は救われるという構図はEoEと同じ。ただ、シンジが他者を受け入れるきっかけは、精神世界から第3村へと移り、「他者を拒むシンジ」の役割は父・碇ゲンドウへと移り変わっている。そして、新劇場版におけるゲンドウの目的・アディショナルインパクトとは、エヴァンゲリオン・イマジナリーを使って、ユイとの再開と他者のいない理想の世界を作り出すことにあった。
イマジナリー、理想の世界。またしても「虚構」が敵として立ちはだかる。しかし、EoEでは概念的に語られていた「虚構」という敵が、シンエヴァでは具体的な形を持って表れている。文字通りに虚構と現実を賭けたロボットアクションが繰り広げられる。ここに作品としてのブラッシュアップを見て取れる。
シンエヴァの虚構とは
エヴァンゲリオン・イマジナリーとは『虚構と現実を等しく信じる生き物』。(注6)それを使って『虚構と現実が溶け合い、全てが同一の情報と化す。これで自分の認識、すなわち、世界を書き換える』のがゲンドウの目的だ。
つまり虚構による現実の改変。EoEの理解でいえば「現実を受け入れずフィクションに逃避するオタク」ということになる。EoEで脳内レイが言い放った批判がそのまま当てはまることにも注目したい。対して、第三村で他者の温もりを知ったシンジの答えは「時間も世界も戻さない、ただエヴァがなくてもいい世界に書き換える」となるのである(注7)。思うようにならない、ままならない、そんな不条理な「現実」を、しかしそれでも受け入れて生きていく。旧エヴァから一歩踏み出した、より力強いメッセージだ。もはや「現実」の問題は「他者」だけではない。
3.11を想起させる荒廃した日本の姿。そして復興。Q・シン(+ゴジラ)で描かれたその世界に、これまでの実存哲学的なテーマは、その幼児性を抜け出し、さらに大きなものを包括しようとしている。かつてセカイ系と呼ばれたアニメは、セカイから世界へとその射程を広げている。
”オタク”である碇ゲンドウの野望を打ち破った碇シンジは、”ネオンジェネシス”で「エヴァのない世界」を生み出す。ただしそれは『時間も世界も戻さない』つまり、元の世界で亡くなったキャラクターもそのままなのだろう。これが碇シンジの「現実」に対する信念だし、Q以降「災害」を題材にした庵野の信念でもあると思う。(注8)
碇シンジはマイナス宇宙の仮想世界で、エヴァパイロットたちと再開し別れを告げる。背景にはTV版のセルやEoEの美術が使われ、波打ち際のカットは、色が抜け動撮となり最後はレイアウトにまで画面が後退する。「エヴァンゲリオン」という虚構性それ自体に別れを告げてるかのような印象的なシーンだ。(注9)監督のエヴァへの力強い決別が感じ取れる。
ついに”ネオンジェネシス”した碇シンジは、新生された世界で”胸のデカいいい女”と会う。そして二人で宇部新川駅から走り去っていく。それがこの映画のラストシーンだ。ラストカットは実写で撮影されており、そこにアニメーションで描かれたシンジとマリが改札口を飛び出し駆け抜けていく。
再びオタクは「現実に帰る」のか
そして再び話は「現実に帰れ」に戻る。つまり、結局シンエヴァが言いたかったのは、またしても「現実に帰れ」だったのかという疑問だ。それを裏付けるように、キャラクターたちは文字通り「現実」を駆け抜けていって終劇する。
けれど、EoEのころのそれとは、ちょっと質感が違うように思うのだ。つまり、EoEは「虚構を否定する」ネガの映画だったのに対し、シンエヴァは「現実を肯定する」というポジの物語だったということだ。似ているが、ちょっと違う。
一旦は受け入れた「現実」にやはり傷つき、アスカの首を閉めるしかなかったかつてのエンディングとは異なる。シンエヴァは「現実」への受容が一貫して描かれる。EoEでは悲壮的なものとしてしか捉えられなかった「現実」は、第三村を通じて美しく価値あるものとして再解釈された。
それに、現実世界を元気いっぱいに走り去っていくキャラクターたちが「否定される」ものには決して思えない。そこには、現実も虚構も併せ飲んで力強く生きようとする美しさがあった。
現実対虚構の終戦
振り返れば、EoEの実写シーンは「現実」を表現してあるのではなく、その逆の「虚構」を象徴しているという倒錯に気をつけなければならない。シンジは「虚構の実写」から「現実のアニメ」に帰るのである。なぜなら彼はアニメの世界にいきる人物だから、アニメの世界が「現実」なのだ。
シンエヴァで写実なCG綾波(エヴァ・イマジナリー)が「変よこれ! 絶対ヘン!」と言われるのもこれに相応した演出だろう。あの世界(アニメ)では実写が「変」なのだ。そして「変」と言われた実写とアニメ(現実と虚構)の対立関係は、ついにエンディングにて和解するのである。そこには対立ではなく共存がある。(注10)
だから、私にとってのシンエヴァのラストシーンは、「現実に帰れ」ではなかった。現実の続きに夢がある、といったEoEの悲痛なテーゼは、シンエヴァによって福音へと変化した。
かつてフィクションは現実という土台の上にあると語った。だが、逆にいえば、フィクションはリアリティのうちに実在しているのだ。現実と虚構は分断されたものではなく、地続きに存在している。相補性のように、重なり合っている。二者択一ではなく、共生できる。我々がしっかりと現実に根を張って生きる限り、フィクションは常に隣に存在し続けてくれている。この映画のラストカットのように。
それは、フィクションへの最高の祝福ではないだろうか。
アニメと現実が一画面に共存するラストカットをみて、私はそのように、胸を打たれたのだ。
注釈
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