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あの夏の想ひ出 第一話

<主な登場人物>
主人公: 私。学生。
香川 : 一代で富を築いた資産家。事業にも女性にも貪欲。
美和 : 父親の命令で仕方なく香川に嫁いだ後妻。

その年の夏、私は父の知り合いの地元県会議員 麻生氏の紹介で、とある資産家の軽井沢の別荘で住み込みで働くことになった。

別荘の持ち主である香川氏は、首都圏を中心に複数の自社ビルを持つ実業家で、バブル時代に地上げと土地転がしで ひと財産を築き、今は貸しビル業を営む企業の会長として悠々自適な生活を送っている。政界にも太い人脈を持っているとの噂があった。

私は広島県の己斐の生まれで、父は小児科の医者として少しは知られていた。しかしこの父は政治好きというか、権力欲が強いというか、医者という枠にとどまらず(取り巻き連中に踊らされているところもあったのだが)、かなりの金を投じて市会議員や県会議員に、立候補しては落選し、それでも懲りずに出馬しては失意の淵に落ちる、ということを繰り返していた。

そのような関係者から、父は県会議員の麻生氏とは旧知の間柄だったのだが、ある日、日頃の無沙汰を兼ねて麻生氏の家に出かけた父は、香川会長が軽井沢の別荘で身の回りの世話をする若者を探していることを聞いてきたのであった。

「お前も大学でゆるゆる遊んでばかりいては人間がだらけてしまう。1年でも2年でも、香川会長のような立派な方の側にいれば、教えられることも多いだろうし、人脈も増えると思う。麻生さんもお前がいてくれたらと望んでおられるような口ぶりだったぞ」と、父はしきりに勧めた。

父としては、私を医者にして自分の後を継がせたいという希望があったらしかったが、私自身は医者になるつもりなどまったくなく、父の期待とは裏腹に、大学では文学や心理学に興味を持ち学んでいた。この2, 3年はぶらぶらして、将来は教員の仕事でも見つけて子供を教育して日銭を稼ぎ、残りの時間は好きな本を読んだり、小説を書いたりして自由な時間を過ごしたいと考えていたのであった。

「どうだ、お前さえその気になれば、すぐにでも麻生さんに連絡して、香川会長にお会いするのだが。」と、父は言うのであった。

あとから考えると、それは資産家で政界の中央にも通じている香川氏との関係を築きたいという、父の策略であったかもしれなかったが、私はこの父の申し出を二つ返事で承知した。

"勉強のため"などとは、まったく考えもしなかった。
私は特にやりたいこともなかったし、ただこの資産家の私生活や、父の言葉を借りれば「本来ならお目にかかることもかなわない」と言う、香川会長の素顔に接するのも、何らかの参考になるのではないかと考えたからであった。

「おー、その気になったか。あちらに出向いたら真面目に誠実にお使いして、目をかけていただくんだぞ。」

私の返事を聞くと、父はたいへん喜んだ。息子が著名な香川会長の付人になることを、父はとても名誉に考えているのであった。

とにかく、先方の希望もあって、私は3日後に父と麻生議員に付き添われて軽井沢にある香川会長の別荘を訪ねたのである。

香川会長の別荘は、静かな林に囲まれて、格式高いたたずまいを見せていた。私は黒い洋服姿の年老いた執事に案内され、会長の居間に挨拶に行った。
香川会長は小柄だが全身に栄養の行き渡ったがっしりとした身体付きの 45,6歳の年頃で、やや薄くなりかけた頭髪をきれいに撫で付け、鼻下には髭を蓄えていた。私が硬くなって挨拶するのをジロリと見て、ただひと言「あー」と言っただけで、また革張りの椅子に座って書類のようなものを読み始めた。私は内心にむっとしたが、資産家と言うのはこんなもんなのなのだ、と自分に言い聞かせた。

次に連れて行かれたのは、夫人の部屋であった。ソファーに座っている夫人をひと目見たとき、私は一瞬自分の目を疑ったのである。

夫人と言うから40歳過ぎの、見るからに堅物なイメージの年配女性を想像していたのであったが、静かな笑みをたたえて、「よろしくお願いします」と頭を下げたその人は、どう見ても25,6の若さ。ほっそりとした体つきで色が白く黒目がちの 流れるような瞳の綺麗な細面。いかにも高価そうな薄紫のワンピースを着て、窓の外の手入れの行き届いた中庭を背に座っている姿は、まさに1枚の絵そのものであった。
「なんと美しい女性だ…」と、私は感動に近い気持ちで失礼を顧みずまじまじと見つめていた。

美しい。
美しいがどこか寂しいところがある。
そう花に例えるならばこの人は紫陽花だ。
清楚な美しさを讃えながら、雨に合えばひとたまりもなく泣いてしまうあの紫陽花…

夫人の部屋を離れた後も、私は夫人の美しさ、どこか訴えるような弱さを持った美しさが脳裏からさらなかった。そして、あの夫人と同じ邸内に生活できることを心から嬉しく思った。

「奥様は、美和様とおっしゃって、1年前にお越しになられたのです。前の奥様が病気で亡くなられたので香川様が後妻にお迎えになったのです。」と老執事は不審そうな私の表情に気がついたのか、そう説明した。

「なんとなくお体が弱そうな感じがしましたが」
「そう、ご病気持ちなのです。それで東京の本邸にはお帰りにならず、ずっとここでご静養されているのです…」

あとから判ったことだが、美和夫人は山口の旧家の出で、旧家といっても今はかなりの落ちぶれた家柄で、会長が山口に旅行した折にとあるパーティーで見初めて、八方に手を回して後妻に迎えられたのだと言う。これは噂でしかないが、相当の金が会長から美和夫人の実家へ流れたらしい。
当初美和夫人は泣いて、香川氏のもとに嫁ぐのを拒んだそうだが、父親の命令には歯向かえず、心ならずも香川家に嫁いだそうである。

かねてから体の弱かった夫人は精神的な疲労もあってかいっそう病気がちになり、ここ軽井沢の別邸に引きこもってしまった。
本来は夏場にしか利用されなかった別邸であったが、夫人が生活するようになってから、会長もよほど所用がある時以外は、東京麹町の本邸には戻らず、ここで寝起きすることになったと言う。

こうして私は香川別邸に寝泊まりすることになったのだが、この別邸には執事の神木のほか、女中の恭子、それに運転手の片山が住み込んでいて、私を入れて5人の使用人が会長と夫人の身の回りの世話をして使えていたのであった。

しかし私の場合は、使用人といってもさほど忙しくはなく、香川会長が外出するときにお供するほかは、庭の掃除や犬の散歩、近所への使い走り、夜間の邸内の見回りといった程度の仕事で、あとの時間は、あてがわれた自分の部屋で、好きな本を読んで過ごすことができたのであった。

使用人となって1ヵ月も経つと、私は与えられた仕事の要領も覚えて同時にこの別荘の様子も、女中の恭子から聞いたりして徐々にわかってきた。

「こんな事は大きな声では言えないけれど旦那様と奥様の仲はしっくりいっていないのよ。奥様はあの通りおとなしいお方だから、面と向かって旦那様にご不満を言うことはないけれど、1日中ご自分の部屋に閉じこもっておいでだし、夜もご病気と言うことで別々にお休みになられるの。」

「好き合って一緒になったわけではないし、歳もあんなに離れていて、しかも無理に連れてこられてきた奥様ですから、どうしてもうまくいかないのね」と恭子は私に教えてくれたのであった。

恭子は、本邸に出入りしている植木職人の姪にあたり、19歳になる話し好きな娘で、話し相手がいないのか、口実を設けては私の部屋にやってくるのでいつも追い払うのに苦労していた。しかし、すでに3年もここに住み込みしているので、邸内の様子を聞き出すにはすごく重宝な存在ではあった。

ある日のこと、夜10時を過ぎた頃、私が邸内を見回っていると池が見渡せるところにある美和夫人の寝室に明かりがついていて、カーテン越しに夫人のではない人影が写っているのに気が付いた。

最近はだいぶ慣れたが、邸内は広大で広々とした木々に囲まれ、私はいつも木刀をかざしながら用心し見回りをしていたのである。

もしや夫人の寝室に曲者でも侵入したのでは?と私は足音を忍ばせながら近付いていった。
普段はきっちり閉まっている雨戸が何故か開けられ、風通しを良くするため窓も30cmほど開いていたので、私はカーテン越しに中の様子が伺えた。

部屋の中にいたのは、曲者ではなくて香川会長本人であった。香川は酒でも飲んでいるのか、普段の赤ら顔いっそう赤くし、浴衣の前をはだけただらしのない格好で、何やら美和夫人を問い詰めている様子であった。

夫人はちょうど寝床につくところであったらしく、ガウン姿で立ちはだかる香川の前に正座し、襟元を描き合わせてしきりに困惑している様子が伺えた。

私は池の側のツツジの植え込みの影に身を潜めていたので、何を話しているのかよく聞こえなかったが、勇気を持って足音を忍ばせながら濡れ縁にまで歩み寄った。

接近したため視野がぐっと広がり、私の目にはそれまでわからなかった二組の布団が部屋の床の間に寄せて敷かれてあるのが見えた。

第二話に続く…

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