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終戦の前後に何があったのか?玉音放送のほんとうの意味

日本の心をつたえる会代表の小名木善行(おなぎぜんこう)先生の
8月15日、終戦の日についての解説を深く学んでみたいと思います。
終戦の前後に何があったのか。

学校では教えてもらえない深い内容です。
まずは、今日の小名木先生のねずさんブログ記事より引用します。

明日は終戦の日ですが、終戦の前後に何があったのかをまとめてみたいと思います。昭和20年6月23日、米軍が沖縄を占領しました。
ときの総理大臣は鈴木貫太郎です。
鈴木貫太郎は、このとき和平の道を急いでいます。このために、元総理であった近衛文麿をソ連に特使として送っています。
日ソ中立条約を締結しているソ連を仲裁に立てて、和平の道を探ろうとしたのです。

このことについて、大東亜戦争の終結のためにと日本がソ連を仲介役に選んだことは間違いであったと指摘する人がいます。歴史は結果ですから、現代の視点から過去をみれば、ソ連に仲裁役など、なんとつまらないことをしたのだろうかと思う気持ちも分からないではありません。
しかし実際には、もっと別な事情があったのです。
それは昭和20年7月17日の出来事です。この日、トルーマン、チャーチル、スターリンの連合国三巨頭が、べルリン郊外のポツダムに参集しました。有名な「ポツダム会談」です。この会談の最中に米大統領のトルーマンのもとに「原爆実験成功」の知らせが届きます。この瞬間、アメリカには、ソ連に参戦してもらう必要がなくなりました。7月26日に発せられた「ポツダム宣言」は、ソ連抜きで発せられています。これがその理由です。

米国は原爆実験成功によって、もはや自力で日本を敗戦へ追い込めると確信し、ソ連に協力を求める必要がなくなったのです。
疎外されたソ連にしてみれば、日ソ中立条約を破棄してでも強引に参戦しなければ、領土的野心(共産圏の拡大野心)を満たすことができません。それどころか、ポツダムで外されたスターリンは、ソ連内部での信頼を失うことになってしまいます。だからスターリンは、急遽、ヨーロッパに展開していた120万のソ連陸兵を、大急ぎで満州、樺太、カムチャツカ方面に強引に転進させたのです。

もし米国の原爆実験成功がなければ、ソ連の介入による「ポツダム宣言」はまったく違った内容になったであろうし、そうすれば鈴木貫太郎の選択も、近衛文麿のソ連訪問も、有効な手段となっていたかもしれないのです。いたずらに、過去の人たちのことを悪く言うものではありません。

またこのとき、原爆実験成功の知らせを受けたトルーマンが、ポツダム宣言へのソ連の参加を拒否したのは、原爆を日本に対して使用することを決意していたからにほかなりません。原爆は、一般人に対する戦闘行為を固く禁じた国際条約(ハーグ陸戦条約)に、明確に反する大量殺戮兵器ですが、ではどうしてトルーマンは日本に対して、明らかに国際条約に反する原爆投下を決断したのでしょうか。

理由のひとつは、この時点で日本が大量殺戮兵器(原爆)を持っておらず、アメリカが日本から報復攻撃される恐れがまったくなかったこと、そしてもうひとつが、五百年続いた白人による有色人種支配の歴史のなかで、有色人種は「人間ではない」という考えが根づいていたからといわれています。


白人の有色人種に対する差別意識は、私たち日本人が想像する以上のものです。

たとえば、アメリカでは建国以来、黒人を動産として扱っていました。動産というのは、家畜と同じでモノの一種です。
つまり彼らの概念からすれば、当時の日本人、有色人種である日本人は、あくまでモノの一種であって人間ではありません。
ですから、国際条約に反する市街地への無差別爆撃や、原爆投下に対して何のためらいもなかったのです。
実際、戦後のことですが、トルーマンは原爆投下について「まったく心が痛まなかった」と語っています。
しかも「ポツダム宣言」の当初草案には、天皇容認が明記されていました。鈴木貫太郎のメッセージはちゃんと米国に届いていたのです。しかし、この天皇容認条項さえも、トルーマンは宣言から削除してしまいました。

これは戦争を長引かせるための意図的な行為です。なぜならこの条項があれば、貫太郎は間違いなく「ポツダム宣言」を受諾するでしょうし、そうなれば一気に戦争は終結したであろうからです。
けれどそれでは、対等に近い形での講和しかできません。
日本を徹底的に破壊するために、原爆を用いる。そのうえで、日本との戦いを収束させようとしたのです。
こうして7月26日に、天皇容認条項のない「ポツダム宣言」が発せられました。天皇の地位が保障されなければ、日本としては、この宣言を受け入れることはできません。
そこで鈴木貫太郎は「ポツダム宣言」の存在を「論評なしに」公表しました。ところがここで、大変なことが起こりました。日本の大手新聞社は、派手な見出しとともに、一歩踏み込んだ記事を掲載したのです。「首相、ポツダム宣言黙殺」「笑止、対日降伏條件」「笑止!米英蔣共同宣言、 自惚れを撃破せん、 聖戦飽くまで完遂」「白昼夢錯覚を露呈」等。

なかでも『朝日新聞』は
「帝国政府としては、 米・英・重慶三国の共同声明に関しては 何ら重大な価値あるものに非ずとして これを黙殺すると共に、 断固戦争完遂に邁進するのみとの 決意を更に固めている」と、派手に報道しました。
中国語で、このような口先だけ勇ましい人のことを「吹牛皮」といいます。まさにこの時の日本のメディアは、吹牛皮であったわけです。

この新聞記事にあおられて勢いづいた強硬派が、ポツダム宣言に対する政府の見解を強硬に求めてました。記者会見を開いた鈴木貫太郎は、情報局の作成したコメントを読み上げました。その中には最初に新聞が使用した「黙殺」の言葉がありました。これを当時の代表通信社である同盟通信社が「ignoreittentirely(全面的に無視)」と翻訳し、ロイターとAP通信ではこれを「reject(拒否)」と訳して世界に報道しました。

実は、日頃から鈴木貫太郎ら閣僚と接する機会の多い新聞記者たちは、貫太郎が和平の道を探っていることを承知していたのです。承知していて彼らは意図的に歪めた報道を行ったのです。
これは「軽はずみ」ということで済まされる問題ではありません。

こうした日本のメディアの情報の歪曲によって、アメリカは「日本は断固戦闘継続の意向」との見方をすることになりました。当時のアメリカは、すでに戦争によって国費を使い果たし、国家財政が破綻寸前の状況にありました。また、多数の戦死者を出していることから市民の間には厭戦気分が広がり、さらに共和党を中心として、戦争継続反対の気運が盛り上がっていたのです。ですからアメリカ政府は、アメリカ側の被害をこれ以上増やさずに戦争を終結するため、実験に成功したばかりの原爆の使用を、ついに容認してしまうのです。

これは日本の常識として、私たちが明確に知っておかなければならない歴史だと思うのですが、広島と長崎に投下された原爆被害は、「日本のメディアの軽はずみな報道がひとつの原因となっていた」のです。

確かにトルーマンは、日本に対して原爆を使用するつもりでいました。しかし市街地への原爆投下など、誰がどう考えてもやってはいけない非人道的な行為です。原爆の使用に関しては、アメリカの多くの議員や軍人が反対していました。後にアメリカ大統領になるアイゼンハワーも猛反対しました。日本のメディアの歪曲報道がなければ、これら原爆反対派の意見が主流となり、日本との間に講和の糸口を見いだした可能性が十二分にあったのです。つまり原爆投下は、日本のメディアの不誠実な態度が招いた虐殺であったのです。

原爆投下は八月六日、九日、ソ連の対日参戦は九日です。「ポツダム宣言」は七月二十六日です。もし、そうした和平をめぐる動きが出ていたとするなら、原爆投下はなかったであろうし、ソ連の対日参戦も行われなかった可能性さえもあります。ソ連参戦がなければ、満州にいた日本人が大量に虐殺されたり、シベリアに抑留されたりするといった大惨劇もなかった。

鈴木貫太郎は「天皇の地位を保障するなら、いつでも和平に応じる」とメッセージを発しているのです。そのことは新聞記者なら知っていました。それがどうして「ポツダム宣言黙殺」や「笑止」「聖戦飽くまで完遂」「錯覚」となるのでしょうか。どこをどうしたら、そういう報道になるのでしょうか。

そしてこのことは、もうひとつの大切な歴史を私たちに教えてくれます。よく、戦時下の日本では「厳しい言論統制が行われていた」という記述を見かけます。しかし実際にはかなりの報道の自由、言論の自由が認められていました。

なるほど、天皇を抹殺しようとする者や、国家体制の転覆を目論む者については、治安維持法により、これを逮捕し勾留しました。しかしこれは当然のことで、そうでなければ国内の治安は維持できません。過激な共産主義者や不逞外国人が当時の日本社会にも少なからず存在していたのです。

たとえば、終戦時に戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印した重光葵外相は片足がありません。それは不逞外国人による爆弾テロに遭ったからです。

けれど、そうした「極端な思想以外」については、戦時中にあっても日本社会では共産主義国はもとより欧米諸国と比較しても、かなり自由な言論が認められていました。ところが当時の日本のメディアは、そのことのありがたみを忘れ、いたずらに戦意をあおり、事実を故意にねじ曲げて報道し、結果として多数の人命を失う悲劇を招きました。マスコミは第四の権力とも呼ばれますが、すべからく権力というものは責任とセットにあるべきものです。現在にいたるまで、新聞各社は、誰ひとり責任をとっていません。彼らに責任性の自覚はあるのでしょうか。

そして広島・長崎に原爆が投下されました。ソ連が対日参戦した日の夜、鈴木貫太郎は緊急閣議を召集しました。貫太郎は、なかば強引にポツダム宣言受諾を取り決めようとしたのです。けれど閣僚の半数が賛成、残りの半数が反対でした。

結局、結論がでない。

そこで貫太郎は、御前会議で天皇のご聖断を仰ぐことにしました。これは「あってはならないこと」なのです。政治における意思決定は、どこまでも内閣の仕事です。その意思決定を天皇に仰ぐというのは、内閣の存在意義を、内閣自身が否定する行為なのです。

けれど貫太郎は、たとえ自分がいかなる恥ずかしめを受けようとも、これ以上、多くの日本人がアメリカの殺戮兵器により命を落とす事態を防ごうとしました。だからこそ御前会議を召集しました。このことも、昭和の歴史を語るうえで、とても大事な点です。

八月十四日の御前会議で、日本は正式にポツダム宣言受諾を決定しました。そしてみなさまご存知の玉音放送が、八月十五日の正午に流れました。ところがその日の早朝、東京小石川の私邸にいた鈴木貫太郎は強硬派に襲撃されています。貫太郎夫妻は警護官の手によって無事に脱出しましたが、私邸は焼き払われ、財産もろとも全焼しています。

鈴木貫太郎は八月十五日、内閣を総辞職しました。本来であれば、ポツダム宣言の受諾を承認した以上、九月四日の降伏文書調印も鈴木貫太郎内閣で行うべき仕事です。にもかかわらず鈴木貫太郎が辞職したのは、御前会議でご聖断を仰ぐという、内閣として本来あってはならないことをしてしまった責任をとったからです。貫太郎は、全責任を自分ひとりで負ったのです。

鈴木貫太郎は、主戦論渦巻く当時の内閣、国会、世論に対して、表立った反論をせず秘かに和平の道を探り、日本を終戦へと導きました。生粋の軍人でありながら時代の要請で首相となり、わずか四カ月の在任期間で、戦争終結という大業をなし遂げたました。そして精根を使い果たした貫太郎は、このわずか二年半後の昭和二十三(1948)年四月十七日未明、八十歳で永眠しています。

その鈴木貫太郎はは、死ぬ前にひとこと、
「永遠の平和」
という言葉を残したそうです。

鈴木貫太郎は幼少のころから、何度も死にかけています。
そして海軍軍人となってからは、たえず死と隣り合わせの第一線に身を置きながら、生き延び武勲を立てています。二・二六事件では銃弾を受け、実際に心停止までしています。それでも彼は息を吹き返し、八十歳近くになって大東亜戦争に幕を引くという、胆力と集中力を必要とする仕事を、見事にやってのけています。真実は「神のみぞ知る」ですが、もしかすると貫太郎は、日本の終戦処理という重大使命を帯びて、この世に生を受けた人だったのかもしれません。そう考えてみると、人はどんな人でも見えない大きな力によって「生かされている」存在であるのかもしれないと思えてきます。

そして天は、誰かに大任を委ねようとするときには、必ず「これでもか」というほどの艱難辛苦を与えるのです。その艱難辛苦に見事打ち勝った者だけが、天命を得るのではないか、鈴木貫太郎の生涯を見ていくと、それは確かであるような気がしてきます。

https://nezu3344.com/

こちらのYOUTUBE動画から最初の部分を文字起こし。

毎年のように8月15日
になりますとテレビ等で当時のあのラジオ放送の昭和天皇の玉音放送のごく一部を
切り取って「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」というここの部分だけを
何故か長い全部の中からそこの部分だけを抜き出しまして、玉音放送についての
いろんなコメンテーターさんがいろいろ解説をするというふうなことがもうこれ戦後一貫してずっと行われてきています。
おそらく今年も8月15日にはそういうような番組がたくさんテレビ等々で放送されるんじゃなかろうかと思います。
ただ「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という言葉を聞いて、
一方で、戦争によって多くの家が焼かれ、東京とか大阪とか日本いうのいわゆる大都市といわれるところがことごとく瓦礫の山になってしまったという映像をまず見せるわけですよね。
そういう映像を見せておいた上で「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」のお言葉を流す。
「お前ふざけんなよ!!」という風な国民感情が起こってくるというのを要するに
まあ悪く言えば期待してそこの部分だけを切りとっているということが行われているということで、これはそうそう簡単に日本人が騙されちゃいけませんよ。
そういうことを玉音放送で言ってるんじゃありませんよということを去年の動画ではお話させていただきました。

その去年の動画がこちら↓

【玉音放送】わかりやすく解説 日本人なら知っておくべき昭和天皇による『終戦の詔勅』の意味  小名木善行(ねずさん)
ねずさんの解説は分かりやすいのでおすすめです
玉音放送のほんとうの意味を知って目からうろこです。

【動画より一部抜粋】
そもそもこの戦争がなぜ行われたかということも
終戦の詔勅の中で述べられています。
先に米英の二国に宣戦した理由も
実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって
海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは
もとより朕の志すところではない
日本には全く侵略の意図はなかった
侵略どころか、あくまでも植民地支配されていて奴隷のように
主権を一切認められないといったような東亜の人々を
自分達の国というものを
改めて築いてもらって
そしてお互いに対等な関係を築きながら
経済的にもあるいは文化的にも一緒になって
繁栄していこうよとそういうことでこの戦争が始まったんだということ
がちゃんと述べられている。
大事なポイントがあります。
これは終戦の詔勅の中で
陛下が一番最後に述べられていること
これは国民、全国民に対するメッセージになります
なんと述べられているかといいますと
もし事態に逆らって激情の赴くまま事件を頻発させ、
あるいは同胞同士で排斥しあい、お互いに情勢を悪化させて
そのために天下の大道を踏みあやまり
世界の信義を失うがごとき事態は
朕のもっとも戒めるところである
そのことを国をあげて各家庭でも子孫に語り伝えなさい
そして、神国日本の不滅を信じ
任務は重く、道は遠いことを思い
持てる力のすべてを未来への建設に傾けて
道義を重んじて
志操を堅固に保ち
誓って国体の精髄と美質を発揮し
世界の進む道に遅れを取らぬよう心がけなさい
汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体せよ
・・・というように述べられた
国体の精髄と美質を発揮しとは、
ちゃんと一人一人の国民、全国民が
物事に対して責任をもって事に当たるということ
一人一人が責任を全うしていったらすごい素晴らしい国になっていく

玉音放送について、日本人はどのくらい知っているのでしょうか?

おそらく教科書でこのように深く取り上げることはしないと思います。
戦後GHQにより統制され、真に日本を愛する人たちはことごとく公職追放され、
左翼思想を中心とする人たちをトップに据えました。
そのせいで、戦後の教育は、「日本が悪かった」という自虐史観が刷り込まれました。
天皇が悪!日の丸が悪!君が代が悪!靖国参拝が悪!というふうに。。。
天皇が日本国民にこのような戦争を起こし耐え難い思いをさせた悪人に見えるように
マスコミが偏向報道してきました。
そのため、未だに日本は戦後教えられてきた間違った自虐史観の教育から
抜け出せず、愛国心も無く、何も信じられず、自分をも嫌悪して自殺していくような国民になってしまいました。
この天皇陛下が述べられた終戦の詔勅の内容を教えて来ませんでした。
わたしも学校時代、学んだ記憶が全くありません。
天皇陛下はなによりも国を愛し、国民を愛されました。
そのことを日本国民ならば知っておく必要があると思います。

(こちらの記事より一部引用)***********************************************************************
昭和20年8月15日、玉音放送によって、日本の敗戦が国民に知らされました。

この時、昭和天皇が心を痛めていたのは、自分の臣下であった者が、戦争犯罪人として裁かれることでした。「自分が一人引き受けて、退位でもして、収めるわけにはいかないだろうか」。昭和天皇は、木戸内大臣にそう洩らされたといいます。

そして、9月27、日昭和天皇がダグラス・マッカーサーを訪れ、会見しました。歴史的な会見として知られます。

マッカーサーは回顧録に次のように記します。
「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』 ――大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」(『マッカーサー回顧録』1963年)

また、この時、同行していた通訳がまとめた天皇の発言のメモを、翌日、藤田侍従長が目を通しています。藤田は回想録にこう記します。

「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。 『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。 私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』


一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。

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戦後78年経って、未だにマスコミは偏向報道を続け、日本を貶めることを毎日のように
垂れ流しています。
そのことに賢い日本人はだんだん気付いて来ましたが、まだまだTVや新聞だけの情報に
頼っている人には伝わりません。
今は、戦時中ではありませんが、戦争状態です。
日本はもう日本でなくなってしまっています。大手企業は外資に買い取られ、中小企業が潰れるような政策しかしていません。コロナを理由に飲食店を潰し、国民の働き口を失くし、貧困に追いやり、自殺に追いやる。都道府県の土地やホテルや旅館は中国が買い占め、政治家は親中、親韓議員が跋扈し、反日在日韓国人が堂々と日本の名前で政治に参画しています。日本人らしい凛とした政治家がほんとうに少なくなりました。
このままでは、美しい日本の国は滅びてしまいます。
神国日本の不滅を信じ
任務は重く、道は遠いことを思い
持てる力のすべてを未来への建設に傾けて
道義を重んじて
志操を堅固に保ち
誓って国体の精髄と美質を発揮し
世界の進む道に遅れを取らぬよう心がければ、この日本はまだ復活の道があります。今こそ、日本人一人一人がちゃんと日本の国民として素晴らしい日本の未来を築くのだという志に満ちて、立ち上がる時が来ているのではないでしょうか。

こちらの動画をぜひご覧ください❕


助け合い主義を学んで
日本人としての誇りを取り戻そう❗

【口語訳終戦の詔勅】

朕は、深く世界の大勢と、
帝国の現状をかえりみて、
非常措置をもって
事態を収拾しようと考え、
ここに忠実にして善良なる
汝ら臣民に告げます。

朕は、帝国政府に、
米英中ソの四国に対し、
そのポツダム宣言を受諾する旨、
通告させました。

そもそも、
帝国臣民の安寧をはかり、
万国が共存共栄して
楽しみをともにすることは、
天照大御神からはじまる
歴代天皇・皇室が
遺訓として代々伝えてきたもので、
朕もそれをつねづね心がけてきました。

先に米英の二国に宣戦した理由も、
実に帝国の独立自存と
東アジア全域の安定とを
希求したものであって、
海外に出て他国の主権を奪い、
領土を侵略するがごときは、
もとより朕の志すところではありません。

しかるに交戦状態は
すでに4年を過ぎ、
朕の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、
朕のすべての官僚役人の精勤と励行、
朕の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、
それぞれが
最善をつくしたのにもかかわらず、
戦局はかならずしも好転せず、
世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえません。

そればかりか、
敵は新たに残虐なる新型爆弾を使用し、
いくども罪なき民を殺傷し、
その惨害の及ぶ範囲は、
まことにはかりしれません。
この上、なお交戦を続けるのでしょうか。
ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、
さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいありません。

そのようになったならば、
朕は何をもって
億兆の国民と子孫を保てばよいのでしょう。
皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいのでしょうか。

以上が、朕が帝国政府に命じ、
ポツダム宣言を受諾させるに至った理由です。

朕は、帝国とともに
終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた諸々の同盟国に対し、
遺憾の意を表明せざるをえません。

帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、
職場で殉職した者、
悲惨な死に倒れた者、
およびその遺族に思いを致すとき、
朕の五臓六腑は、
それがために引き裂かれんばかりです。

かつ、戦傷を負い、
戦争の災禍をこうむり、
家も土地も職場も失った者たちの
健康と生活の保証にいたっては、
朕の心より深く憂うるところです。

思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、
もとより尋常なものではありません。
汝ら臣民の真情も、
朕はよく知っています。

しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、
耐えがたきを耐え、
忍びがたきを忍び、
それをもって万国の未来、子々孫々のために、
泰平の世への一歩を踏み出したいと思います。

朕はここに、国家国体を護り維持しえて、
忠実にして善良なる汝ら臣民の
真実とまごころを信頼し、
常に汝ら臣民とともにあります。

もし、事態にさからって
激情のおもむくまま事件を頻発させ、
あるいは同胞同志で排斥しあい、
互いに情勢を悪化させ、
そのために天下の大道を踏みあやまり、
世界の信義を失うがごとき事態は、
朕のもっとも戒めるところです。

そのことを、
国をあげて、
各家庭でも子孫に語り伝え、
神国日本の不滅を信じ、
任務は重く道は遠いということを思い、
持てる力のすべてを未来への建設に傾け、
道義を重んじて、
志操を堅固に保ち、
誓って国体の精髄と美質を発揮し、
世界の進む道におくれを取らぬよう心がけなさい。


汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体しなさい。

御名御璽
昭和20年8月14日
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