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【読書感想文】【新訳】 西行物語 がんばらないで自由に生きる/宮下隆二

今の時代、人から称賛される事って基本的に「人の役にたっているか」がベースになっている気がします。あ、スポーツや将棋など才能と努力を積み上げた一部の人がたどり着ける所での称賛は別として、普通の人が称賛されるのは人の為になった時だと思います。

ところが西行さん

そもそも西行は、もと兵衛尉義清なり。重代の勇士たるを以て、法皇に仕ふ。俗事より心を仏道に入れ、家富み年若く心に欲なけれども、ついに以て遁世す。人、之を歎美するなり

と若くして出家した事を称賛されているのですが、出家理由は「現世、来世を通じて幸福を約束する」ものという割と自分本位。
しかも出家にとっては現世のものは全て執着、と駆け寄って来る4歳の娘(人生でたぶんMaxに可愛いさかり)を縁側から蹴落とします!なんと!これ実話なのかしら?ちょっと人として非現実的ですが、今の世だったらDVと言われますね。
そして泣く妻子を置いて出家します。
「子供が一人立ちするまでは。。」と離婚を躊躇している世のお母さん方が見たら卒倒しそうです。
この辺りにやはりお釈迦様が妻子を置いて出家してしまった影響が出ている気がします。
「出家する気なら結婚しないでくれ。結婚して子供まで作ったならある程度責任持ってくれ。それでも出家するならせめて私を納得させてからにしてくれ。」
これが私、現代の凡人いち母親の感想です。

その後妻は早々に出家。貴族の養子になっていた成長した娘も西行さんが出家をさせ、母と一緒に暮らしなさい、と言います。
でも母の所までは連れて行ってはくれず、娘は一人で何とか母の所にたどり着く。
西行さん「来世では家族一緒に暮らそうね」的な事を言うのですが、いやそう思うなら現世じゃ駄目かしら。

家族関係だけ見ると、私は何だか称賛できません。仏教というのか少し前の日本というのか、全然違う価値観が存在するのですね。

これは養老孟司先生の本で「仏教の偉いお坊さんは、山を何日も駆け回ったり、洞窟で瞑想していたり、別に人の役にはたっていない」的な事が書かれていたのを見た時から少し引っ掛かっていた事でした。

出家遁世が美学だった時代が終わり、進歩や発展が至上の価値となった時代においては、まことに評価が難しい。

とあとがきに書いてありましたが、A→Bみたいな単純な考え方だと理解できない世界なのだと思います。

しかしこの本のタイトルの「がんばらないで自由に生きる」生き方は私もやりたい!

西行はそういう栄達競争に背を向け、自由な生き方を選びます。旅をし、歌を詠み、恋もしました。しんどい時はしんどいと、平気で言ってしまいます。
ただその軸になったのが、仏法と和歌で、そのために自由が、自堕落にならずにすんだのです。いやむしろ、そこには、真に悟った人間のみが持つ、ゆとりと闊達さがあります。

いいですね~、こういう生き方。あ~、でも悟ってないと単なる自堕落なのですね。やばい。

ところであまり関係のない話なのですが、前から「辞世の句」って凄いなぁ、と思っていて、自分が死ぬ直前に人生の集大成みたいな句を詠む文化を、日本人は私たちの2~3世代前まで持っていたのですよね。今でも詠む方はいるのかな?
たぶん具合悪くなってから詠むのは大変でしょうから、何となく前々からこんな句を詠もうかなぁ、とか考えているのでしょうか。それとも日常的に句を詠んでいれば具合悪くなってからも的確な表現ができるのかな。
私とか「え~、どうしよう、やっぱりこれじゃ駄目だ!」とか思っているうちに死んじゃいそうです。

でもそういえば西行さんは「和歌を詠む際の精神集中が、煩悩を振り払う助けとなり、いわゆる瞑想状態にはいることができた」らしいのです。
もしかして死を目前とした恐怖を、句を作る事で少しは薄められるのかもしれません。

今の「余命宣告をしますか?」とか聞かれちゃう時代から考えると、自分が死ぬ事がわかっているって不思議な感じです。

確か山内節さんの本だった気がするのですが、知り合った里山農家のおじいさんが、そんなに具合が悪そうにも見えないのに「ワシはもうすぐ死ぬ」と言う。妻のおばあさんも「あれは駄目だ、もうすぐ死ぬ」と言う。そして本当に数か月後ぐらいに死んでしまった。というような話が出てきました。
ほんのちょっと前まではこういう感覚がちゃんとあったのですね。
それとも今でもその感覚はあるのでしょうか。でも死期が近そうな方に「これから死んじゃうっていう感覚はあるんですか?」とはちょっと聞けませんよね。
自分が死ぬ時までわからない問題です。


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