【読書感想文】13歳からのアート思考/ 末永幸歩(私が美術館に行く理由)
この本はタイトル通りアートを通じて「自分だけの答え」を見つけるHowTo本とも言えると思います。著者の方が教師という立場ですから今の美術の授業に疑問を持って、「美術はこうすればもっと教育に役に立つ!」という立場からの本かと思うのですが、13歳を何周も回った私には何か違和感があり、そこを考えてみたいと思います。著者の方もそういう使い方を推奨されてますしね。
さて、私が思う「アーティスト」とは。とにかく抑え込んでも蓋をしようとしても、どうしようもなく湧き出してしまう表現したい何かがある人、だと思っています。その湧き出し具合は間欠泉のような物凄い吹き出し方をするタイプもいるかと思いますが、本当にちょろちょろと湧き出す清流のようなタイプもいると思います。
そしてその表現物を作った人は、その作品が好きすぎて「ほらほら見て見て!素敵じゃない!?」と世の中に見せたくなる。
対して鑑賞する側は「見て見て!」と言われた人と趣味が合えば「素敵~!」と思うし、趣味が合わなければ「ちょっとねぇ~。」と思う。
私が思う「有名アーティスト」とは「間欠泉タイプで趣味の合う人が多い人」だと思っています。
ゴッホのように生きている時代に趣味の合う人がいなくても、時代が変われば合う人が沢山出て来る場合もある。出てこない場合もある。
これを前提として考えてみると、私がデュシャンの「泉」が好きになれない理由が見えてきました。私はアーティストは自分の作品自体を溺愛しているべきだ、と思っているのです。ボロックにしてもウォーホールにしても自分の作品が好きだったはず、と思っている。
しかしデュシャンが「泉」の事が大好きだった、とは何だか思えない。デュシャンは「泉」を作品として発表しよう!と思った自分のアイディアは愛しているけれど、作品自体を愛しているようには見えない。単に人を驚かせるアイディアに酔っているように見えてしまう。
この本はその「アイディア」の方に着目すべきだ、という主張ではないかと思うのですが、私はやはりアートとはその人ではなく出て来た物(でも空間でも音楽でも何でも)を見たいと思ってしまうのです。
ちなみに千利休は黒楽茶碗が好きだった、と私は思っています。引き算の美が好きだった利休が引いて引いて作り上げたしつらえの茶室に曜変天目では違うのはわかる気がします。曜変天目だけを際立たせる為のミニマルな茶室、という発想もあるかと思いますが、利休はそう思わなかったようです。
千利休はミニマルな空間に美しく調和するのは黒楽茶碗だと思って選んだだけで、粗末な茶碗を使って人を驚かせようと思ったわけではない、と私は妄想しています。
もう一つこの本では「花職人」になるべからず、という話が出てきます。受けそうな物、人に頼まれた物をコピーし続ける人にはなるな、と。
もちろん主張はわかるのですが、私は日本にある「型」という考えも好きなのです。
模倣して模倣してその先に出て来る自分らしさ、というような考え方。
この本的に言えば花を作り続けた結果根ができた、みたいな考えでしょうか。
溢れるように湧き出すものを持っている事も才能だと思いますが、ひたすらに模倣を続けられる事も才能だと思います。湧き出しタイプは天才とも言えますが、そうでなくても模倣を続ける事はできる。何か湧き出させたい!と思っていても、何を湧き出させたら良いかよくわからない私のような凡人には、模倣から入るのは良い方法だと思っています。
そして完璧な模倣を出来る人はいない(できたらそれはそれで天才です)。そのずれが自分らしさだと思う。
という文章が出てきます。
私は美術館に行くのが好きですが、はて?私は何の為に美術館へ行くのか?
これを考えてみると、作者が魂を込めて作った作品にはパワーがあります。作者が夢中で楽しんで作った作品からは独特の何かが出ている。
私はこの何かを浴びたいが為に美術館に行くのだ、という事に気付きました。
正直作ったアーティストにはあまり興味がありません。でも趣味が合うか以前に、作者が作品に込めた何かは作者がいなくなっても作品に残り続けます。作者が何も入れていない作品を見ても何も浴びられない。そして数ある作品の中に「これは自分と共鳴している」と思うような(自分にとっての)凄い作品を見つけると嬉しくなります。
何だか抽象的な話になってきてしまいましたが、私が美術館に行く理由は神社仏閣巡りに近い気がしてきました。
そう考えると美術館に行く理由は「非日常的な刺激」ではなく「心のやすらぎ」になるのかと思います。
確かに自分が何が好きでどんな風に考えるのか、という視点でアートを利用する事は有効だと思います。とても冷静な見方です。
でも何故人はアートを見て感動するのか、と言えばそこに魂があるから、としか言いようがありません。私はスピリチュアルにはとんと疎いですが、凄い作品を目の前に涙が出て来るような感覚は、アート思考を探る、というような目線でアートを見ていたら失われてしまうのではないかと思い、それはとてももったいないなぁ、という事がこの本を読んだ違和感に繋がるのだ、とわかってきました。
正に”Don’t think. Feel!” という事でしょうか。
自分のアートの見方について深く考えさせてくれたこの本には大変感謝です。この本で薦めている答えのない疑問に自分の主張を好きなように肉付けしてく、という作業はとても楽しいものですね。
ところで子供と美術館に行って子供がつまらなさそうにしていたら「この中で一つ貰えるとしたらどれにする?」と聞いてみます。私もピンとくる作品があまり無かった時にやるのですが、「貰える」となると、例え疑似的でも人は欲が出て、じっくり作品と向き合うようです。行ったり来たりしながら一つに絞っていくのは、アート思考とまではいきませんが、なかなか楽しい作業です。
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