自己評価、自己肯定感と承認欲求

最近、友達同士がトラブったりとかがあって、自分の中で色々と整理してった結果、訳分からなくなってきたので久々にnoteを更新してみる
更新したらなんだこんだもんが、大したことねーなってなるので(笑)

自己評価と自己肯定感

昔自分の事を良く知る友人に「お前って自己肯定感高いのに自己評価低いよねw」と言われてから、その言葉の意図がいまいち汲み取れなくて喉元に引っかかってる感覚があった。
悪い意味で言ってる訳では無いことは分かっているけど、それってどういう事…?というのは割と最近までよく考えてた。ただ、今になってこの表現が自分には滅茶苦茶しっくりくるように思う。
自己肯定感と自己評価の違いってなんだろうって考えた時に、この2つは独立したパラメーター何じゃね?って結論に至った。
自己肯定感は、自分を受け入れる感覚というか、自分を認めてあげる事。自分が好きであるという感覚。
自己評価は、自分をどう評価しているか。
友人がいう「自己肯定感高いのに自己評価低いよね」はつまり、「自分の事を低く評価しているけど、それを受け入れている状態」だと思う。
笑える話なんだけど、これは非常に私らしい。
私は私の事を低く見積っているのも自覚がある。今の職場ではそれなりに評価されて同期よりも早く出世しているし、自分の事を選んでくれた嫁さんもいる。ただ自分なんかがこの役職に、とか、そういう事を考える事はよくあるし、少なくとも仕事においては自己評価は滅茶苦茶低い。一方でそんな「自分なんか」の事を許容しているから、上司に怒られる時も自分の過ちを指摘される事をなんの疑問にも思わないし、たまにそれで呆れられる。
自分はこんなもんと思っている一方で、自分の事は好きだし、自分なりに足掻けりゃそれでいいやくらいに思っている。

話がそれたけど、今回トラブっている友達は、自己評価高いけど自己肯定感滅茶苦茶低いんじゃねぇかって思い始めている。事情を分かってる人に分かればいいから割愛するけど、その友人は自分の自己評価と現実とに乖離があって、そのせいで自己肯定感が滅茶苦茶低い。
そしてその友人の中の私の評価や、他の友達の評価が低い事も言葉の端々に垣間見えて腹が立つ。
ただ、そういう友人と自分を見比べて、自己評価と自己肯定感とを棚卸ししてしっくりきたのは確かだったりはする。

自己肯定感と承認欲求

自己評価と自己肯定感は必ずしも一致しないし色んなパターンがあると思う。自己評価も肯定感も高い人、どちらも低い人、どちらかが低くて、どちらかが高い人。
ただ一方で、自己肯定感と承認欲求は独立していないパラメーターなのではないか?というのが私の最近の仮説だったりする。グラフにするなら円グラフ。自己評価が低い人は他人からの評価を求めるし、自分大好きマンは人がどんなにダサいと言っても自分が好きな服を着る。
自分の居場所、評価が自分で完結しているか、あるいは他人の中に自分の価値を見出したいか。人に認められたいのは、自分で自分を認められていないからなのでは? というのがある気がしている。
私だって褒められると滅茶苦茶嬉しい。記事やツイートにいいねが付くと滅茶苦茶嬉しいし、同期より早く出世した自分を凄いと自慢に思う。ただ、特定の誰かの中に自分の居場所を求めてはいない。
一方で例の友人は特定の誰かの中に自分の評価を求めていないか?と私には見える。だから特定の誰かを身を粉にして救って、誰かにとってのかけがえのない人になろうとしている。自分がいなかったら、というifの世界と自分がいる世界に違いがある事に、自分の存在価値を見出している。
失礼だけど、私にはそう見える。

結局誰しも自分が1番好き

人の為に努力する事を否定はしない。身を粉にして誰かを救おうとするのは私には出来ないし、それで救われた人もいるだろう。ただ一方で、自分の居場所を人に依存するなとも思う。
仮に私が誰かを救ったとして、その人が私にどう思おうが勝手だ。仕事柄知らない人に善意で声をかける事は良くあるが、それをシッシと払い除ける人も少なくは無い。利益の為も勿論あるが、専門知識がある私から見たらどう考えても選択を間違ってるお客様に声をかけたのに、払い除けられるのは良い気持ちはしない。ただ、私にお客様がどう思うかを制限する権利は私にはない。どう思おうとその人の勝手だ。
他人の中に自分の評価を求めないで欲しいと思う。人が好きでいてくれる自分を好きでいたくて、その人の為に尽くしたとて、その人がどう思おうと勝手なのだ。
そんでもって大体の人は結局自分が好きなのだと思う。だからどれだけ尽くしたとて、(私の為に尽くしてくれる)貴方が好き。より上は望めないんじゃなかろうかと思う。
勿論誰かが私に嬉しい事をしてくれたら喜ぶし、ちゃんと感謝する。ただその感謝は保証もされてなければ、いつか満ちて足りる事もないと思う。
話がそれているけど、無理やり結論まとめると、人からの評価に自己評価を委ねないでほしい。と思っているという事と、怖いかもしれないけど、評価できない自分の事も認めないと、と思っている。

貴方が傷付いてるのを見て傷付く人の為にも、自分自身を大事にしてほしい

最後に、私は「死にたい」という言葉にアレルギー反応を起こしていた時期があった。1番の親友のその言葉に振り回され、傷付けられ、自分も堕ちるところまで堕ちたという経験をしてから、そのワードを避けるようになった。
ただ、それでも避けられない程にこの言葉は目にする。中には1つの切り札としてその言葉を使ってる人もいるように思う。
「死にたい」を放っておけない人は少なからずいる。その人はあなたの事を大切に思っているに違いないし、貴方を生かすために最善を尽くすだろう。ただその過程で確実に疲弊していく。
私もそうだった。その親友の命と自分の命を天秤にかけざるをえなくなって、結局離れてしまった。自分の命の方が大事だからだ。彼は結局私の元に戻ってきたけど、もう一度関わる事に怖ささえあった。今でこそ大親友だけど、当時はそれぐらい疲弊していた。
「私は苦しんでいる」という事をアピールする事を悪いとは言わない。SOSを発信することは必要な時もある。ただ、その言葉に反応する人ほど貴方にとって財産なんじゃないの?と私は思う。
貴方が誰かの中に価値を見出そうとして身を粉にする時、身を粉にする貴方を思う人が背後にいないか考えて欲しい。その人がいずれ疲弊して貴方から離れるとしたら、貴方は気付かない間に貴方の価値を見出してる人を失っているのでは?と思う。
そういう理由もあって、私は私の事を大切にしてるつもりだったりする。自分が1番大事。なぜなら、自分を疎かにした時に傷付く人こそ私にとってかけがいのない人だからだ。その人の為にというと押し付けがましいけど、私が私を犠牲にした時に傷付いてくれるくらい私を好きでいてくれる人を蔑ろにしてまで助けたい誰かなんていない。
だから自分のキャパ以上に誰かを救おうとなんて思わない。
皆もっと自分勝手で、自分本位で良いと思う。そこで起きる出会いや別れに促されて、自分にとって心地よい空間を作れればと思う。
皆周りの事ばっかり気にしすぎだ、全てを失わないで生きてなんていけないんだから、自然体の自分が保てる人間関係と環境の中で生きて行きたいと私は思う。

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