さらば、黄金の左

本当は「貴乃花問題」を語ろうかと思っていたんですが、なにやら双方の言い分が食い違ったりして泥沼化しそうなので、避けることにしました。ただこの問題が「春日山部屋事件」のような展開をたどらないことを祈ります。部屋所属の力士らから犠牲者が出ませんように。

2016/11/8「春日山部屋消滅」
2017/2/23「春日山部屋問題、終結」

そんな騒動の余波のさなか、元・横綱で元プロレスラーの輪島大士さんが亡くなった。謹んで冥福をお祈りします。

私が大相撲を見始めた1970年代初頭、相撲界には「ヤングパワー旋風」が吹き荒れていた。

時あたかも、柏戸の引退で長かった「柏鵬時代」が終わり、残った大横綱・大鵬も力士生活の晩年。かわって台頭した北の富士、玉ノ海による「北玉時代」の幕開けと思われた時期だ。

4人いた大関陣は成績不振が続き、すでにファンの人気や期待は彼らから離れていた。かわって、20代前半の若い有望力士たちが次々と幕内に昇進し、土俵に活気と熱をもたらしていた。彼らを称して「ヤングパワー」と命名したのは、さて誰だったんだろうか?

その筆頭で出世頭だったのが、名横綱・若ノ花(初代)の実弟で「角界のプリンス」と呼ばれた貴ノ花(父親のほう) けっして大きくはない体で必死に上位の強豪に立ち向かう姿はいかにも日本人好みで、相撲界を超えた世間一般でも大人気を博した。

その彼の背後にみるみる迫っていったのが、輪島だった。

今ではまったくめずらしくなくなった大学相撲部からのプロ入りだが、当時はまだほとんどの新弟子が中学在学中に入門するような時代で、大卒の学生相撲出身は珍奇な存在だった。

彼のすぐ前の時代にやはり学生相撲から鳴り物入りで入門し、大関まで昇進しながら横綱への期待を裏切った豊山(初代)がいたせいもあったか、プロ入り当初は話題になったものの、「やはり相撲はたたき上げから」みたいな空気が支配的だったように思う。

そんななか、2年連続学生横綱のタイトルを引っ提げて花籠部屋へ入門つまりはプロ入りした(この言いかたも彼からだったかも)輪島は、1970年1月場所に幕下付出でデビューすると、見る見るうちに番付を上げ、わずか一年で新入幕、すぐに上位に定着した。

その完成された相撲っぷりもあり、またどちらかといえば悲壮感のある貴ノ花に対して、陽性な天然キャラもあって人気も急上昇。いずれ近い将来「貴輪時代」が来るものと期待された。

それまでの相撲の常識であった「下手からの投げは効かない」をあっさりとひっくり返した必殺の左下手投げが「黄金の左」と呼ばれ、またマゲを結う前のザンバラ髪時代には美容院でパーマをかけたり、ランニングや筋トレを取り入れるなど、輪島こそが「新時代の旗手」になるものと目されたのだ。

その期待にたがわず、1972年5月場所には関脇で初優勝を果たし、同年9月場所後に貴ノ花とともに大関昇進、そして翌年7月場所後には横綱まで一気に駆け上がった。

初優勝の時のフィーバーぶり(古いな)は凄かった。当時、私は高円寺駅付近に住んでいたのだが、輪島が所属した花籠部屋は隣の阿佐ヶ谷駅付近にあった。千秋楽のNHK中継を見届けたわが家も、一家中で阿佐ヶ谷まで優勝パレード見物に駆けつけたのだ。

誰しも考えることは同じだったようで、広い青梅街道は、パレード見物の大群衆で埋め尽くされていた。当時中学生の私は、それでも一瞬、群衆の向こうにわずかに輪島の顔を見ることができたが、母親はよく見えなかったらしく、先の訃報の際にも「あの時はマゲの先っぽしか見えなかった」と述懐していた。

またたく間に横綱まで駆け上がった輪島。この時期にはこれといったライバルも強敵も見当たらず(貴ノ花は大関昇進後に失速していた)無敵の横綱ぶりが期待された。

当時の専門誌『相撲』のユーモアコーナーの、こんな記事を覚えている。

無敵・輪島が連勝街道を突き進む! 双葉山の69連勝に迫ると、まずチケットが買えなくなり、当日券欲しさに前日の打ち上げ後から行列が出来る(これは双葉山時代にあった) 69連勝を超えると大フィーバーが起き、NHK相撲中継の視聴率は100%に迫る。前人未到の100連勝前後には、国技館の二階から観客がこぼれ落ちるほどの騒ぎ。ただこのころから「どうせ輪島が勝つだろう」と結びの一番を見ずに帰る客が出はじめる。やがて「わざわざ見なくても輪島の勝ち」となり、観客数は減少。さらに「輪島には勝てない」と力士の廃業が相次ぎ、ついには全員引退。かくして、輪島は誰もいない国技館で一人黙々と土俵入りをして勝ち名乗りを受け、無人の連勝街道を行くのだった(笑)

実際にはこんなことにはならず、すぐに北の湖の台頭もあって「輪湖時代」の幕が開いたのだった。【詳しくはこちらで→輪湖相搏つ

そのころ、私は日本大学の文理学部に入学した。つまり輪島先輩の後輩になったのだ(学科は違ったが)

あんまり言いたくないが、わが母校は、たとえば国立大や早慶あたりからは一段低い存在。実際、私もけっして第一志望ではなかったのだが、そんな奴らの多かったわれわれ日大生の切り札が「横綱を出したのは、日大だけだぞ」 これ、いまでも有効。

当時、銀行屋だった私の父は金沢支店の偉い人になっていて単身赴任していたのだが、あるとき宴席で輪島の挨拶を受けたそうだ。地元・金沢の出身だからね、輪島さんは。横綱相手に父が、息子が日大に通っているというと、ぜひ一度稽古を見に来てくださいと言われたとか(もちろん社交辞令なので実現はしていない)

その後、北の湖との激闘を経て14回の優勝を遂げたのはご存じのとおり。優勝20回超の大横綱とまではいかなかったが、優勝回数では歴代7位。名横綱と呼んで差しつかえないだろう。1981年3月場所中に引退し、ちょうど定年間近だった師匠の跡を継いで年寄・花籠を襲名した。

そして色々あって、相撲界から姿を消した。1985年のことだった。

その輪島が復活したのが1986年のことだった。プロレスラーとなって、プロレスファンだった私の前に突然現われたのだ。いやいや、報道された当初は、まったく信じられずにいたものだ。

この時期のことは、今回の訃報報道でもささやかに触れられている。高齢での転向(38歳だったか)だったので、正直言って名勝負の類いはほとんど残さずに2年ほどで引退したが、当時所属して全日本プロレスでは大いに集客に貢献した。

それまで、プロレスをあつかうスポーツ新聞は、朝刊のデイリースポーツと夕刊の東京スポーツだけだったのが、輪島転向を機に日刊スポーツが新たに参戦する事態にまでなった。それほどの社会的インパクトがあったのだ。試合内容はともかく。

いつの試合だったか忘れたが(後楽園ホールだった)すでに「しょっぱい」が定着していたプロレスラー・輪島が、観客の度肝を抜いたことがあった。輪島に対してやたらと当たりのキツかった天龍同盟との試合だったと思うが、場外の天龍に対して、輪島がいきなりドラゴンロケット(トぺスイシーダ)をぶっ放したのだ。場内は騒然、あちこちから「輪島ロケット」なる歓声が巻き起こった。無骨ではあったが、あれがプロレスラー・輪島の最高傑作ではなかったか。そしていまのところ輪島が、元・横綱で場外への空中殺法を繰り出した唯一の存在なのではなかろうか(東富士も北尾も曙もやっていない)

輪島オリジナルの必殺技「ゴールデンアームボンバー」が、その後世界中に広がって、いまや巨漢レスラーの定番ホールドである「チョークスラム」へと発展したことも、プロレスラー・輪島の遺産と言えよう。なんだかんだ言って、プロレスでもちゃんと足跡を残しているのだ。もうちょっと評価してもいいと思うよ。

古い話になるが、大相撲を引退した直後だったかに、先に引退していた貴ノ花とともに、男性整髪料「アウスレーゼ」のテレビCMに出演して話題になったことがあって、おかげで私も一時アウスレーゼを使う羽目になっていた(輪島は、そうした色々なことの先駆者でもあったのだ) 貴ノ花とは入門当初からウマが合ったようで、親友同士、いいコンビだったそうだ。

いまごろ、先に向こうへ行っている貴ノ花と再会して、二人で遊び歩いているのか。輪島さんは、問題点続出のいまの相撲界の混沌とした状況を、親友(現状に大いにかかわりがある)にどう伝えているのだろうか(いやたぶんいいかげんに笑い飛ばしていると思う

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