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【今の私ができるまで③】時代についていけ(か?)なかった小学生

ども、にこさんです。

シリーズ第3回。今思えば、アニメ好きはここからきているのかもしれない、小学校時代について触れてみたいと思います。
過去のアーカイブはこちらの記事から、なぜこれをやろうと思ったのかと合わせてご覧ください。

アイキャッチは「社会人野球(軟式)」での一幕。思えば始めたのも小学校3年生から。(写真は左打ちですが、最初は右打ちでした)
気管支喘息を患っていたとはいえ、体を強くして、喘息に強い体質にしていくために、運動は必須だと思っていました。
初めて地域の野球クラブに私服(トレーナーとジャージ)で参加し、慣れないノック(家に金属バットもありましたが、そんなに思いっきり打ったことはない)での生きた球を補給するのにめっちゃ苦戦しました。今でも初日の最後には顔面にボールをくらい、鼻血を出して泣いたり、やっぱり帰り道では喘息の発作が出てしんどい帰り道だったことを覚えています。初めて試合に出た時は代打で出て、運よくヒットは打てたものの、牽制で刺されて泣いてた記憶があります。めっちゃ負けず嫌いだったんでしょうね。

チームメンバーともうまくいった時期もあれば、ソリが合わなくチームプレーができてなかったことも多かったかもしれません。

野球以外にも、水泳、ミニバス、陸上、卓球、サッカーと、暇さえあれば体を動かしていました。その当時は、放課後も学校の校庭が使い放題で、一度帰ることもなくランドセルのまま、校庭で遊んだものです。(今は難しいんですね〜)

タイトルにもあるのは「学校での会話に全くついていけなかった」という悲しみがありました。この頃はゴールデンにドラゴンボールやドラえもんなどが放送されており、友達はたいてい翌日にはそのネタで盛り上がっていました。私はゴールデンには19:30には自分の部屋で勉強をするというような流れがあったので、みたいアニメもなかなか見れなかったのです。その反動が今来ているのかも笑(Prime videoにめっちゃお世話になってますw)

当時流行ったファミコン(ファミリーコンピューター)も、小学5年生から。周りはみんな持っていましたが、「うちは他とは違う。揃える必要はない」という考えでした。でも、この考えはとても大事だなと思いつつ、今の自分が元気である一つの要素でもあるのかなと思ってます。
(詳しくは個人ブログの方で「比較」について書いてみました)

本当に人見知りで怖がりで、自分から話すのが苦手な自分が、卒業近くでは「放送委員会」として、お昼の放送のMCとしてお話ししたり、「新聞係」として、毎日テレビや新聞のネタ、それにクラスで起きていることに目を向けて記事を書いて壁に貼っていたことを思い出します。
(当時はズームイン!をよくみていて、そこでの占いの結果をよく書いてましたw)

今思うと、今日まで自らが「発信できている(知ってもらいたいという気持ち)」や「自分の声で伝える」という原点が、小学校にはあったのかなと思いました。

それでも紆余曲折あった、大きなイベントは中学生に待っていたのです。


では続きはまた明日。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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