【短編小説】犬嬢と花の荷車の女2/3

 二〇二三年四月上旬のよく晴れたある日のこと、容子=荷車の女はふとん(ベッドではなく、ふとんなのだと私は信じる)目を覚ますと、うつ伏せになって、スマホを手に取った。時刻は六時過ぎ。
 グーグル検索で、検索をする。わざわざ入力の必要はない。検索の所をタップすると、スマホの予測変換は「荷車の女」「板橋の荷車」「荷車、最新」「犬女」などの候補を挙げてくれるし、グーグル側の検索履歴にも似たような文言が並ぶ。今回は、検索履歴から「荷車、最新」で検索をかけ、インスタグラム、Twitter、note、5ちゃんねる、各種ブログ、と、ほとんど虱潰しにチェックしていく。朝のエゴサーチ。時々頷いたり、ふっ、と失笑を漏らしたりしながら、気に入った記事にはいいねやスキを付けていく。それからふとんを出ると全裸になってカーテンを勢いよく開く。痩せた身体の節々に朝日が陰影をつくる。脂肪をそぎ落としたような身体は骨自体、細くできているようである。窓を全開にする。風が吹き込んで容子の髪その他の毛をなびかせる。一つ深呼吸をしてから、
「これ、ぶち込んじゃっていい」
「これさ、、ぶち込んじゃっていい?」
「これぶち込んじゃおっか」
「私には、どちらも同じこと」
「私にはどっちも似たようなもんさ」
「私には、全部同じに見えるけどねぇ!」
「パントマイム」
「業、かしら」
「わたし、SNSとか見ないんで」
「その子は、あんたのために生きたんじゃないし、あんたのために死んだんでもない。それはあんたも同じだろう?」
「もうすぐ花火、と思っていたら、祭りが終わってるのよ」
「すっからかんさ」
 一通り台詞の練習をし終えたときには既に九時を過ぎている。ぱん、ぱん、と二度ほど頬を叩いて気合いを入れると、服を着る。下着は付けない。邪道だと思っている。姿見に向かって腰をひねり、翻ってみたりする。ワックスを用いて、誇張に見えない程度にうねらせ、わざとらしくないように、入念に跳ねさせる。 
「よし」
 最後に鏡に向かって舌を出して、くるくる回してみる。目を見開いてみる。それから首を傾げる。いまいちしっくり来なかったのだろう。
 
 うわべの理由としては、荷車の、絵を描くこと。
 荷車を引き歩く理由である。
 
 嘘ではないが、うわべである。
 容子が荷車を引き始めたのは二〇二一年五月のこととされている。ということはもうおおかた二年に渡って荷車の荷を積み替えながら日々、板橋練馬を歩いたことになる。その間に様々な花、枝、果物、ゴミ、ガラクタが荷台を彩ったであろう。しかし私の知る限り、容子が絵を描いている所を目撃したという報告は今日まで一度もない。絵を描きたいというのは嘘なのだろうか? 嘘ではないまでも、もはや彼女の中でも形骸化した目的に過ぎないのではないかと私は推測する。
 では本当の目的とは?
 容子はこの二年間、わざと薄汚い服を着て、ゴミの山の荷車を引いたのではないか? 最初の目的は荷車の絵を描くことだったのかも知れない。けれども絵の具に汚れた服を着て荷車を毎日引いていれば自然と注目される。一目置かれる。それが単に気持ち良かったのではないか。
 またあるいは、もともと真面目でおとなしい見た目の人が、あるとき気まぐれに髪の毛を金髪に染めてみたところ、とたんに世間が生きやすくなった、というような話を聞いたことはないだろうか? もしくは自分でそのような経験をした人もあるかも知れない。そのような意味で、容子は荷車の女として歩くこと、生きることに妙味を見いだしたのではないか。
 そうして初めはちょっと注目されつつ距離を取られるだけだったものが、だんだん子どもらの間で噂になり、更にSNSでも人気になって行く。ちょっと有名なユーチューバーにも取り上げられる。そうする内にすっかりこの荷車の女としての生き方にハマってしまったのではないだろうか。
 そう考えてみると、この日容子が、星丘台地公園喫煙所前、いちょう並木と桜並木の十文字に交わる所で、「犬女」とされる白装束の女性と出会した時に取った言動の意味もおぼろげながら見えてくるのである・・・・・・

つづく(次回9/9更新予定)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?