【短編小説】水辺の、我らの王

 無数の
 と言いたいところだが、
 42匹
 黒い揚羽蝶、恐らくカラスアゲハと呼ばれる蝶の群れが、私の胴体に纏わっている。
 八月のことだった。
 私は独り赤沼公園の日陰のベンチに腰掛けていた。いつもどおり身体がだるい。だるいだるいと思っているが、実はもうこれが私の絶好調なのかも知れない。
 黒いTシャツはたっぷりのミネラルを含んだ汗に濡れている。絞れば滴る程であり、42匹のカラスアゲハの群れはこれを餌と錯覚、湧き水に濡れた黒い岩から養分を摂取する本能で、私に群がっているわけだ。
 揚羽蝶、一匹では可憐なようで、よくよく見ると気持ちが悪い。胴体の部分が如何にも虫である。二匹でも三匹でも同じだろう。けれども42匹ともなると、一匹一匹のカラダの個性は没却され全体として、象徴としてのカラスアゲハとなっている。根本の如何にも虫な部分は、青緑に輝く168枚の詩に隠されてしまうのだ。
 蝶に汗を吸わせ、藪蚊に血を吸わせながら、私はふと、目を上げる。公園で、噴水が始まったのだ。
 噴水の下は夏場だけプールとして解放されるらしく、午前十時の開始を待っていた親子連れ達が喚声を上げながら水を浴び始める。子ども達の多くは既に水着姿だ。様々な色合いが狭いプールにひしめき、水しぶきの中で声は長調の和音となり、やがて眩し過ぎる光が溢れ出した。一帯が、
 聖域に、
 なったのだ。
 涼しそうでいいな。
 私もあの和音と光の泉で、水を浴びたいな。
 けれども私には黒い蝶が纏わっているばかり。
 一計を案じて、次のように呟いた。
「ねえねえたー君。たー君も、水浴びしたい?」
 すると架空の五歳児は次のように答えた。
「たー君も、水浴びしたい」
「チョウチョはもういい?」
「うん。水浴びしたい」
「じゃ行こっか」
「うん。水浴びしたい」
 立ち上がる。カラスアゲハが驚いて散ったがまたすぐに群がってくる。
 腕を振り回して追い払うのだが、それでも構わず群がってくる。馬鹿な昆虫だ。たー君が私の腰の高さでかわいく笑っている。少し大きめの門歯がきらりと輝く。
 私はカラスアゲハの群れを纏ったまま無言で聖域に足を踏み入れる。ゼラチン質の感触のある見えない壁を、ぐにゅ、と額(ユニコーンの如く秀でている)で突き破り、真顔で闖入する。聖域の空気がひりつく。
 たー君の小さな手をひいて、私は独り、噴水プールの縁の所へ向かう。ズボンの裾をまくり、プールに、黒ずんだ足を浸す。妖精達が囀る聖なる泉に私の足の汚れが溶け清められていく。私は、ああ、と嘆声を漏らす。妖精達の散らす水しぶきが私にもふりかかる。ああ、すずし。ああ、だるし。蝶が散り、また戻る。
 妖精の親らがそろそろ白い目を私に向けることを遠慮しなくなる。
 すかさず私は青いパンツの男の子とピンク色の水着の女の子のちょうど中間地点に視線を合わせ叫ぶ、「たー君あんまりばしゃばしゃしちゃだめだよぉ」
 たー君の親ならまあ仕方ない、という声が聞こえるようである。何とか難を乗り切った。「わ、こら! たー君」なんてなことも言っておく。
 そんなパントマイムをして、二分か、いや一分だったろうか? 花柄の水着の勇敢な女児が私とたー君とを結ぶ線分の中心点(それは驚くほど正確に中心を捉えていた)に立ちはだかって、次のように問うたのである、
「たー君どこにいるの?」
 以て、私のかわいいたー君は水面の泡と乱反射する夏の光の中に、消失した。
 その時、隕石が降ってきた。
 
 かと思うような勢いで、プールに飛び込むものがあった。真実を口にして憚らない勇敢な女児もさすがに驚いて、身を竦める。他の子ども達からも悲鳴が上がり、親達は警戒心を顕わにした顔つきで、そのものの着水した地点を注視する。やがて水煙がおさまると、そこには一人の女が立っていた。白装束を着ている。大人にしては小柄な女。女は何か日本語を叫んだ、と私は記憶しているが、何と叫んだのだったか忘れてしまった。
 【わたしは頭がおかしい】、【普通ではない】と宣言するかのようなファッション、白装束、足首にはめられた数珠様のもの、加えてほとんど奇声に近い叫び。親達はこれを、新たな危険人物とみなしたようである。異物を排除しなければならない。力を合わせて危険から子ども達を守らなければならない。この場にいる子どもの、誰一人として犠牲にはしない。美しい連帯が即座にデビル同士の間に生じた。妖精達は身をこわばらせながらも、この風変わりな女の顔を畏れと好奇心とを以て見上げている。たー君を喪失した私には、未だにカラスアゲハが吸い付いており、親達の連帯の埒外にある。168枚のブラフに守られ、静かに成り行きを観察する。
こんにちはぁ!
 と白装束の女は叫ぶ。「これからおおがすいよくしまーす!!!
 私には彼女が何を言っているのかすぐには理解できなかった。誰にも分からなかったに違いない。
 非常識じゃないか。危ないじゃないか。などの声がちらほら上がり始める。けれどもこれらの言葉は白装束の女に対して直接に放たれているのではなく、デビル同士の連帯を確かめ合う手段として、デビル同士の間でひそひそ声として交わされているに過ぎない。そうそう、非常識なのだ、危ないのだ、だから、私達はこれからこれを排除しなければならない。さあ、私達は仲間です。仲間ですね。団結! ――風、オキシトシンの風、ほとんど熱風のようなオキシトシンの風が吹き荒れるが、168枚の羽の内側にある私には届かない。私以上の異物女の登場により今や誰一人としてカラスアゲハの男に注目する者はない。たー君は既に残り香さえ消え、私という独りのオブジェは水を涼しがりながら静観・傍観する。
 白装束の女がプールに仁王立ちしている。親達のうち、いったい誰が口火を切るかの譲り合いとも押し付け合いとも取れる空気感がだんだん濃くなっていきやがて飽和点に達し、ひとりの雄親が、一歩前へ出た。
「あなたねぇ、こんな小さい子ども達がいる所へ――」
 その時、きこきこ、とやって来た。別の女が、荷車を引いて、やって来たのである。汚い服を着た、小さな女。
 カラスアゲハの男→白装束の女→そして今、荷車の女までやって来た。【まさかこの女乞食まで水浴するつもりなんだろうか】【なんてことだ。】【ここは聖域の筈なのに!】【六枚の羽を持つ妖精と、迸る翼を持つ者達の、ここはサンクチュアリなのに、病気がうつりそうだ!】オキシトシンはもはや沸点に達し、ごぼごぼ吹きこぼれ、泉に満ちていく。水が、偏愛で、ちょっとどろどろし始める。そのどろどろし始めた水の感触を足指をこすり合わせて私は確かめる。ぬるぬるだ。戦争が始まる。だるいことだ。子どもを守らなければならない。なんてだるいんだろう。が、たー君を失った私には、全てがひたすらに涼しい。168枚の羽が真に隠しているのは虫の本体なのではなく、私自身の個性と特性であるのかも知れない。ファッションだ。カラスアゲハの男というインパクトに秘匿された私の自我は今や絶対的な安全地帯・シェルターの如き領域の中にあり、一切の説明を拒絶して安穏と全てをだるがっている。ああ涼しい。ママ、涼しいよ。なんて涼しい世界なんだ。パパも、ありがとう。全てのじいじと、全てのばあばに、ありがとう。と、一介の置物が呟いている。
「これから王が水浴する。王は独りで歩くことができない」
 と、荷車を引いてきた女が言っている、低くかすれた声で、「王を運ぶのを、どうか、誰か、手伝って欲しい」
「王? 王様なんてどこにいるの?」
 と先ほどたー君を滅ぼした勇敢な女児がここでもまた勇敢な問いを問う。するとその肩を後ろから押さえて、恐らくこの女児の雌親と思われる者が、
「りんちゃん、知らない人としゃべっちゃだめ」
 とたしなめる。知らない人というより、本当はおかしな人とでも言いたかったに違いない。
王様は、あそこにぶち込まってるんだよ! あの荷車に! わたし達は、王様を水浴させに来たんだよ!
 と、これは、白装束の女が言う。言いながら荷車の方を指す。「あの荷車に、王様はいるよ!」と言う。叫ぶ。この女、やたら滑舌ばかり良い口で、何故だかずっと太字で叫んでいる。これでは仮にまともなことを言ったとしてもろくなコミュニケーションにならないだろうに。
 それから、もぞもぞと荷台で蠢く気配があり、低い、うなり声があった。そのうなり声は蛇のように長かった。やがて、身を起こしたのは王だった。王は大きな身体をしていた。親も子も、そうして私も、はじめ、その大きさに目を瞠った。王の二メートルを超えると推測される身体は痙攣しており、全体に、干からびていた。何より、王の背には翼も羽もなく、一目、人間の王だった。乾きすぎた唇はめくれ上がって歯茎がむき出しになっており、やたら丈夫そうな黄色の歯列は強く噛みしめられていた。まぶたも反っくり返って、かっと目を見開いているのだが、白く濁った瞳は明後日及び明々後日を向いており、既に今日の何を見るようでもなかった。王が震える。うなる。妖精数名が悲鳴を上げ、背に生えた六枚の羽をぶるるるるるん! と震わせた。
「これから王が、水浴する」
 と荷車の女が繰り返す。
水浴しまーす!!!
 と白装束の女も叫ぶ。
 荷台で王は痙攣している。あたかも笑っているようである。口から、大量の液体が吹きこぼれる。かまわず二人の侍女達は左右から王の腕を抱え、王を荷台から下ろそうとする。けれども王の大きな身体を小さな二人の力では支えることができず、王が地べたに転がった。袋状の、皮膚が数か所で破れて夥しい膿が散る。
 この瞬間に、親達は、撤退を決めたようだ。それぞれの子どもらの手を取って、翼を迸らせると、空へ、退却した。しばらくの間、くるくると上空を旋回していたが、やがて、一匹残らず見えないところまで去って行った。
 このようにして聖域は、人間の王に譲られた。
 私も飛んでいくべきか、とも思ったが、私には翼がなく、168枚の羽は私の羽ではなく、仮に私のものであったとしても、蝶の羽を何枚集めたところでヒトが飛べるわけもない。もともとブラフなのだ。どうせファッションなのだ。仕方がないので私はせめて邪魔にならぬよう息を殺し、いっそう静かなオブジェであり続ける。
 二人の侍女が地べたの王を助け起こそうとするのだが、あまりにも王は大きすぎ、侍女は小さすぎた。全ての妖精とその親らが去った泉のふちで、いつの間にか復活したたー君だけが、二人の侍女の力になろうと、王の腰の辺りで奮闘している。けれど、たー君はそもそも五歳児で、その上架空の存在なので、何の力にもなり得ない。
 たー君が泣いている。
 その涙の意味が私には分かりかねる。
 私は王や、二人の侍女を助けるというよりは、たー君に力を貸そうという意味合いで、歩み寄った。王の、膿に滑る両脇を支え、「足、の方、持ってもらって・・・・・・」二人の侍女達と協力し、既に死んでいる王を泉に浸した。なるべく丁重にはしたものの、結果としてほぼ、ぶん投げるようなことにはなった。
 王の乾いた身体が瞬く間に水を吸って、吸い尽くして、泉が枯れた。それから王の死骸を荷車の枯れ枝と枯れ葉とその他ガラクタの上に安置した。というかぶち込んだ。荷車の女が荷台にあったガソリンをぶっかけ火を付ける。王が燃える。荷車ごと燃え上がる。
「荼毘」
 と荷車の女が言う。
荼毘ね」 
 と白装束の女が追従する。
「荼毘か」
 なんて、知った風なことを私も言っておく。いつの間にか全てのカラスアゲハはいなくなっており、従ってこの物語における一切のアイデンティティを喪失した私は、さてどうやってこの者らとの一過性の連帯に区切りを付けるべきなのか、答えの出せぬまま、ひたすら王と荷車が燃え上がる様子を眺めていたのである。

※まで、12話、短編集『犬嬢と花の荷車の女』完


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