【短編小説】れもニキ4/5

 司法書士試験は例年七月の第一日曜日に行われる。東京の場合、毎年どこかの大学の講義室を借りて試験会場とされるのだが、2022年度は、早稲田大学だった。

 が、試験日、抄造は会場を間違えた。早稲田キャンパスを《西》早稲田キャンパスと錯覚したのである。例年に比べて人が少ないようだ、と思いながら、入り口を探して広大な《西》早稲田キャンパスの周囲をぐるりと一周してみたが、試験をやろうという雰囲気が全く感じられないので、受験票を確認してみたら、《早稲田大学早稲田キャンパス(8号館・14号館・15号館・16号館)東京都新宿区西早稲田×××》となっている。ああ、俺は、住所の所の《西》早稲田につられて、早稲田キャンパスを《西》早稲田キャンパスと誤認したのだな、と抄造は思った。グーグルマップで調べてみようと、スマホを開くとメールが来ている、
【いよいよ本番だね。頑張ってね。あんたの試験も、お父さんの手術も、うまくいくように祈ってます】
 マップで見てみると、ちょっとギリギリではあるが、なんとかまだ間に合わないこともなさそうだった。どうしようかなと思いながら、一応ふらふらと、早稲田キャンパスの方向へ足を進め始めた。
 曇り空だった。曇っているなぁ、と抄造は思った。
 と、後ろから、慌てたような声で、「あの、すみません」
 女の声がした。抄造が振り返ると、女は、
「あの、西早稲田キャンパスではなくて、早稲田キャンパスにはどう行ったらいいかわかりますか?」
 真一文字のふざけたような短い前髪が汗で額に張り付いている。その真一文字の下の、新しいスペースのような鼻梁を、じりじりと虫が這う。
「ああ、僕も今グーグルマップで調べただけなんですが、この道沿いをまっすぐ行って、・・・・・・とにかくこの大通りを道沿いに行けば、着くようです。それが一番迷わずに済むと思いますから。20分ほどかかるでしょう」
「ありがとうございます」
「いえ。まだ間に合うと思いますから」
「え?」
「試験でしょう。頑張って下さいね」
「あ、はい、ありがとうございます」
 と女はちょっと微笑んで、小走りで進んで行った。彼女も抄造と同じ間違いをしたのだろう。確かに勘違いしてもおかしくはない紛らわしさではある。けれど、寄りにもよって司法書士になろうというものが引っかかって良いトリックではない。住所が《西》早稲田の早稲田キャンパス。こんなものに引っかかっているようでは、かわいそうにあの女はとうてい、うかるまい・・・・・・。それでもあの女は諦めていなかったな。俺は、どうしようか、と抄造は思う。あの女の必死さに比べて、どうしようか、などと思っている時点でもう答えは出ているのだ。行けばまだ間に合うのに。どうしようかも何もない筈なのに。女が走って行く。抄造は見送っている。一応前へ向いて歩いては行く。前へ。目的地へ。早稲田キャンパスへ。けれど、それはもう抄造にとって前ではなかった。もう前も後ろもなかった。早稲田キャンパスに行ったところでもう抄造には何もない。《西》早稲田キャンパスを一周しながら、実は早い段階で気付き始めていた。やっちまってるなと。本心では分かっていた。五年前、勉強を始めた時点で分かっていた。絶対にうからないと。記述問題の時間が足りないんだから。それを認めると苦しいから、本番には何か不思議な力を発揮して、合格するかも知れないと思おうとして択一の練習ばかりに逃げ続けたんだから。本当の本当の心の中では、絶対にうからないと知っていた。それに、うかったら、どうだというのだろう? 今更、司法書士になって、いったい何がどうなるんだろう? 別にやりたくもない仕事なのに。誰もいないのに。もう手遅れなのに。何も、かも、生まれつき、手遅れだったのに。
 抄造が早稲田キャンパスを素通りして目白通りを高田馬場へ向かう途中、場違いな幼児がひとり、道ばたでシャボン玉を吹いて遊んでいた。ふと立ち止まってその様子を見ていると、他にも三、四人の子どもらが集まってきて、仲良くシャボン玉を吹き合い始めたのである。男の子も、女の子もいる。みんな、何の道具もなく、丸く突き出した唇から直で泡を作り出している。それぞれの背中から、羽が生えている。六枚ずつ、生えている。羽が、猫がなんとなく尻尾を動かすような感じに、動いている。そうしてみんな、抄造を意識して、時々ちらちらと抄造の方を見るのである。羽が、無意識のように、動かされている。風が来る。匂いがある。風が、シャボン玉を抄造の方へ送るようである。みんな、かわいらしく笑っていた。それぞれに、なんとなくみたいに、羽を動かしていた。あたたかい風が来る。匂いがある。子どもらの口から風に乗り吹き上ってくるシャボン玉の一つ一つが水晶体に充満する虫達と抵触し、世界がこれでもかと歪む。ぼよぼよ、あるいは泣いているのかも知れない。世界はぼよんぼよんである。「しゃぼよんだま」
 呟いてしまってから、ああ、本当にだめなようだと自然に思えて来た。なので、開店直後の食材売り場で、両腕に抱えられるだけのレモンを買った。丈夫そうな、茶色の大きな紙袋に62個のレモンを詰めてもらおうとしたが、入り切らないので、サランラップを買って、ぐるぐる巻にして一つの大きな、黄色い球体にして、それを抱きしめるようにして、山手線に乗った。席を空けてくれる人があった。座った。黄色くて禍々しい球を膝の上に乗せ、抱き支え、窓外の景色を眺めながら、あれは始祖鳥の群れであったかと思いついた。毎回俺は始祖鳥にやられるのだな。今回はひとりでやられたのだな。いや、始祖鳥ならば六枚も羽を持つまい。ならば鳳凰の幼生か。鳳凰の幼生だって、六枚も翼を持つまい。いやどうなんだろうね。トンボだね。何を考えているのか、自分でも分からなくなった。それから山手線を降りて歓楽街へ歩いて街でレモンを思い切りぶん投げる。つもりだ。エストロゲンの塊みたいな女がいい。どこを狙おうか。ほおずきの実を口に含んだような女がいい。それでいて、家畜の匂いのする女。真面目には身体を洗わぬ女。俺はさくらんぼでも含んでくれば良かった。いやおこがましい。俺にはグミくらいが適当か。いちごグミでいい。頬か。うまくめりこめばいいな。クリティカルヒットすれば、酸漿の実がその厚ぼったい唇から飛び出るのだ。同時刻、どこかの海、人知れぬ深海では、溺れ死につつある人魚の口から昇る青い泡。無関係だ、快哉を叫ぶ俺の口からは大量の、そう大量がいいな、おびただしいのがいいな、いちごグミが、ごぼぼとこぼれ落ち、転がって、先に転がって側溝の蓋の上に止まっている酸漿の実に俺のグミの一つがこつん、いや、それよりはもっと柔らかい音だろう、酸漿の実といちごグミとがちんまり並ぶと、やっとエストロゲンが悲鳴を上げる。その厚化粧の下には、いったい誰の顔があるんだい。負けじと俺はもっとアドレナリンの快哉を叫びながらまた一つ、ラップの破れ目からレモンをつかみ取り、今度はもうどこでもいい、ふりかぶり、しゅん、投げる。太ももの裏にでも当たればいい。つかみ取る。叫ぶ。投げる。めり込む。つかみ取る。叫ぶ。投げる。犯罪者なのだ。テロリストなのだ。だから冷遇されて当たり前なのだ。冷遇される理由が欲しかったのだ。やったじゃん。理由できたじゃん。バランスのために、一応男にもレモンをぶち当てておくじゃん。なんだてめぇこのやろう。東京弁で怒られるじゃん。《歓楽街で、三十代後半から四十代と見られる男が、通行人にレモンのようなものを投げつける事件が起きました。》NO。レモンのようなものじゃぁない。これはレモンだ。でぃすいず。またか、またか。まただよ。また、じゃない。俺にとってはたった一回の人生だったんだよ。とでも思おうか。叫ぼうか。やめておこう。氷河期なんて関係ない。嘘、嘘、何が六本指だぃ、何が哺乳類だぃ始祖鳥だぃ、前世も来世もあるものか。一人で死にます。父の手術はうまく行くだろうか。俺が一人で勝手に弱いのだ。俺が自分でレモンにしたんだ自業自得も糞もない。
 
 大量の爆弾を抱えて、その街で、結局抄造のしたことと言えば、三時間四十二分の間、目を伏せて、彷徨った、というだけのことだった。
 仕方なくまた山手線に乗った。東武東上線に乗り換えた。板橋まで帰って来た。
 その様子が、山手線の中、東上線の中、それぞれSNSに上げられて、れもニキ、という屈辱的な呼称と共に、ちょっと話題になった、というだけ。のこと。いや話題にすらならなかった、というだけのこと。

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