【掌編小説】鮎を食べたかった夫婦

 世間の夏休みと紅葉の季節の境目、九月半ばを狙って四、五日の温泉旅行をするのが私達の慣習だった。
 私達というのは、私と、当時婚姻関係にあった女のことだ。仮に名前を凍子とでもしておこう。
 この女とは結局別れることになるのは、前にも一度小説にしたし、この女と私のひととなりもある程度はそっちで書いたことだから、ここでは詳しく述べまい、ただ二人ともが、何事にも「冷めていた」とのみ認識しておいて頂ければ足りる。わざわざ読む必要もない。 別れたのが七年前のことだから、今日書こうとするのは八年前の出来事ということになる。つまり離婚に至る前年の話だ。
 鬼怒川、伊豆、草津、都内から電車に乗って二、三時間で行ける範囲の温泉地で有名なのが幾つかあるが、例年私達が行くのは決まっていた。具体的に土地を特定する必要がないからどこのと明言はしないがとにかく温泉に旅行に行った時のこと――、
 そもそも寂れた温泉街のオフシーズン。廃旅館も目立つ一角に、朝食と夕食がついて一泊あたり一人五千円にも満たない安宿があって、確かあの年は五泊六日で行ったのだった。
 五泊六日の間、特に何をしようということもなく、初日に一応のような散歩を小一時間程した他は、八畳の和室に寝起きして、川の流れる音を聞いて、山の景色を見て、それから持参した本を読んだ。少し疲れると昼と夜の二回程、各自のタイミングで温泉に浸かった。戻って来るとちょっとまた景色を見て、本を読んだ。相手が何を読んでいるのか、知らない。ほとんど口も、聞かない。
 せっかく旅行に来て黙々本を読むなんてもったいない気もするが、私にはこの旅行が一年の中で最も楽しみなことだったし、多分凍子も・・・・・・さあどうだろう、満足しているように思っていたが、今となってはそれも怪しい。
 そんなわけでほとんどを部屋の中と温泉の行き来だけで過ごすのだが、五日目、つまり翌日には東京に戻るという日の昼に、連れ立って、ちょっと出かけた。
 鮎・・・・・・。あゆ。
 塩焼きが食べたかった。
 元来、凍子も私も何事に対しても興味が薄く、食にも拘りがなかったが、付き合い始めた当初に、魚の中で何が好きかという取ってつけたような話題の中で、たまたま会話のテンポがちぐはぐになり、「あゆの塩焼き」「あゆの塩焼き」と二人の言葉が重なって、和音のようになったことがあった。それは私達が初めてわざとではなく笑い合った瞬間で、あんなに笑ったのは、その後にも二度となかったというくらいに、・・・・・・静かな喫茶店で、他の客がちょっと怪訝がるくらいに長々、くつくつ、二人して笑ったのだった。
 鮎、探せば都内でもどこかで出す店はあるだろうし、スーパーでも買えるだろうし、通販という手もあるだろうが、それでは駄目で、旅行先の小さな店の、軒先みたいな所で串に刺されて炭火焼きになっている鮎、ぽろぽろこぼれるくらいに塩をまぶされた鮎がいい、ようやく笑いやんでから私がそう言うと、「本当に、そうですね、・・・・・・子どものころ、鮎なんて、旅行に行った時にしか食べさせてもらえなかったから、楽しい思い出として舌が記憶してる、の、かな」と、まだちょっと笑いの残った赤い顔で、初めて敬語ではなくなって、凍子は言った。私はその顔をかわいいと思った。
 そんな思い出があるから毎年の旅行で一回は鮎を食べることになっていた。特に約束したわけでもないが、旅行の三日目とか四日目には決まって鮎を食べた。
 さてこの年も、・・・・・・結果的に最後の年になったわけだが、・・・・・・、私達は連れ立って、そういう店がある方へ歩いて行った。ところが着いてみると、目当てにしていた店はやっていなかった。定休日というのではなく、潰れていた。嫌な感じに、潰れていた。 
 本当に嫌な感じがした。私達はガラスの割れた店の前に黙って一分か二分ほど立ち尽くしていた。私は木偶になったようだった。横で凍子も木偶のようだった。割れた窓の向こう、暗い店内に椅子が転がっていた。こんな場合、「どうする?」と聞いても凍子は明確に応えないのが分かっているから、(実は私にだって本来明確な意思はないのに、)「こうしようか」、と私の方から言うのが常だったが、この時は私がいつまで経っても何も言わないものだから、凍子の方から、「潰れちゃったんだね。どうする? 今年は・・・・・・」
 今年は? 今年は何だと言うのだろう? 既に、完全にとまでは行かないが、我々の婚姻関係は末期にさしかかりつつあるというのに、そうしてそのことを互いに薄々認識し合っているというのに、鮎を食べに行こうなどと明確な会話なしに宿を出て来て、あの時は滅茶苦茶笑ったねとか、あの時から敬語じゃなくなったよねとか、そんな思い出話を蒸し返すこともなく、ただ黙然と鮎の塩焼きを食べることが今年は、今年こそは、どうしても必要だというのに、今年は何だと言うのだろう? 今年は何だと言うつもりなのだろう? 今年は、今年は・・・・・・、その先を凍子の乾いた口が言い渋っているうちに、
「他の店探してみようよ」
 自分でも驚くほど強い口調になった。視界の右端で凍子がハッとなるのが分かった。私は店内に転がった椅子を見たまま、トーンを落として、
「鮎、食べようよ。他の店、探そうよ」
 と言いなおした。
「そうね。他のお店も、あるよね」
 凍子が珍しく笑ったので、私も久しぶりに、笑った。
「あるよ」
「あるよね、きっと」
「ある」
 なかった。
 了 

      

   

   ※※※あとがき※※※
『鮎を食べたかった夫婦』を読んで頂き、ありがとうございました。
小説の主人公はキャラ設定の都合上「わざわざ読む必要もない」などと嘯いておりますが、
著者としては関連作品→【掌編小説】燃えるいちょう、燃えない夫婦
も併せて読んで頂けたなら、とても嬉しいです。
その後、この夫婦が別れることを決めた日のお話です。
未読の方は、是非!m(_ _)m

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