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短編小説「憧憬の姉妹」【2000字のホラー】

アパートの錆びた階段に立っていた。
どうやって帰ってきたのか記憶にない。延々と夢を見ている気がする。母が死んでから。

いつまでも子供みたいな母だった。
わがままで天真爛漫で。俺のほうが親なんじゃないかと思うくらい。
幼子が犬の子を欲しがるみたいにまだかまだかとせがんでいた孫を抱かせてやることは結局できなかった。

終電後の住宅街は底無しの海みたいで、寄る辺なさを嫌でも自覚させられる。

世界が縦に回転し始めて、手すりにもたれた。ポケットの中の小瓶が柵に当たって硬い音を立てる。実家の仏壇の脇にあった、血液を結晶にしたような半透明の小石が詰まった瓶。形見の代わりに何となく持ち出し、そのまま忘れていた。

生温い夜気に撫でられ顔を上げると、闇に半身を溶かすようにスーツ姿の男が立っていた。

何となく挨拶をして、男は隣の部屋の住人だとわかった。近所付き合いもないので隣人の顔などよく知らない。

「具合が悪いんですか?」
男は人のよさそうな顔を傾ける。
「少し眩暈がして……ただの疲労です」
「お腹は空いてますか? 良かったらうちで食べてください。娘も喜びます」

返事を待たずに男は部屋に入ってしまう。仕方なく俺はふらふらと上がり込む。

「パパ、お帰り!」
青空の下の向日葵みたいな子供が男の脚に抱き着いた。「お隣さんだよ」と紹介された俺はぎこちなく笑いかけたが、子供は父親の陰に隠れてしまった。

男は食事の用意をすると言って奥に行ってしまい、俺は突っ立ったままぼんやりしていた。

ズボンの腿の辺りがちょいちょいと引っ張られる。

「おままごと、しよ?」

半分澄んだ茶色い瞳が、ためらいがちに、しかし強い意志を持って俺を見上げている。

「俺と?」

子供は少し唇を尖らせてはっきりと頷く。子供の相手などろくにしたことがないが、俺は観念してカーペットに座った。

「ユウちゃんはアオイの妹ね」
「ユウちゃんって、俺のこと?」
「そう」

アオイは木の皿と先の丸いフォークを持って俺の脇に立った。

「ユウちゃんは赤ちゃんだから、お姉ちゃんが食べさせてあげるね」

空っぽの皿が顔に近づいてくる。

「いや、あの……アオイ、ちゃん」
「お姉ちゃん、でしょ?」
「お、お姉ちゃん……」
「はい、あーんしましょうね」

戸惑いやら恥ずかしさやらで逃げ出したくてたまらなかったが、少女を傷付けるようなことは言えなくて、仕方なく口を開けて空気を咀嚼した。

「おいしい?」
「おいしい、です……」
「もう! 赤ちゃんはそんな風に言わないでしょ!」
「う……、ありがと、お姉ちゃん」

アオイは目を輝かせた。

「ユウちゃん、かわいいね。もっとかわいくしてあげる」

丸っこい手にはいつの間にかピンク色の玉の付いたヘアゴムが握られていた。

楓の葉くらいしかない両手が、べたつく俺の頭に躊躇なく触れる。

「駄目だよ、汚いから……」
「大丈夫。ユウちゃんは、ばっちくなんかないよ」

何故だか涙が溢れそうになって、俺はじっと前を向いて唇の内側を噛んだ。

台所から出てきた男は、俺の顔を見て噴き出した。

「ずいぶん可愛くなりましたね」
その笑いは作り笑いでも嘲笑でもなかった。

「そうでしょ。アオイの妹なの」

不思議な柔らかさの短い腕に包まれる。温かい。

頭の中で何かが砕ける小さな音がした。

えへ。
えへへ。

身体が勝手に笑っている。

「お姉ちゃん、だいすき……」

口が勝手に言葉を吐いた。

アオイはわずかに目を丸くして、それからすぐに笑顔になった。

「アオイもユウちゃんだあいすき。だってアオイの妹だもん」

俺は今までに感じたことのない充足を覚えていた。抗えなかった。

えへへへ。
えへ。


地に足がつかないまま自分の部屋に帰った。

薄暗い鏡の奥で、髭の生えかけた生気のない男が、女児にしか似合わないようなヘアゴムをぼさぼさの頭に着けて薄笑いを浮かべていた。

ヘアゴムを髪ごとむしり取って鏡に投げつけた。羞恥と嫌悪が胃を焼いた。

どうにか呼吸を整えた後、排水溝に落ちたピンク色を震えながら拾い上げ、石鹸で丹念に洗った。


翌日の真夜中過ぎにも男は廊下に佇んでいた。
俺は再び誘われ、痺れた脳でままごとを始めてしまう。

お姉ちゃんはくったりとしたウサギのぬいぐるみを俺に抱かせた。

「ユウちゃんの赤ちゃんね」

ふわふわとした多幸感に包まれたが、理性を振り絞ってヘアゴムをポケットから出した。

「汚しちゃってごめんなさい。これ、お詫びっていうか、お土産に……」

例の小瓶を一緒に渡す。思い入れのあるものでもないのだから。

ありがとうと笑って、お姉ちゃんは血の色の小石を今日の夕飯にした。

玄関が場違いにガチャガチャと鳴った。お姉ちゃんと顔を見合わせていると、どこかで見たような白髪の男が侵入してきた。

「あんた、203号室の結城さん? 困りますよ、こんなところにいられちゃ」

俺の中で小さなユウちゃんと大人の結城が競い合い、極彩色のモザイクを形作ったが、お姉ちゃんが「ばいばい」と手を振るので結城が表に出て、俺は釈然としないままお姉ちゃんから引き離された。

浅瀬の魚が身をよじるように、下腹部がぬるりと動いた気がした。


しばらく経って、いつの間にか日曜だった。

朝寝の夢をかき乱す、物音と人の声。廊下からだ。

「無理心中——」
「別の男との子が——」
「早く祓って——」

のそのそと起きて玄関から顔を出す。隣の部屋の前に、先日の白髪の男、和服とも洋服ともつかない奇妙な白装束の人物、それに幼子を抱いた若い女が立っていた。

——お姉ちゃん。

そいつらを押し退けて部屋に駆け込む。

裸足に感じる床のざらつき。
黄ばんだカーテンを透かして射し込む曇天の薄日。
何も無い床に散らばった、血の色の結晶。

どこにやった。
お姉ちゃんを、俺の家族をどこにやったんだ。

白服が喚きながら短い杖を突きつけてくる。
その後ろで、ユウ、と女が幼子を呼んで引き寄せる。

ユウちゃんに伸ばした手が打たれる。痛みは感じない。

「取り憑かれて——」
「子授け石——」

転がるように廊下に出て、逃げる。
この子が消される前に。

腹が重い。
下腹部にお姉ちゃんが巻き付いている。
胎動を感じる。

「ユウちゃん」

お姉ちゃんが笑いかける。
俺も笑い返す。

当たり前の幸福が腹に詰まっていて、重い。

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