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僕らは川の藻をそのまま口に入れたりはしない

 川の浅瀬に鴨がいた。頭を水平に下げ、緑色に濁った水の中で下嘴を細かく動かして食物を摂っていた。

 僕はあの鴨と同じことができるだろうか。藻と泥と微生物の入り混じった生臭い水をそのまま口に含む。余分な水だけ吐き出して、固形分を飲み込むのだ。得体の知れない菌や虫や動物の糞と一緒に。

 病原菌や寄生虫を恐れているから僕は川の水を口にしない。家に帰ればもっとずっと清潔で安全な食べ物と飲み物がある。当たり前のようにある。だがそれは現代に近い時代に生きている人間の一部というごく限られた生物集団の中での常識に過ぎない。

 子供の頃に住んでいた地域では、畑に肥溜めがあった。人の糞尿を肥料にして畑に撒くためのものだ。もう使われてはいなかったと思うが、僕らの親や祖父母世代は使っていたかもしれない。お腹に寄生虫がいるのもそう珍しいことではなかったはずだ。

 清潔なのは良いことだ。病気になりたくはないし、近しい人が命を落とすのも嫌だ。潔癖であることによって僕らは死を遠ざけた。子供の死亡率は下がり、平均寿命は伸びた。

 それはもちろん喜ばしいことだ。僕らには生き延びる本能があるのだから。しかし引き換えに失ったものもあるのではないか。命を保つことに比べたら些末かもしれないが、失われた何かが今を生きる僕らの心を飢えさせているのではないか。

 死が日常ではない世界では、一つ一つの命が重い。かけがえのない命は何より大切だと言われる。しかし人類の歴史を通じてずっとそうだったわけではない。ちょっとした怪我や病気で簡単に命が失われていた時代、人間がいくら命を大切にしたところで命の軽さはどうにもできなかった。だからこそ命よりも大切なことがたくさんあったのではないか。

 命あっての物種ではあるが、命さえあればどんな状況でも満足できるほど人は単純ではない。

 富豪が富を奪われまいと疑心暗鬼になるように、限りなく重くなった命を手放さないよう常に神経を張り巡らせ、命を奪った不運の責任を誰かに見出そうとし続けるのは、果たして幸福なのだろうか。そうして遠ざけられた死を目の前にした時の混乱と苦悩はかつてないほど大きくなっているのではないか。

 いくら神経症的に病と死を排除しようとしても、人がいつか死ぬという節理は変えられない。子孫を残して個体を入れ替えながら命をつないでいく生き方を遠い遠い祖先が選んだからだ。死を避けようとする潔癖さが今を生きづらくしていないだろうか。命をどう使ってどう死んでいくか考えることから逃げていないだろうか。

 自分の死というタイムリミットまでの時間を後悔のないように生きようと思ったら、なりふり構っている場合じゃない。そういう必死さや開き直りを失うと、他人の顔色ばかり窺って、自分の人生を生きられなくなるのではないだろうか。

 僕のような神経症的人間は、失うことを恐れ過ぎているのかもしれない。健康や快適さや命を。3秒ルールとか言って落ちたものを口にできるくらいの大らかさを持ったほうが良いのかもしれない。

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